えー、なんでしょう、復活した途端に、誰も読みたがらないような記事書いたりして、珍獣の館は本当に人間に優しくありません。
葛飾区内に郷土と天文の博物館という施設があります。葛飾区の郷土資料が展示されており、プラネタリウムがあったりして、楽しいところですよ。夏は涼しいのに避暑に最適だし!
◎公式サイト:葛飾区郷土と天文の博物館
http://www.museum.city.katsushika.lg.jp/index.php
郷土資料だけ見たい場合は大人100円と非常にリーズナブルです。プラネタリウムは1回の上映につき350円だったでしょうか。わたしはここの年パスを持っているので、暑くて死にそうな時はバスに乗ってふらっと立ち寄って涼んでます。昭和30年代くらい暮らしを再現したコーナーでは、ベーゴマ、けん玉、お手玉、おはじきなどで遊べます。
さて、ここの「葛西城の時代」というコーナーの片隅に、2014年8月現在、『鎌倉大草子』という古文書が開いて展示されてます。
何が書いてあるのか気になったので、涼みに入ったついでに解読してみました。以下は文字起こししたものです。
と見へけれとも成氏より憲忠に下知ありて強被加折檻
更にこれを用ひす如何様東国の大事此時にありとや
おもひけん憲忠の舅扇谷入道道朝長尾左衛門入道
昌賢ひそかに上州より下り一味の族を催し種々の
計略を廻しける此日頭御所方管領方とて二ツにわかれ
不快にてありし御所方の人々馳集上杉長尾等の陰謀
すてに発覚せりしはらくも油断に及は味方の一大
事なるへし急速に憲忠を退治して関東をしつむ
へしと成氏をすゝめ申けれは公方ももとより庶き
する所なれは尤と喜ひ給ひ結城中務大輔武田右馬助信長
里見民部少輔義実印東式部少輔等三百余騎相催し
享徳三年十二月廿七日深夜鎌倉西御門館へ押寄て時を
つくる憲忠も俄の事にて用意の兵もなかりけれは左右無
乱入ける程に憲忠主従廿二人切先をそろへて切て出防
き戦ひけれともかなはすして一人も残らす討死す憲忠
の首をは結城民部家人金子祥永同弟祥賀討取て御所へ
参り実検に備へける憲忠管領なれは庭上に置へからす
とて畳をしき其上に祥永兄弟をすへられ御実検の
後金子に多賀谷といふ名字を下され常陸国にて所領
数多給り此子孫代々家老となり公方へ出仕の時は陪臣
解読したのは開いてあるページだけなので少ないですが、こんな感じです。写真あったら「あそこに展示されてる、あれか」ってわかりやすいんですけど、撮影は許可されてないような気がするのでやめておきます^-^;
内容は「御所方」と「管領方」の争いに関するもののようです。
・御所方の登場人物
(足利)成氏:公方様
結城中務大輔(結城民部):家来の武将
武田右馬助信長:家来の武将
里見民部少輔義実:家来の武将
印東式部少輔:家来の武将
金子祥永:結城民部の家来
金子祥賀:祥永の弟
・管領方の登場人物
(上杉)憲忠:関東をおさめている大名
扇谷入道道朝:憲忠の舅で武将
長尾左衛門入道昌賢:憲忠の仲間の武将
解読したページだけでは争いの原因はわかりませんが、管領方が御所方に対してよからぬはかりごとをしています。
それを知った御所方の公方様こと成氏が、やっつける口実ができたとばかりに鎌倉にある憲忠の屋敷を襲撃しました。
深夜の急襲で、兵の準備もなかった憲忠は、あっさりやられて首をとられてしまいました。
憲忠の首をとった金子祥永・祥賀の兄弟は、公方様から多賀谷という名字をたまわり、常陸国に所領を沢山もらいました。
見ておくと面白いポイント
郷土と天文の博物館にある『鎌倉大草子』は、手書きの草書体で、くねくねっと書かれています。見に行くことがあったらその筆跡を見ておきましょう。
次に、早稲田大学の古典席データベースにある別のテキストも見てみましょう。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko20/bunko20_00414/index.html
全体を読みたい人は↑ここから。
わたしが文字起こしをした部分は↓この部分に相当します。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko20/bunko20_00414/bunko20_00414_p0052.jpg
このテキストも手書きのようですが、楷書体なので普通に読めそうですね。古文書はこうやって手書きで書き写されるものなので、いろんなバージョンがあります。そこがまず面白いでしょう?
さらに細かい点を見て行くと、表記の違いや書き間違いがみつかったりします。
たとえば郷土と天文の博物館版(以下:葛飾版)だと「上州より下り」と書いてありますが、京の都から(あるいは憲忠がいる鎌倉の屋敷から)見て上州はかなーり下のほう(田舎)で、そこから下るっていうのは「あれ?」と思う部分です。*1
同じ部分を古典席データベース版(以下:早稲田版)で見ると「上州に下り」と書いてありますから、こっちが正解かもしれないですね。
ほかにも、早稲田版には葛飾版にはない註解が付いていたりしますから、複数のテキストを並べて読むことで、新たな発見がある、かもしれません。
古文書は、博物館にあってもスルーしちゃいがちな展示物ですが、どうせ見てもわかんないし、なんてこと言わずに頑張ってみると、それなりに面白いかもしれませんよ?!
*1:電車の上り・下りと同じで、都会から地方へ行くことを「下る」といいます。ただし、京都あたりだと、北から南へ移動することも下ると言うそうですから、京都式ならば上州(つまり群馬県)から鎌倉方面への移動なんかは下りかもしれないですけど…???
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