京都と大阪の旅行記もやりたいんですが、その前に地元の話題を消化しときます。
市川市に里見公園っていうところがあります。葛飾区からだと、柴又から矢切の渡しで江戸川を渡って、川沿いをてくてく歩いて南下したところにあります。
そこに「夜泣き石」というものがある、というのはけっこう前から聞いていました。たぶん地元系のフリーペーパーかなんかで読んだんだと思います。
ところが場所がわかりにくく、何度か見に行ったものの、みつけられずにいました。公園内で地元の人とおぼしき方に場所を聞いたこともあったのですが「ああ、それならあっちだよ」と教えてもらった方向に、行けども行けどもそれっぽい場所にたどり着かず、首をひねりつつ帰ったのも良い思い出です。当時はまだパソコン通信の時代で、今みたいに簡単にものを調べられない時代でした。
あれから随分月日がたって、そういえばそんなこともあったよなあと、検索をかけたらいろいろ情報があったので行ってみることにしました。
なんでも、夜泣き石は里見公園の中にあり、公園内でも目立たない場所にあって、通路沿いに案内などはなくて、また周りより高くなっている場所にある、らしいです。ふむー。
というわけで情報をもとに里見公園の高いところを探してみました。最初にたどり着いたのはここ。
▲明戸古墳石棺(あけどこふんせっかん)。
▲明戸古墳の説明板より。
公園の一部になっちゃってるので全体像がはっきりしないのですが、前方後円墳の丸いところのてっぺんにあたるみたいですね。この石棺は『江戸名所図会』にも記録があります。
石櫃二座
同所(総寧寺の境内・国府台古戦場)にあり。寺僧伝へいふ、古墳二双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎広次といへる人の墓なりといふ。一つはその主詳らかならず。あるいはいふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、いまは石棺の形地上にあらはる。その頃櫃のうちより甲冑・太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、いまその一、二を存して総寧寺に収蔵せり。
按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎および正木内膳の墓とするは、いづれも誤りなるべし。
里見長九郎広次(さとみちょうくろうひろつぐ)という人の墓だと思われていたけど、実際にはもっと古代のものだろうってことですね。出土品が総寧寺(そうねいじ)に収められたともありますが、これは現存しないそうです。
説明版によると、この石棺は黒雲母片麻岩(くろうんもへんまがん)という石でできていて、茨城県の筑波山から切り出されたものだそうです。
説明版には目指す「夜泣き石」のことも書いてありました。もとはこの石棺に石の蓋がついていたそうなんですが、その蓋は里見公園内にある夜泣き石の台座になっているっていうんです。
おお、有力情報!
でも、公園内のどこにあるかは書かれてないんですよー。こういう説明書く人って実際に公園には来てみないんですかねー(笑)
というわけで振出しに戻る。夜泣き石はどこだー。
このへんで iPhone を取り出してネット上の情報を確認。えー、なになに? 目に付く場所に夜泣き石の案内はないが、近くに火を使ってはいけないエリアを説明する看板がある??
それでやっと場所がわかりました。
▲これが夜泣き石かー。なんかほんとにわかりにくい場所にありました。こんなのわかんないって。
この石には古戦場にまつわる悲しい伝説があります。
先ほど見た石棺の中の人である里見広次さんは、1564年の合戦で戦死しました。この時、十二、三歳になる広次の娘が亡き父を慕ってこの地にやってきましたが、合戦場の悲惨な有り様にショックを受けて、この石にもたれて泣き続けるうちに死んでしまったというんです。
それからというもの、夜になるとこの石から少女が泣く声が聞こえるようになりました。あるとき一人の武士が通りがかり、姫君の霊を哀れんで手厚く供養したところ、泣き声はぴたりと止まったということです。
ちょっといい話ですが、里見広次は戦死した時十五歳だったそうです。いくら昔の人が早熟だからって十二歳の娘がいるはずもありません。若くして合戦で死んだ武将と、古代人の墓が結びついて生まれた伝説なんですね。
夜泣き石も、もとは古墳の石棺の前にあったそうです。いつごろ今の場所に移動されたのかは、公園の説明版には記述がありませんでした。
▲里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑。左:里見諸士群亡塚、中:里見諸将霊墓、右:里見広次公廟。
広次公廟はいつできたかわからないそうですが、他は1829年に作られたものだそうです。里見公園のあたりで合戦があったのは1564年のことだそうですから、慰霊碑が作られたのは、なんと265年後!
1814年から滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の刊行が始まっていますから、八犬伝人気で国府台の合戦が注目されるようになったんでしょうね。八犬伝はフィクションですが、里見氏最後の当主である忠義の八人の家臣が登場人物のモデルになっているとも言われています。
国府台の合戦は、里見氏と北条氏の戦いですが、里見氏が敗けて戦死者は五千人にものぼったと言われています。
より大きな地図で 夜泣き石(里見公園) を表示
夜泣き石があるのは青いポイントのあるあたりだったと思います。明戸古墳石棺はそこよりちょっと北のほうにあったと思うんですが、航空写真を見ても木が茂ってて正確な場所がよくわかりません。
国府台の合戦について、葛飾区側に残る昔話と伝説
合戦がよっぽどショックだったのか、あるいは八犬伝の影響かはわからないのですが、葛飾区側にも合戦関係の伝説がけっこう残っています。
◎橋の名前:やつけはし(矢付橋)
たとえば葛飾区柴又のある場所には、合戦の流れ矢が飛んできたといわれる場所があります。そこにはかつて橋がかかっていて、伝説にちなんで矢付橋(やつけばし)と呼ばれています。今は川が暗渠になって、橋の跡だけがのこっています(以前写真をとったはずなんですが、みつからないのでそのうちまた撮ってきます)。
矢付橋の場所はここ(google map)
夜泣き石と同じ地図に書き込みましたから、広域にすると位置関係がよくわかると思います。
▲矢付橋のあった場所はここです。写真とってきました。
また、葛飾区の水元にある遍照院というお寺は戦国時代に一度消失しているのですが、その原因としてこんな昔話があります。
◎遍照院が焼けたわけ:その1
遍照院で夜遅くまで法事を行っていたところ、里見氏の残党が潜んでいるものと勘違いされて、北条氏の軍勢が寺に火をつけて焼き払ってしまった。
『増補葛飾区史』を確認したところ、天文七年(1538年)、小田原北条氏と安房里見氏の合戦で里見氏が敗れた後に、遍照院で仏会があり法幡(仏事で使う旗のこと)をつらねていたら、国府台からそれを見た北条しが、里見が決起したと思い込んで風上から寺に火を放って焼いてしまった、とありました。
先に書いた「夜遅くまで法事があって国府台から灯りが見えた」というのも何か別の本で読んだと思います。なんだったかは思いだせません。
◎遍照院が焼けたわけ:その2
『増補葛飾区史』によれば、同じく天文七年のこと、寺の小僧さんが古利根川で下帯(ふんどし)を洗濯して、たわむれに長い竿に結んで「源氏の白旗はこれなり」と合戦のまねごとをしていたら、国府台からそれを見た北条氏が、里見の落人が決起したと思い込んで寺を焼きに来た、とあります。
遍照院は水元五丁目にあります。国府台からかなり離れていますが、果たして小僧さんのふんどしが見えるでしょうか。
遍照院の場所はここ
これも夜泣き石の地図に書き込んであります。
◎西水元の財宝伝説
また、遍照院からあまり遠くない、葛飾区西水元には、里見の残党が軍資金を埋めに来たという昔話があるそうです。参考>葛飾文化の会『葛飾百話』
◎江戸川を浚渫したら甲冑が?!
また、合戦場になった江戸川を昭和の初期に浚渫(しゅんせつ、川ざらい)したところ、おびただしい数の刀剣や甲冑が出てきたと言われています。参考>葛飾文化の会『葛飾百話』
江戸川から出てきたという甲冑は近年の話ですから、もし本当ならどこかに一部が保存されていてもおかしくないですが、そういう話も聞かないので、あくまでうわさ話なんだと思います。
でも「今度、江戸川の川ざらいをするんだって」というニュースを聞いて「それじゃ国府台の合戦で死んだ武士たちの甲冑やら刀剣やらがごろごろ出てくるね」なんて話が普通に出るくらい、ここらでは国府台の合戦がよく知られていたってことでしょうね。
Sari URL 2011年09月21日(水)03時18分 編集・削除
ご無沙汰しています、Sariです。
PC壊れた上に夏バテから体を壊し、まだ闘病中です。
古墳の石棺と夜鳴き石、おととしだったか行きました。
桜の季節できれいでした。
市川は色んなものがあってなかなか楽しいところで、
一度では見切れずに二週に渡って行ってしまいました。