東北旅行の写真も貼りたいのですが、その前に、7月末に八幡の薮知らずというものを見に行ったので、そっちの写真から片づけます。
▲道路の左側にあるこんもり茂ったところが「八幡の薮知らず」です。八幡不知の森(やはたしらずのもり)とか、不知八幡の森(しらずやはたのもり)とかも言います。千葉県市川市の八幡三丁目、市川市役所のはす向かいにあります。写ってる道路は千葉街道。
この森には不思議な伝説があります。
昔からこの薮に立ち入ると二度と出てこられなくなると言われていて、かの水戸黄門がそんな馬鹿なことがあるものかと入ってみたところ、どうしても外に出られず、結局、神様らしき人が現れて「禁断の地に踏み込んだのだから二度と帰さないところだが、お前は徳の高い人間だから、今回だけは助けてやる」とかなんとか言われて、やっと出てくること出来たそうです。
水戸黄門すら遭難しそうになった薮知らず。一体どんなに深い森なのかっていうとですね、
▲横から見るとこんな感じで、裏側はすぐ民家なんです。
『江戸名所図会』という江戸時代に作られた観光ガイドに「方二十歩に過ぎず」とあります。この文章の一歩が何メートルくらいだったかはビミョーなところですが、別の資料によると「薮の間口漸く十間ばかり、奥行きも十間にすぎまじ」とあるので、だいたい二十メートル四方の森だったんじゃないかと思われます。今と大差ない広さだったみたいなんですよね。
こんな小さな森でどうして、と思うのですが、とにかく、ここに入ったら出てこられなくなるというので、昔からだーれも入らない、いわゆる禁足地(きんそくち)なんだそうです。
その理由に関しては様々な説があります。
1. ヤマトタケル陣所の跡である。
2. さる高貴な人の墓所である。
3. 平貞盛が、将門を討伐する際に、八門遁甲の陣を敷いたと言われているが、将門平定後もあの世への入り口にあたる門を残しておいたのが、この薮にあたるため、祟りがある。
4. 平将門と俵藤太が戦った時、将門の陣から見てこの薮が鬼門にあたっていたため不吉とみなされた。
5. 平将門が討ち取られたあと、将門の家来六人が、主の首級(くび)を慕って将門の墓地と言われるこの地までやってきて、ここで土偶になってしまった。土偶はやがて風にさらされて壊れてしまったが、誰かがこの薮を荒らそうとすると祟りをなす。 # 江戸名所図会に見える
6. 薮のまわりは八幡村なのに、薮だけは行徳(ぎょうとく、地名)の持ち分だったため、八幡の村人たちが薮に近づくことをタブーとした。 # 江戸名所図会に見える
どれもこれも後付けっぽい説ですが、ここまでいろんなことを言って立ち入りを禁じているんだから、何か秘密があるんじゃないでしょうか。たとえば中心に財宝が隠されているとか、あるいはバミューダトライアングルみたいな時限のひずみがあるとか?!
しかし、市川市の教育委員会が立てた薮知らずの由来書には、以下のようなことが書いてありました。
古代から八幡宮の行事に放生会(ほうじょうえ)があり、放生会には生きた魚を放すため、池や盛りが必要で、その場所を放生池と呼びました。薮知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が充分に考えられます。
放生会というのは、つかまえてきた魚や鳥を許してやって、功徳を積もうという行事ですね。放した生きものが自由に暮らしていけるように、池のまわりが今で言うとサンクチュアリになっていたってことでしょう。
その後、放生会が行われなくなり、池も干上がってしまうと、禁足地の掟だけが残り、入ってはいけない理由が忘れられてしまったんじゃないか、というのが有力な説らしいです。
えー、そんな理由つまらない(笑)
▲薮の正面に「不知森神社(しらずもりじんじゃ)」と刻まれた鳥居と祠があります。薮自体はぐるっと柵で囲まれていて、入り口はありません。囲いの中に生えているのは孟宗竹です。大昔はちゃんと樹木が茂ってたそうです。
なんでも、この中にボールなど落としてしまうと、取るのにお祓いなどして大変な騒ぎになるということです。千葉街道を作る時に、薮のまわりの木を少し切ったらしいのですが、その時も祟りを恐れて誰も手を出さず、結局外国人の人足が雇われて作業にあたったと言われています。
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