去年からいじってる新しいブログを今日こそ公開しようと思い、記事を書いて、よし、twitterにも流しちゃる、と思ったところで表示崩れに気づく。表示上の問題だけ(だと思う)ので公開しちゃってもよかったかもしれないですが、今日はとりあえずここ使います。はあ…
1月7日なので七草粥。海外向けにあやしげな英語字幕入りの動画も作ってみたよ。
材料(2人前くらい)
七草 お好みで好きなだけどうぞ
米 50ml
水 350〜400ml
塩 少々
作り方
1. 鍋に分量の米と水を入れ、火にかけ、沸騰したら蓋をして弱火で30分くらい煮る。吹きこぼれないように注意する。
2. 七草を洗って刻む。歌もうたうこと(笑)
3. 1が30分たったら、蓋をあけて塩少々と、2の七草を加える。
4. 蓋をして弱火で5分蒸らしてから、ざっくり混ぜれば完成。
七草の歌
ななくさ なずな 唐土の鳥が
日本の国に 渡らぬ先に
ストトントン トン
歌まで歌って動画を作ってみたものの、実はうちでは七草の歌をうたったりしなかったです。ゆえにメロディーも昔どこかで耳にしたのをうろ覚えです。
実は七草粥を毎年食べる習慣もうちにはなかったです。祖母が草むしりの時に
「これがナズナ。七草粥に入れるんだよ」
と教えてくれたことがありますが、お粥に入れてるのは見た事がないです。
祖母が鎌で地面からけずりとってくれたナズナのロゼットは、不思議といい香りがしたのを覚えています。その時のことを思い出すと、ナズナをもてあそぶ自分の手が、まだ小さくて瑞々しい子どもの手だったのを鮮明に思い出すのでした。
なぜ七草を食べるのか、唐土の鳥とはなんなのか?
twitterで、唐土の鳥が中国の伝説と関係があるのではないかと教えてもらったので、いくつか古典をあたりました。さきほどこれについて頑張っていろいろ書いたのですが、送信する前に Firefoxがハングして全部消えやがったんですよ!
幸いにも本から抜き書きしたものはブログの入力欄ではなく、テキストファイルに保存してあったので、ごく簡単に結論のみまとめて、巻末に抜き書きをどっさりつけますので、読みたい人は読んでください。
1. 正月七日に七草を食べる風習は、六世紀中国の、揚子江中流域ですでに行われていた(荊楚歳時記)。
2. 正月七日に鬼車鳥あるいは姑獲と呼ばれる鳥が飛来して幼児に害をなすため、床や戸を叩き、犬を吠えさせ、あかりを消すなどして追い払うという風習も、六世紀中国に存在している(荊楚歳時記)。
3. 江戸時代中期の『和漢三才図会』には、2の伝説が記録されているが、七草に関する説明はない。
4. ゆえに、もともと関連のなかった1と2が、日本に伝わり幕末あたりでごっちゃになり、七草を爼の上で叩いて、唐土の鳥を追っ払うようになったのではないか。「唐土鳥日本の鳥渡らぬ先に」と唱えるのも幕末から(嬉遊笑覧)。
# 唐土の鳥については、古今の文献で『荊楚歳時記』にある鬼車鳥説をあげていますが、幕末の『三養雜記』に、根拠としてあげるほどのものではないが、と前置きしながら「七草册子といふものに、須彌の南にはくが鳥といふ鳥あり、かの鳥の長生をすること八千年なり、此鳥春のはじめ毎に、七色の草をあつめてふくするゆゑに長生をするなり」という長寿の鳥説があげられているようです(『故事類苑』より孫引き…いやひ孫引きか?)
# 「唐土の鳥が日本の国に」と歌うのは西日本で、関東では「唐土の鳥、日本の鳥」という話が『古今要覽稿』にあるらしい(『故事類苑』より)
# 「唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に、七草なずな、手に摘み入れて、あみぼし・とろき・ひつき・ちりこ」という形の歌は『桐火桶』という本に出てくる。藤原定家が書いたとされているので、それが本当ならば(本当かどうかは不明)、十二世紀には七草の歌の原型があったことになる。
◎荊楚歳時記(六世紀中国の本)
# 東洋文庫の日本語訳を引用
七日、七種の羹・華勝・人勝を作る
正月七日を人日と為す。七種の菜を以て、羹(あつもの)を為る(つくる)。綵(あや)を翦りて(きりて)人に為り、或いは金箔を鏤り(かざり)て人を為り、以て屏風に貼る。亦た之を頭鬢に戴く。亦た華勝を造り以て相遣わす。高きに登りて詩を賦す。
(以下は隋の杜公瞻の注とされる)
今、北人、又た人日に至るまで、故歳の菜を食うを諱み、惟だ新菜のみを食う者あり、楚の鷄を諱むと正に相い反す。
補:人日、鬼車鳥が飛ぶという伝説
正月の夜、鬼鳥の度る(わたる)もの多し。家々、床を槌ち(うち)戸を打ち、狗(いぬ)の耳を捩じ、燈燭を滅し、以てこれを禳う(はらう)。
(杜公瞻の注)
『玄中記』に云う。此の鳥の名は姑獲(こかく)、一に天帝女と名づけ、一に陰飛鳥と名づけ、一に夜行遊女と名づく。好んで人の女子を取り之を養う。小児あるの家は即ち血を以て其の衣に点し、以て誌となすと。故に世人名づけて鬼(車)鳥と為す。荊州、彌多し。斯の言、信なるかなと。
# この部分は現存する『荊楚歳時記』にはなく、守屋美都雄博士が確実に佚文(逸文)と断定したもの、とのこと。
七種の羹:日本の七草粥の起源をなすものである。古く揚子江沿岸から華南にかけて、気候温暖な地方で、この日に野草をつむ風習があったらしい。七種菜羹の風習は、今日ほとんど残っていないが、湖北省や広東省ではなお僅かに面影を止めているという(『支那民俗誌』第二巻、二百三十八頁以下)。
#東洋文庫の訳注
◎和漢三才図会(江戸中期の百科事典的な本)
姑獲鳥(うぶめどり タウフウニャ。ウ)
夜行遊女 天帝少女 乳母鳥 [言意]譆(いき) 無辜鳥 陰飛 鬼鳥 鉤星
『本草綱目』に次のように言う。鬼神のたぐいである。よく人の魂魄を食べる。荊州に多くいる。毛を衣て(きて)飛鳥となり、毛を脱ぐと女人となる。これは産婦が死んで後になったものであるゆえ、胸の前に両乳があり、好んで人の子を取り、養って自分の子とする。およそ小児のいる家では、夜に子どもの衣物を外に出しておいてはいけない。この鳥は夜に飛んでそれに血をしたたらせて誌(しるし)をつける。するとその子は驚癇(てんかん)や疳疾(かんのむしのような病気)を病む。これを無辜疳(むこかん)という。ちなみにこの鳥はもっぱら雌ばかりで、雄はいない。七、八月に夜飛んで人を害する。
△思うに、姑獲鳥[俗に産婦鳥(うぶめどり)という]は言い伝えて、産後死んだ婦人が化したものであるという。しかしこれはこじつけの説である。中華では荊州、わが国では西海の海浜に多くいるというからには、これは別の一種の鳥で、陰毒がこり固まって生じたものであろう。九州の人のいうところでは、小雨のふる闇夜、不時に姿をあらわすことがある。そのいるところには必ず燐火があり、遥かに観察してみると、状は鷗に似ていて大きく、鳴き声も鷗に似ており、よく婦人に変じ、子をつれていて、人に遇うと子を負うてくれとたのむ。人がおそれて逃げると恨み、その人ははげしい寒けに襲われ、高熱が出て死に至ることがある。強剛なものがたのみを聞き入れて子を負うてやると危害は加えない。そして人家に近づくと背は軽くなり、子は姿を消している、という。また畿内やその近国では狐狸の外に、このようなもののいることは聞かない。
#思うに以下は『和漢三才図会』の筆者がつけた考察で、それ以前が『本草綱目』からの引用と思われる。
◎嬉遊笑覧(幕末の随筆)
次で云「籠耳草子」に、一名釣星鬼「外台秘要」夜遊鳥「潜確類書」中国にてはうぶめというもの夜中飛行して小児を害すと云て夜中は小児を外に出さず、此鳥の鳴声児の啼が如しといふ、然れどもその形状は詳ならず、今小児の衣服を夜中外に於て乾すことを禁ずといふも、此鳥を畏ると京師にても伝へいふといへり[割註]「籠耳」に形梟に似たり、七八月の間よなよな出て鳴といへり「玄中記」に是産婦死後化作、故胸前有両乳、喜取人子、養為己子、凡有小児家、不可夜露衣物、此鳥夜飛、以血点之為誌、児輙病驚癇及疳疾、謂之無辜疳也、荊州多有之、亦謂之鬼鳥、「周礼」庭氏以救日之弓救月之矢、射鬼鳥、即是也、これらの小説を出所にてこゝにもいひだしゝものと見ゆ、その実否は論ずるに足らず。」「北戸録」に陳蔵器引五行書、除手爪、埋之戸内、恐為此鳥所得、其鵂鶹、即姑獲鬼鴟鵂類也、「嶺表録異」にもこの説あり、七草爪をとることはこの故なり「世説故事苑」に七種を搥事「事文類聚」に歳時記を引て云、正月七日多鬼車鳥、度家家搥門打戸滅燈燭、禳之和俗七種菜ヲ打ツ、唱に唐土鳥日本の鳥渡らぬ先にと云るは此鬼車鳥を忌意なり、板を打鳴すは鬼車鳥不止やうに禳也、星の名はど書て夭鳥を逐ふ事は「周礼」秋官に見えたり「桐火桶」と云ものに、正月七日七草は七星なりなどといへるも「周礼」に本づけるなるべし
◎故事類苑(明治初期の百科事典)
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000905.html
このあたりから読むと、日本や中国の古典から、七草にまつわる部分が次から次へと引用されていてものすごいです。おそるべし明治の百科事典…!
◎関連記事:あみぼし・とろき・ひつき・ちりこ…なぜこの四宿なのか
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20150109p248
(七草の歌に関しては、本文の最後の方にある追記とコメント欄を見てください)
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