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吾妻線の端っこまで行って戻ってくるだけ日帰りの旅

 情報が古くなる前にこっちもまとめときます。ほんとは写真貼ったりいろいろしたいんですが、やってると時間かかるので鉄道関係だけサクッとまとめときます。

旅行日:8月2日(土)
出発地:金町駅(東京都葛飾区)
目的地:大前駅(群馬県吾妻郡嬬恋村)
青春18きっぷ利用の普通列車の旅

 吾妻線の読みは(あがつません)です。脳内で「あづません」と読んでる人がけっこういるらしくて、おともだちに「あがつません乗りに行こうよ」みたいな話をしたら「え、どこ?」って聞き返されました。吾妻郡の読みがアガツマなのは、群馬では学校で習うので完全に油断してました。

 伝説によるとヤマトタケル尊が東征のおりに、このあたりの山から都の方角を眺めて「吾が妻よ、群馬なう」と呟いたとかなんとか。ちなみに、日本書紀にも古事記にも、タケルの君が群馬を通ったなんて話は書かれてませんので念のため。

 作るの作らないのって大騒ぎだった八ッ場ダム(やんばだむ…これまた難読地名)関係で、吾妻線の一部区間がダム湖に沈んじゃうんです。山のちょっと高いところに新しい線路や駅を作っているところで、今年の10月には線路が付け替えられてしまうんですよ。

 そんなこんなで古い線路とお別れの旅に行って来たというわけ。

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 吾妻線は、長野原草津口駅までは本数があるのですが、その先はぐっと減ってしまうので、行きは手前の川原湯温泉で降りることにしました。ダムに沈んじゃう駅はここだけでしたよね、たしか。

 この温泉にはおともだちの車では何度も来たことがあったので、沈んじゃうのはすごく残念です。温泉街は少し高いところに引っ越してて、もとの場所にはわずかに残ってる住人と、宿が一軒だけ営業中でした。

 あんまり時間ないので新しい温泉街でお茶飲んで駅にもどり、先に進みます。

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 終点の大前まで行き、そこで降りたいのは山々なんですが、なんせ電車の本数が少ないので降りたら何時間もここで時間をつぶさなきゃなりません。我慢して乗ってきた電車にそのまま乗って帰ります(笑)

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 さすがにこれだけじゃ寂しいので、帰りは八木原で降りて、1kmくらい歩いて、前に入ったことのあるイタリア料理店で食事をしました。

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 帰りはこんな感じです。画像のとおり新前橋で乗り換えたら始発で楽ったんですが、うっかり高崎駅まで行ってしまいました。ちょうど高崎市の花火大会で駅は大混乱。人をかきわけるようにして高崎線に乗り換えました。電車は空いててちゃんと座れましたよ。

# 画像は Yahoo!路線情報の検索結果を加工して引用しました。
# 今度は解像度をいい感じに調節したぞ(笑)
# 涼しい喫茶店にて更新作業中…いかん、もう帰らないと宅配便が届くことになっているんだった。大急ぎで送信。

タグ:青春18きっぷ 群馬

ちょっとそこまでって言いながら、福島県いわき市まで鈍行列車で行っちゃうテスト

 8月18日(月)日帰りで福島県のいわき方面へ行ったので、鉄道関係をまとめておきます。

・出発地:JR金町駅(東京都葛飾区)
・目的地:竜田駅、湯本駅、いわき駅(すべて福島県)
・青春18きっぷ利用、普通列車の旅

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 今回は、常磐線で行けるとこまで行くのが目的の旅です。常磐線は原発事故の影響で一部不通のままで、今年の6月1日に広野〜竜田間が再開したばかり。

 東京23区内から福島県までというと、めちゃくちゃ遠くて新幹線が必須と思いがちですが、スパリゾートハワイアンズや、アクアマリンふくしま水族館がある いわき市方面は、海沿いで、われらが葛飾区から見ると「常磐線でまっすぐ行くだけ」です。これホント。

 しかも、常磐線は大都市を結ぶ路線なので、金町〜いわき間は列車の本数も多くて乗り継ぎに苦労することもないです。本当に普通列車だけで3時間半くらいで着いちゃうんですよ。

 今回は、復旧したばかりの竜田駅まで行ったので4時間かかりました。

◎竜田駅の写真1
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1780

◎竜田駅の写真2
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1781

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 竜田駅で降りてみたいのは山々ですが、いわき駅までの本数が少ないので残念ながらホームをうろつくのみで我慢。さっき乗ってきた電車が10分後に引き返すので、それにのって湯本駅まで戻ります。

 竜田〜広野間は今年の春まで避難指示区域だったんですよね。そのため車窓から見える風景も震災から時が止まったみたいです。屋根瓦が落ちたまま修理のすんでいない家や、荒れたまま放置されている田んぼなど。広野を越えると急に風景がかわるので、車窓からの風景も見逃さずにおきたいものです。

 湯本駅で下車。公衆浴場で温泉に入り、地元の食堂で昼食を食べ、近くの博物館を見学しました。だらだら過ごして4時間ちょっと。駅の回りだと見るものがあまりないので、電車に乗っていわき駅へ。

◎湯本温泉で久しぶりの黄色いカレー
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1775
◎湯本温泉おまけ写真
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1778

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 いわき駅のまわりは大都市ですが、残念なことに駅のまわりにはあまり観光地がないです。ネットで偶然みつけた路上のオブジェが駅から徒歩で10分くらいの距離とのことで、それを見ました。

 ほんとうは夜まで暇をつぶして夕食を食べて帰りたかったのですが、あいにく月曜で美術館なども閉館日。暇すぎてどうにもならないので喫茶店で涼んでから、明るいうちに帰っちゃうことにしました。

◎謎のオブジェ、ぐぅ・ちょき・ぱぁの像
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1779

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 帰りも常磐線で。

 磐越東線と水郡線を使って郡山と水戸を経由する帰路も検討したんですけど、時間的には可能でしたが、日が暮れて真っ暗になると面白くないので素直に帰ってきてしまいました。

 勝田で乗り換える時に、改札のすぐ外にあるパン屋さんが「勝田あんパン」の幟(のぼり)を出していたので、面白いから降りて買ってみました。乗り継ぎに10分あればそのくらいの途中下車は余裕です。

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▲勝田あんパン:あんパンといっても中身はアンコ+生クリームで、この組み合わせが美味しいのは知ってるけど、生クリーム入れちゃったらなんでもこの味なんだよなあ、という気もする。売ってる店はあっちこっちの駅に入ってるチェーン店だそうで、同じパンで焼き印だけ変えたのが各地にあるらしい。


 画像では真っすぐ金町まで帰ったことになってますが、松戸で途中下車して食事したので、金町についたのは21時半くらいです。

# 画像はYahoo!路線情報の検索結果を加工し、引用しました。
# しかも、久しぶりにこんなの作ったら画像の解像度がおかしいし。もういいやどうでも(泣)

タグ:青春18きっぷ 東北

葛飾区の夕顔観音:12年に1度の御開帳を見に行った話

 だいぶ旬を逃してしまいましたが、夕顔観音の御開帳を見に行った話も書いとかないといけないですね。

 葛飾区の西水元にある安福寺では、12年に1度午年の4月に、秘仏である夕顔観音が御開帳されることになってます。


◎関連記事:今年は西水元安福寺の夕顔観音の御開帳があるはず
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1767
 まずはこっちの記事をどうぞ。お寺の場所や、夕顔観音の由来などを書きました。


 この観音様の存在に気付いたのが今から10年くらい前のこと。葛飾区の名所案内みたいなのを読んだのが最初だったと思います。普段は非公開で、午年の4月に公開されると書いてあるのを見て、

「午年って一昨年? 惜しい、もうちょっと早く気付いていれば! 次の午年まで10年も覚えてられっこないわー」

ってなことを、言ったのを覚えてます。

 きっと忘れちゃうだろう、そう思いながら1年、また1年と過ぎていき、いつのまにか 10年たってました。昨日のことさえ覚えてないのに、よくぞ忘れなかったものです。自分でも信じられない!

 こりゃもう、見に行くしかありませんよ。10年待ったというのもありますが、なんせ歩いて行けちゃう地元のお寺さんですしねー。

 というわけで、4月吉日、お参りに行ってきました。

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▲葛飾区西水元・安福寺。閑静な住宅街にある小さなお寺ですが、歴史は古く、江戸時代の地誌にも記録されているんですよ。

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▲本堂に安置されている夕顔観音像。想像してたのよりずーっと小さなものでした。

 仏像といってもレリーフになっていて、壁にかけて拝むためのものらしいです。本堂の天上付近に色鮮やかなリボンが見えるでしょうか。このリボンは仏様に直接結びつけられているので、リボンに触れることで、仏様に触れてるのと同じことになります。

 お寺の人に、遠くからだったら撮影してもいいですかって聞いたら、近くからでもどうぞって言ってもらったので、望遠で写してみました。

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▲まずは全体像です。さきほどのリボンは途中から糸にかわり、観音様に結ばれています。

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▲もうちょっと近付いた写真です。クリックすると大きな写真が開きます。観音様が手にしているのは宝塔でした。

 千手観音だったら沢山ある手のひとつに宝塔を持ってることはあるでしょうが、こういったシンプルな観音様で塔を持っている例は珍しいかもしれないですね。

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▲記念にどうぞと、戴いた瓦煎餅。


 10年も待ってやっと見られた仏様ですから感慨無量です。ブログを見て、情報を下さった関口様、お世話になりました。また12年後にお参りさせていただいきます。

タグ:神社仏閣 地元(葛飾周辺) 葛飾さんぽ

葛飾区の郷土と天文の博物館に展示されている鎌倉大草子を解読してみた

 えー、なんでしょう、復活した途端に、誰も読みたがらないような記事書いたりして、珍獣の館は本当に人間に優しくありません。


 葛飾区内に郷土と天文の博物館という施設があります。葛飾区の郷土資料が展示されており、プラネタリウムがあったりして、楽しいところですよ。夏は涼しいのに避暑に最適だし!

◎公式サイト:葛飾区郷土と天文の博物館
http://www.museum.city.katsushika.lg.jp/index.php
 郷土資料だけ見たい場合は大人100円と非常にリーズナブルです。プラネタリウムは1回の上映につき350円だったでしょうか。わたしはここの年パスを持っているので、暑くて死にそうな時はバスに乗ってふらっと立ち寄って涼んでます。昭和30年代くらい暮らしを再現したコーナーでは、ベーゴマ、けん玉、お手玉、おはじきなどで遊べます。


 さて、ここの「葛西城の時代」というコーナーの片隅に、2014年8月現在、『鎌倉大草子』という古文書が開いて展示されてます。

 何が書いてあるのか気になったので、涼みに入ったついでに解読してみました。以下は文字起こししたものです。

と見へけれとも成氏より憲忠に下知ありて強被加折檻
更にこれを用ひす如何様東国の大事此時にありとや
おもひけん憲忠の舅扇谷入道道朝長尾左衛門入道
昌賢ひそかに上州より下り一味の族を催し種々の
計略を廻しける此日頭御所方管領方とて二ツにわかれ
不快にてありし御所方の人々馳集上杉長尾等の陰謀
すてに発覚せりしはらくも油断に及は味方の一大
事なるへし急速に憲忠を退治して関東をしつむ
へしと成氏をすゝめ申けれは公方ももとより庶き
する所なれは尤と喜ひ給ひ結城中務大輔武田右馬助信長

里見民部少輔義実印東式部少輔等三百余騎相催し
享徳三年十二月廿七日深夜鎌倉西御門館へ押寄て時を
つくる憲忠も俄の事にて用意の兵もなかりけれは左右無
乱入ける程に憲忠主従廿二人切先をそろへて切て出防
き戦ひけれともかなはすして一人も残らす討死す憲忠
の首をは結城民部家人金子祥永同弟祥賀討取て御所へ
参り実検に備へける憲忠管領なれは庭上に置へからす
とて畳をしき其上に祥永兄弟をすへられ御実検の
後金子に多賀谷といふ名字を下され常陸国にて所領
数多給り此子孫代々家老となり公方へ出仕の時は陪臣

 解読したのは開いてあるページだけなので少ないですが、こんな感じです。写真あったら「あそこに展示されてる、あれか」ってわかりやすいんですけど、撮影は許可されてないような気がするのでやめておきます^-^;


 内容は「御所方」と「管領方」の争いに関するもののようです。

・御所方の登場人物
  (足利)成氏:公方様
    結城中務大輔(結城民部):家来の武将
    武田右馬助信長:家来の武将
    里見民部少輔義実:家来の武将
    印東式部少輔:家来の武将
    金子祥永:結城民部の家来
    金子祥賀:祥永の弟

・管領方の登場人物
  (上杉)憲忠:関東をおさめている大名
    扇谷入道道朝:憲忠の舅で武将
    長尾左衛門入道昌賢:憲忠の仲間の武将


 解読したページだけでは争いの原因はわかりませんが、管領方が御所方に対してよからぬはかりごとをしています。

 それを知った御所方の公方様こと成氏が、やっつける口実ができたとばかりに鎌倉にある憲忠の屋敷を襲撃しました。

 深夜の急襲で、兵の準備もなかった憲忠は、あっさりやられて首をとられてしまいました。

 憲忠の首をとった金子祥永・祥賀の兄弟は、公方様から多賀谷という名字をたまわり、常陸国に所領を沢山もらいました。

見ておくと面白いポイント

 郷土と天文の博物館にある『鎌倉大草子』は、手書きの草書体で、くねくねっと書かれています。見に行くことがあったらその筆跡を見ておきましょう。

 次に、早稲田大学の古典席データベースにある別のテキストも見てみましょう。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko20/bunko20_00414/index.html
 全体を読みたい人は↑ここから。

 わたしが文字起こしをした部分は↓この部分に相当します。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko20/bunko20_00414/bunko20_00414_p0052.jpg
 このテキストも手書きのようですが、楷書体なので普通に読めそうですね。古文書はこうやって手書きで書き写されるものなので、いろんなバージョンがあります。そこがまず面白いでしょう?


 さらに細かい点を見て行くと、表記の違いや書き間違いがみつかったりします。

 たとえば郷土と天文の博物館版(以下:葛飾版)だと「上州より下り」と書いてありますが、京の都から(あるいは憲忠がいる鎌倉の屋敷から)見て上州はかなーり下のほう(田舎)で、そこから下るっていうのは「あれ?」と思う部分です。*1

 同じ部分を古典席データベース版(以下:早稲田版)で見ると「上州に下り」と書いてありますから、こっちが正解かもしれないですね。


 ほかにも、早稲田版には葛飾版にはない註解が付いていたりしますから、複数のテキストを並べて読むことで、新たな発見がある、かもしれません。


 古文書は、博物館にあってもスルーしちゃいがちな展示物ですが、どうせ見てもわかんないし、なんてこと言わずに頑張ってみると、それなりに面白いかもしれませんよ?!

*1:電車の上り・下りと同じで、都会から地方へ行くことを「下る」といいます。ただし、京都あたりだと、北から南へ移動することも下ると言うそうですから、京都式ならば上州(つまり群馬県)から鎌倉方面への移動なんかは下りかもしれないですけど…???

タグ:古文書解読 地元(葛飾周辺)

今年は西水元安福寺の夕顔観音の御開帳があるはず

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 安福寺はこんなお寺です。西水元図書館のちょっと南にあります。この特別にどうってことなさそうに見えるお寺が、実は江戸時代の地史というか、観光案内のような本に出てくる有名なお寺です。

 このお寺には夕顔観音という仏像があります。仏像といっても銅の円盤にレリーフになったもので、壁などにかけて拝したものだと思われます。

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 イラストにするとこんな感じですが、わたしはまだ実物を見たことがありません。普段は公開されておらず、十二年ごとの午年のお祭りで御開帳されるそうです。それって今年ですよね。お祭りは四月にやると聞いています。正確にいつやるんでしょうね。先日お寺まで行ってみたのですが、まだなんのお知らせも掲示されていませんでした。

 この仏様には不思議な由来があります。江戸時代の後期に作られた『江戸名所図会』によれば、かつてここには松の枯木と榎(えのき)が並んで立っていたそうです。

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 この二本の木は、時として枝が光り、あるいは竜灯(火の玉のようなもの)が梢にかかるのが近隣の村人により目撃されていました。また、木と木の間が光っていることもあったそうです。

 そこで、この地の名主である関口氏と医師の深谷喜兵衛という人が相談して寛文八年(1668年)に土を掘ったところ、いくつかの仏具が出てきました。

 ここにはきっと、立派な寺があったに違いないということになって、その年の六月六日に改めて掘ってみたところ大きさ五寸(15cmくらい)ばかりの「金像の大悲の像」が出てきました。大悲というのは観音様のキャッチフレーズみたいなものです。

 観音様は最初、深谷氏が仏壇に安置して拝んでいましたが、たびたび夢でお告げがるので、祠をつくりお祀りしたということです。これが西水元安福時に今も伝わる夕顔観音の伝説です。

 夕顔観音という名前の由来は『四神地名録』という本によると、紫式部の持仏だったので源氏物語の夕顔からとったというのですが、関口氏と深谷氏が掘り当てた話と矛盾するのでおかしな話です。

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_00229/ru04_00229_0003/ru04_00229_0003_p0039.jpg
 このリンクは早稲田大学の古典籍総合データベースにある影印で『四神地名録』の飯塚村(今の西水元・南水元あたり)について書かれた部分です。寛政六年(1794年)の写本だそうです。手書きの文字なので読みにくく、虫食いも多いのでわたしなど半分くらいしか意味がわかりませんが、「源氏夕顔の巻より名つけし佛」「紫式部の秘蔵せし自然金にて鋳造せし観世音」とあります。

 また『江戸名所図会』によれば、世の中で夕顔観音と呼ばれているものは、瓠瓜(こか、ひょうたんのこと)の中から出てきたからだと言われているので、これもそうじゃないかという意味のことが書いてありますが、これまた土から掘り出したという話と矛盾します。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0020/bunko10_06556_0020_p0004.jpg
 このリンクは『江戸名所図会』の夕顔観音堂の影印です。同じく早大の古典籍総合データベースより。

 なお、夕顔観音の裏側には何か文字が刻まれているそうです。『江戸名所図会』によれば、弘長二年(1262年)二月に作られたと書いてあるそうなんですが、『新編武蔵風土記稿』には次のようなさし絵があります。
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 この絵がどのくらい正確なのかもわからないのですが、このさし絵に書いてあるのは「□□加原?前御正体□□□小僧良?交?奉□?就圓?所奉??□弘長二年壬戌閏七月十八日僧良覚」です。弘長二年は七月が閏月なので、七が正解と思われます。#実物が現存しているのに、裏側を調査した人は近代にはいないんですかね(笑)

 弘長二年というと、もう鎌倉時代ですから、紫式部よりだいぶ新しいものです。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763979/34
 このリンクは国会図書館・近代デジタルライブラリーの『新編武蔵風土記稿』です。さし絵の他「三社権現社・水神社 共に石祠なり、観音出現の所にして古き勧請といへり」と、短い説明があります。

◎葛飾観光ポータルサイトの夕顔観音の紹介ページ
http://www.katsushika-kanko.com/katsumaru/area/kanamachi14/
 実物の写真はネット上だとここでしか見られないようですね。これって御開帳の時に写せるんですかね。秘仏にカメラむけるのはちょっと勇気がいりますけどね(笑)

◎全国旅そうだんの安福寺紹介ページ
http://asp.nihon-kankou.or.jp/bnr/ctrl?evt=ShowBukken&ID=13122ag2132023199
 ここにも写真がありました。小さいけど、引いた写真なので厨子に収められてる様子がわかります。

◎かつしかデジタルミュージアム:銅造懸仏
http://www.museum.city.katsushika.lg.jp/kdm/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=105075
 ここにもありました。白黒写真ですが、これが一番わかりやすいです。葛飾観光ポータルの写真で手に何か持ってそうだったので魚籃かなあと思ってたんですが、これを見ると塔か薬壺のようなものに見えますね。


大きな地図で見る
 西水元安福寺の場所はここです。金町駅からだと、北口から出ている京成バスの大場川水門行き(または西水元三丁目行き)に乗って「西水元二丁目」バス停あたりで降りると近いです。

 亀有駅からだと、東武の西水元循環バスに乗って「西水元二丁目」か「西水元一丁目」のどっちかで降ります。距離は大差ないです。

タグ:地元(葛飾周辺) 葛飾さんぽ 神社仏閣 伝説