ダイダラボッチが榛名湖にけっつまづいたような土砂降りの雨で目が覚め、雨が小降りになったと思えば今度は大風で、台風でも来ているのかと思ったら関東にはまだ遠いじゃないですかー。
なんてことを書きかけて別のことをしているうちに、お昼頃には雨も風もおさまりました。明日は晴れると言っているからフェーン現象かなんかでまた気温上昇ですかね。
ベランダのウシなんとかさん(カエル)は大雨によろこんでしきりに鳴いています。まだ小さいウシ2号も「ぴひゃ!」とか変な声をあげていました。
『これが地震雲だ』なんかを読んでしまったせいで軽く地震マイブーム中ですよ。レコードチャイナにウィグル族が被災地に食料を送った話がありました。
◎新疆ウィグル族自治区では二万個のナンを焼いて被災地に送った(写真あり)
http://www.recordchina.co.jp/group/g19265.html
大勢で、自分のうちのやり方で作ったと思われる、さまざまな形のナンを日向にならべて日持ちするように水分を飛ばしているウィグル族の人たち。こんな風景がまだあるんだなと思う。
借りてきた本をめくっていると面白いことがいろいろ書いてあるので私見をまじえつつ抜き書きしてみよう。こういうのはネタ袋につっこんでいるんだけれど、こっちでやりはじめちゃったので流れで。いいかげん長文がウザイと思うので続きに追いやったので興味のある方はどうぞ。
地震の前に光を見る、空が近くなり星の光が倍になる
『安政見聞録』によれば、安政地震の時、下谷池の端に住んでいた人が亥子(北北西)の方角に何十丈ともしれない広範囲に雷光とは違う強い光があがって一瞬で消える様子を目撃している。すわ地震だというその瞬間だったと記録されている。
また、地震のあと十日か二十日ほどたったころに、暗い夜に四方に光が発したのを(おそらくは著者自身が)見たとも書いてある。またその光を見たものがまわりに多くいたとも。高い山に登ってみてもどこから発しているのかはわからないとも書いてある。
大地震の前に空が輝くなどの現象は現代でも報告されている。阪神・淡路大震災のおりに、夜明け前にもかかわらず、夜明けのように空が明るくなったと言う証言もあった。
また『…見聞録』には地震の前に空が近く見え、星の明かりが倍になるともある。越後三条、信州信濃で地震にあった者で、大きな家の門番として雇われていた老夫が、空を見て地震を予知し屋敷を救った話がある。老夫がそなえていたので地震で火が出ても小火で済ませることができた。
『録』の著者は、『和漢三才図会』の地震の項目をひいて、陽の気が大地に渋滞して出ることができないと、餅を焼いたときにふくれるように大地が膨張して地震になると言う。その際、天が近く見えるのは、雨の降り始めに山が近く見えるのと同じ理屈だと言い、星が倍の大きさに見えるのだとも。その理屈で星が大きく見えるとしたら、月や太陽に暈がかかったような状態になるのだろう。『これが地震雲だ』を著した鍵田氏も同様のことを言っているのが面白い。氏は『和漢三才図会』を知っていたのだろうか。それとも本当に独自の観察で昔の人と同じことを言っていたのだろうか。
地震の前には地脈が狂い、あちこちで水がわく
大地に陽の気がたまると焼き餅がふくれるように地面が膨張し、そのために地脈が狂い井戸の水かさが異常に増えたり減ったりするという。浅草の御蔵前にある福田屋という水茶屋では地面にへこんだところがあったので杖で軽くついたところ水が出たという。茶をわかして飲んだところ大変美味で、人々はしきりに不思議がったが地脈の乱れにまでは思いが至らなかった。
そうして四、五日後に安政の大地震がおこり、このときの各地の話を聞いてみると、井戸の水位が異常に高くなったり、あるいは水面がいつもよりずっと低くなったという証言があった。すべて地脈の乱れによるものだろう。『録』の著者が福田屋に出向いて地震の前にわいたという水をたしかめたところ、青く濁っていてとても飲めたものではなかったという。
同じ話を『安政見聞誌』の著者も記している。御蔵前の水茶屋で前述のとおりに水が出て、亭主が不思議に思って穴を広げてみると、ますます水が噴き出すのであたり一面が湿って駒下駄を履かなければ歩けないほどになった。なお、この土地は天保の御改革前には喜八団子の庭で井戸もあったのだが、取り払いになった折りに井戸を埋めたのだという。地に気がみちて古井戸に水をわかせたのだろうと結んでいる。
また、逆の例として信州の善光寺地震の時に井戸水がかれた話を記している。人々が水をとりあうので井戸に番をおき、手桶にいっぱいずつの水を順にくませたという。
*ネズミの大量発生
また、『録』にはネズミの大量発生も記録されている。安政二年の四月とあるから地震よりも半年以上前のことだが、石見国一円で数千万ともしれないネズミが発生して農作物を食い荒らしたという。ところが五月にはいるとどこからかイタチがやってきてネズミを食い殺して消えたという。前年に石見国では竹の花が一斉に咲き、その実を五万石あまりも収穫して食料にしたという。『録』の著者はその実が土に埋もれてネズミに変わったのだろうと言う。
さすがに半年も前の、江戸からはるか離れた石見で発生したネズミが地震の前触れとは考えにくい。しかし、地震の前に小動物が異常に現れることは知られており、四川の大地震でも、一週間ほど前に異常な数のヒキガエルが現れたと言う。気学風に言えば地中で爆発寸前になった陽の気を感じて、地面に近いところで生活するカエルのような生き物が逃げ出すということなのかもしれない。現代ではそれをプレートのゆがみによる電磁波がどうのこうのと説明するのだろうか。
子供がオモチャにする地震の実験
『安政見聞録』の著者が紹介している方法で、「二、三斗(三十六〜五十四リットル)ほど入る桶に荒砂を盛って水を注ぎ、底近くに呑口をつけて注ぎ入れた水を出す。垂れ水の器のようなものである。人の息を呑口に吹き入れるのだが、数人で交互に十分吹き入れてから、急に呑口をふさぐ。すると人の息の陽が陰に作用して、桶がひとりでに動くのである。そして陽の気がなくなると、震動は止まる。子供が遊びにするのはこのためだが、その理は遠くないと思われる」とあり、『…見聞録』の著者はこの方法を自分ではやってみたことがないが、寺田良安(『和漢三才図会』の著者)が記しているのは実験してみたからだろう、と言ってる。
こんな方法で、本当に地震のミニチュアが作れるものなのだろうかと思う。この状況で呑口から息をふきこもうとしても、砂が入っているのでそう簡単には息が入らないように思うのだが。仮に入ったとして、なぜそれが桶をふるわせるのか、仕組みがよくわからない。子供が遊びにするとあるのも気になる。それほど普通に見られる現象ならば再現してみたいものだが。
火事場泥棒
地震のあと、火事をおそれて人々はきのみきのまま避難した。その間だれも家を見ていないのだから、家がやけなかったとしても空き巣にやられて家財はのこっていないと思えた。ところがたいていの家は出たときのまま手つかずで何ひとつ失われてはいないのだった。悪人もまた震災をおそれて逃げたからである。
ところが、地震から四、五日あるいは五、六日たった頃に、もうすぐ津波がきて、高輪はいうにおよばず神田明神の坂下まで水没するだろうと噂がたち、人々は慌てて避難した。それがデマとわかって家にもどったときには時すでに遅く、貴重品はすっかり盗み出されていた。もちろんデマを流したのは盗人たちである。これも『録』に見える話である。
そういえば、最近も第二次大戦中の不発弾がみつかり、その処理のあいだ町中が避難してもぬけの殻になるという出来事があったが、爆弾の暴発よりも空き巣が恐いともらす住民も多かったという。さいわい短時間で処理もすみ、これといった被害もなかったようだが。爆発しそうもない不発弾だから空き巣の心配までできるのだろうが、そこまで火が来ているような状況ならば戸締まりなど考えないのが普通だろう。デマというのは本当におそろしい。
地震で生き残った人の袂に白い毛があった
これも『…見聞録』にある話。地震で助かった人の着物のたもとに三寸ほどの白い毛がついていたというのである。皇大神宮(天照大神)の白馬の毛がふって人々を助けたのだろうと大変な噂になったという。著者は日本は神国なので天照大神のご加護を疑ってはならないと言う反面、天保年間に飢饉のおりに毛がふった時、西洋にならって顕微鏡で調べたという人の話を書いて、今回の毛とはだいぶ違うが識者の考えを待つと書いている。
「そもそも天候が不順で、夏に空は陰雲におおわれ、何日ものあいだ日光を見ない。そのために異常冷気がつづいて、米穀類が稔らなくなる。このとき陰雲のなかに虫が生ずる。虫の形は毛のようだ。長さは一寸ばかりのものから二、三尺にもおよぶものもある。それが風に吹かれて地上へ落ちると、草木の精液を吸い尽くし、そのために稲をはじめ野菜の類はみな熟成せず、国土は飢饉となる。西洋の国にこれと同じことがあって、虫の名をゴスサメルという。今度降った毛というのは、すなわちこのゴスサメルなのである。顕微鏡でこれを見ると、背中に七つか八つの黒い点がある。いってみれば八ッ目鰻のような者で、口らしいところもある。断じて毛ではない。おそらく全体の色は定まってはいず、だいたいは黄に黒をおびて、斑点のような模様があるが、あまりに小さくて形はよくわからない、云々」
ゴスサメルとは一体どんな虫なんだろう。糸のように細く、一寸から三尺と長さもまちまちで、背中に斑点があって口らしいものがあり、黄色と黒のまだら。毛は三尺もあるのに小さくて形がわからないというのも意味不明である。ごく小さな本体に長い毛の生えたものだ解釈するなら蜘蛛が糸をひきながら巣立ったものかもしれないけれど、それなら見れば蜘蛛だとわかりそうなものだが。
生々しい地震の被害
『…見聞録』には地震の被害として、単に家が壊れたとか火災がおきたとかではなく、そこでどんなふうに人が死んだか記されているのも特徴である。たとえばがれきの下敷きになった人は腹から血を流し、目の玉が飛び出ているとあり、ただ人が死んだというのではない生々しさがある。そういえば小学生の頃に担任の先生が言うには、人は体が圧迫されると眼球が飛び出すのであって、階段などで将棋倒しになり、自分の生徒がむかし階段かなにかで将棋倒しの事故にあい、遺体は目が飛び出していて、葬式の時に押し込んでもとにもどしたのだというような話をしていたのを思い出す。
また、太ももの肉をがれきにはさまれ、それでも九死に一生を得た人が、泡を食って助けてくれと言うのを聞き、やはり動転していた近隣の人たちが、がれきをどかすことに気がまわらず力任せに助け出したところ、足の肉がくるぶしまでそげて白骨が出てしまうという話も印象深い。江戸中が地震にやられて医者も薬もない状態でどうにもならず、その人は血まみれの手でしきりに頭をなでて苦しむのでいたるところ真っ赤に染まり、翌日まで苦しんで狂い死にしてしまったとある。おそらく一番の死因は失血だろうから、誰かが気をきかせて役にたたなくなった足を落としてなんらかの方法で止血したなら命は助かったかもしれないが、かえって白骨が残るような状態だったからこそどうにもならなかったのだろう。まったく夢に出そうな話である。
『…見聞録』の著者は、自分の子供や後生の者への教訓としてこういった話を書き残したと序文にあるが、思えば昔の大人というのは、グロというか、スプラッタというか、この手の話をよく子供にきかせ「そうならないように気をつけなさい」とか「そういう人もいるのだから、あなたなんかまだまだ楽なほうよ」などと子供を諭す人が多かった。今となっては学校でこんな話を子供にきかせようものなら、子供がショックで寝込んで学校に来なくなり、教師たるもの子供の心に傷をつけるような発言をしてはならぬなどと大騒ぎになりそうなのだが、そのわりにネットではグロ写真を簡単に手に入れられるのだからおかしな話である。無菌状態で育てるのが果たしていいのか悪いのか。責任ある大人がこういう話を丁寧に聞かせるのは、かえって必要なことかもしれないと思う節がある。が、子供の頃にこういった話を聞くのは本当に恐かった。
人情話
ある娘が屋根の下敷きになって動けなくなっているのを、通りがかりの夫婦がみつけて助けようとするが、地震による火災がそこまでせまっており、夫婦の力では娘を助け出すことはできそうにない。自分のために人のよい夫婦までも犠牲にするわけにはいかないと、娘は夫婦に早く逃げるように言う。ただ自分の父母の老後を見る者がいなくなるのだけが心残りだと言うので、夫婦は「それならば自分たちが必ずめんどうをみるから」と約束して、形見として娘の櫛を手にして泣く泣くその場を去るのである。
広島におちた原爆の悲惨さを伝える漫画『はだしのゲン』に、主人公の父親と弟が爆風で潰れた家の下敷きになる場面がある。やはり近くまで火の手が迫っており、意識のはっきりした家族を焼け死ぬのがわかっていて置いて逃げる選択をしなければならない。父親は、もう無理だからお前たちだけでも逃げろと叫び、弟は助けてくれと泣くが、ゲンは弟の手に戦艦大和の模型をだかせて母親とともにその場を去らなければならなかった。地震とは関係がないが、同様の場面として思い出さずにいられなかった。
『…見聞録』に話をもどすが、夫婦は娘の母親をさがしあて、母親とともに娘が下敷きになった場所にもどるが、すでに火の消えたその場所で娘は全身焼けただれてひどい状態だったにもかかわらず、顔だけは苦しくて土に伏していたせいかきれいに焼け残り、身元がはっきりわかるだけにかえって哀れだったという。
# 『安政見聞録』は安政地震で死んだもの、生き残ったもののことを、著者が実際に見聞きしたことや人づてに聞いたことなどを、我が子や後生の者に学ばせるために書いたもので、被害の状況などが生々しく語られている。
穴蔵で火事をやりすごそうとしてかえって死ぬ話
これは『安政見聞誌』の話である。『誌』は被害状況などを淡々と記録しており、『録』にくらべると読み物としてのおもしろさは薄いが、それでも注目すべき点がいくつもある。
吉原のある女将は、十数人の遊女たちとともに地下に掘った穴蔵で火事をやりすごそうとした。家財道具や遊女たちを穴にいれて外から入り口をふさがせたが、火の手が通り過ぎた後に使用人たちがもどってきて開けてみたところ、女将も含めて全員が熱気と窒息で死んでいた。
『誌』の著者は、魚は水中にあって水を知らず、人は空気中にあって空気を知らずに暮らすと説明し、穴蔵は家財道具にとっては安全かもしれないが、空気のかよわないその場所で人がどれほど生きていられるものかと言っている。ましてや地上が焼ければ土が熱せられて灼熱の地獄になるだろうと。しかし、とっさの場合に人はなかなかそういうことに思い当たらないものである。
おそらく女将は遊女とともに着の身着のまま逃げたのでは、いつ足抜けされるともわからず損をするとでも思ったのではないか。それならば家財をしまう穴に遊女も入れてかくまえばよいと浅はかにも思ったにちがいない。自分も一緒に入ったのだから死なすつもりはまったくなかったのだろうが、欲とはおそろしく、無知もまたおそろしい。
雲を見て地震を予言した丁稚の話
これはすでに別の記事にも書いたが、駒込白山下の質屋ではたらく丁稚が、今夜あたり強い地震がくるというが、番頭が縁起でもないことを言うなとしかりつけて相手にしなかった。しかしその夜、まさしく安政の大地震がおこったのである。家の主人が丁稚をよんで、なぜわかったのかと訪ねると、丁稚の父親は信州の出身で、善光寺開帳の年に地震にあっており、その前兆として奇妙な雲をみたというのである。いわく、西の空に霞のような雲がたなびき、東の空にはつくねいものような雲が出ていたという。また、しばらくたって同じような雲が東西に出たので、大きな揺り返しを予感して家財をはこびだし、竹林に身を潜めていると、はたしてその夜に大きな余震があって、避難したおかげで救われたというのであった。これが本当ならばやはり地震雲というのは存在するのだろうか。『安政見聞誌』に見える話である。
黒い気のなかに青光りするものが飛び去ること
雲にかぎらず地震の前に空に異常があるという話は数多い。甲州の絹商人が四つ時(二十二時ごろ)に巣鴨のあたりで不思議な発光現象をみたという。北東の方角から南方にかけて黒い気の中に青く光るものが烈風のように響き渡って飛び去り、そのすぐあとに地震が起きたという。『誌』に見える、
亡霊の話、天狗の話、木馬が歩いた話
『誌』は淡々と被害状況を記すかたわら、おとぎ話のようなことも書き記している。地震のあと二日ほどたって、『誌』の著者の友人が元八幡というところで乳飲み子を抱いた女が駈け去るのを見たという。そのすぐあとに若者が五人ほどやってきて、子供を連れた人をみなかったというので、女を見たと話したところ、若ものは「それならもう追いかけても無理だろう」とあきらめて帰ろうとする。事情をたずねると、その子供の母親は、地震のおりに梁の下敷きになって死んだが、このような状況なので乳をくれる人もなく、父親はどうしたものかと悩んでいたところ、夜中にだれかがやってきて子供を連れ去り、朝になると家のどこかにちゃんと子供を戻して去るようになったという。子供はたっぷり乳を飲んで満足している様子である。そこで今夜は若い衆が女が子供をどこへ連れていくのか確かめようと追ってきたのである。その人が女の特徴を話すと、それは地震のおりに死んだ母親だということになり、わが子かわいさから亡霊となってどこかでもらい乳をして飲ませ、また子供を連れ帰っているのだろうとわかった。
また北品川の旅籠で働いている十五歳の娘でつねというものは、地震で避難していたところ、八日に白髪の老人と会い、十二日ごろに水火の相が強く出ているので、おまえは正直ものであるから、これを持って逃れるようにと羽団扇を手渡したという。あまりに不思議なこととして娘は代官所に届け出ている。十二日に何があったかは記載されていない。
浅草観音の本堂裏には誰かが奉納した木馬があったが、地震のあとに見ると足が四本とも泥でよごれていた。観音様が地震から逃れるためにお乗りになったのだろうと人々が噂したという。
また、地震のあとに雷門の木像が消えたというので、神通力で察知して地震から逃れたのではないかと大変な騒ぎになったが、この木像は地震の前から修理のために仏師のところへ運んであったものだったという。『誌』の著者は、木像が人の手をかりてあらかじめ仏師のところへ避難したともとれるので、やはり不思議なことだと書いている。
腕を切り落として助かった話
災害のおりには現代でも耳にすることだが、命はあるものの手や足が梁の下敷きになってどうしても抜けず、火の手や水がそこまで迫っている。仕方なく切り落として命を救おうというのである。物語の中ではこの手の話が沢山あり、たとえば『ブラック・ジャック』など作中に何度もあるし、『ドクタークイーン』という米国のドラマで、女医である主人公が洞窟の中で岩の下敷きになって出られなくなった息子の足を切断しようとする場面がある。洞窟内に水がわいており、人を呼びにいく前に溺れてしまうだろうという瀬戸際である。この話では発破の知識がある知人が一か八かで岩を破壊してことなきを得る。実話では学校行事で山へ行き崖崩れにあった少年が腕を大岩に挟まれてしまった事故を思い出す。救助がきて岩を壊そうとするがうまくいかず、その場で切断手術がおこなわれたと聞いた。詳細は覚えていないけれど。
同じような話が『誌』にも見える。馬場先御門の御固役である山田という人は、地震で崩れてきた番所の梁に腕をはさまれて逃げられなくなった。死を覚悟しているところへ息子がやってきたので梁をのけてもらおうとしたが叶わず、このままでは親子で死ぬことになるし、こうして命があるのにおめおめ焼け死ぬのも不本意だからと、息子に刀で腕を切り落としてほしいと願った。息子は泣きながらそれはできないというが、父親を無駄に死なせることが子の道ではないはずと諭し、ついに息子は刀で父親の腕を落とした。父親はたいした苦痛も見せずにその場から逃れて助かった。このことを耳にした太守から道理にかなう行いで父親を助けたとして沢山の褒美をたまわったという。
磁石で地震を予知する話
浅草茅町のなにがしという眼鏡屋は三尺もある磁石をもっていて、釘や古銭などを貼り付けておいたが、突然これらの金気のものが磁石から落ちてしまった。磁力を失った磁石などただの岩にすぎないとガッカリしていたところその夜に地震があった。石に鉄を近づけるともとのように吸い付いたという。このことから、地震の前には磁石が鉄を吸い付けなくなることを発見し、ある人が地震時計というものを作って図面に書いた。これを『誌』の著者は絵師の手をかりて記録している。
http://www.jcsw-lib.net/ansei/index.html
↑ここの下巻19/24にその図がある。滑車にまきつけた紐に重りをぶらさげ、もういっぽうは鋸状のきざみのある歯車にとりつけ、重りで紐がひかれると歯車がベルを弾いて音がする仕組みである。この紐の途中に鉄の破片をとりつけ、重りが落ちていかないよう磁石に吸い付けておく。地震で磁石が力をうしなうなら、重りが落下してベルがなるだろうというわけだ。
五日後に救われた生き埋め生存者
今でも地震などの災害で、生き埋めになった人が数日後に助かるケースがある。『誌』にもそういった例が記されており、あっさり死んだ者も、生き残ったものも、前世や普段の行いの因果だと述べている。
庭でひらめがおよいでいる
これは地震ではなく、安政大地震の翌年の水害の話である。読んでいる本に水害の記録である『安政風聞集』が含まれていたので一緒に抜き書きする。台風による高潮が本所あたりで二尺五、六寸、箪笥がういて引き出しが抜けたので拾って挿しておいたところ、水が引いたあとにあけてみると中にカエルがいて、はねまわったという。また、水没した庭でヒラメが泳いでいたという家があった。芝新銭座のある家では、家の崩れたところをとりはらってみると、イカ三匹、コチ一匹、真鯛が二匹いて、鯛はまだはね回っていたのでつかまえて刺身にしたともいう。
わたしは同様の話を江戸川区の知人に聞いた。知人の母親の話というから戦後のことだが、正確にどの台風かはわからない。大水がでて家の一階部分が浸水した時、家の中をカサゴかなにかの美しい魚が泳いでおり、あたかも水族館を見るようだったという。
球電の話
雷にともなう現象で、球電というのがあると東欧かどこかの人が著書にあらわして有名になったことが何十年か前にあるが、それと同じようなものが『風聞集』にある。丸山あたりの人が台風に屋根をめくられて途方にくれていると、南のほうから茶碗ほどの大きさの玉が飛んできて、三度光ったのちに北を指して飛び去った。それは青く光ったり、赤く光ったりして、すごい勢いだったという。
異国の鳥
嵐によって見知らぬ鳥が迷ってきたとも記されている。それは善知鳥(うとう)に似ているが、書物にある姿とは違うので異国の珍しい鳥だろうと考えられた。『風聞集』にはその鳥の挿絵があるが、首がいくぶん長く、小さなとさかがあり、足は短くて水鳥のようなひれがある姿で描かれている。
タグ:地震