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すごい・すごく

 最近わたしは自分が「すごい」と「すごく」の使い分けができなくなっていることに愕然としてます。すごいスピード、すごい雨、すごい音、あなたはすごい……など、名詞にかかる時は「い」です。でも、すごく速い、すごくきれい、すごく疲れる、すごくややこしい、のように、形容詞や動詞にかかる時は「く」です。

 わたしは小さい頃には誰に習うわけでもなく「すごい数の星だね」「すごくきれいな星だね」と自然に言い分けていました。たぶん15、6年前から、若者言葉として「すごいきれい!」「すごいすてきー」のように、形容詞にかかる時にも「い」を使うようになって、それが面白いので、あえて「何それ、すごい小さーい!」なんて言い方を選んでしていたはず。この時点では、わたしはこの使い方が間違っていることを知っているし、たぶんまわりの人も不自然なのを知ってたと思うんです。

 ところがですね、はっと気づいたら、今は全員が、大人子どももおじさんやおばさんたちまでもが「すごいイイ服ですね」「すごいカワイイ」なんて言い方を平気でしてるんです。テレビでアナウンスの勉強をしたと思われるアナウンサーの人たちまで、素でしゃべっている時には言ってる。

 こうなると寒気がして、他人の言葉遣いをあえて直そうとは思わないけれど、少なくとも自分は昔のようにしゃべってみようと思い始めました。ところが、言葉というのは理屈ではなくリズムでしゃべるものだから、「うわー、今日はすっごい寒いー」なんて言い方がつい口から出てしまう。気温と無関係に背筋が寒いです。

 気づいてない人からすると、なんでそんなどうでもいいことにこだわっているのかと思うでしょうが、わたしは昔、このあたりの使い分けを、かなり精密にしていて(意識していたわけではなく、自然にそうしゃべっていた)、すごく健康、すごく自由みたいなものにも、ちゃんと「すごく」と言ってた。「健康」「自由」という単語自体は名詞なんでしょうが、自分は健康、自分は自由と言った時、自分という名詞を「健康」や「自由」が形容詞的にあらわしているので、すごい、ではなくて、すごく、だったんです(この説明が文法的に正しいかどうかは知らん)。「すごい健康」「すごい自由」という用法はあり得るのですが、「すごく健康」「すごく自由」とはニュアンスが違うので、使い分けてました。ところが今は全部「わたし? 元気元気、すっごい健康!」なんて平気で言ってる。これは痛い。昔は息をするのと同じようにできてた使い分けが今はできなくなってる。日本語の微妙なニュアンスの違いが自分の中で消えつつあるんですよ。恐いですねえ。

 人生を何十年もやってる自分ですらこんなんなのに、若い人の国語能力の低下なんて嘆けません。てめーのケツをふくのに精一杯です。はい。


# わたしはかつて、ちゃんと使い分けていたのに、今できなくなった、というのが恐いのであって、昔からずっと「すごい」オンリーで通してる人に、それは間違いですと言うつもりはないです。まあそういう人にはこの話題は通じないと思いますし、この程度のことを無理に通じさせる必要もないでしょう。

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てっちゃん 2007年12月17日(月)18時44分 編集・削除

分る気がします。
私自身も、油断してると「らぬき」言葉になっていることがあります。悪い事をしているわけじゃないから良いのですが。
うかつ感が拭えなくて。

珍獣ららむ~ 2007年12月17日(月)19時45分 編集・削除

 そうそうそうそう、そうなんですよ。ら抜き言葉も以前は間違いだとわかっていて使ってたはずなのに、今では自然と口から出てしまう。

 先日あるところで「食べることが可能である、という意味で正しいのは "食べれる" です。"食べられる" は "狼に食べられる" などの受け身の意味になるのが正しい」と言ってる若者に出会ってしまい、呆然としました。でも、悪いのは彼だけではないような気がしてる。言葉はリズムで覚えるものなので、いきなり難易度の高い応用編の言葉の海に放り込んで育てた我々大人がいけないの、ううう。

 ら抜き言葉はあくまで日本語の応用編みたいなもので、くだけた雰囲気をかもしだすための特別な言い方だったはず。なのに正しい使い方を間違いだと平然と言う人まで現れると、もう恐くて「その豚肉はまだ食べれる?」なんて言えません。言っちゃうんだけどね。

Sari 2007年12月18日(火)01時23分 編集・削除

ら抜き、私も、はっと気づいて一人で赤面したりします(@.@;)

「すごい」と「すごく」については、例のバリ人に鋭く突かれたときがあり、これまた赤面状態でしたが、うまく説明できませんでした~!(汗

以前、ミニストップの店内でしつこく流れていたCMソング
「しゃべれる食べれるコンビニエンス、ミニストップ!」は買い物している間中、耳について発狂しそうになりました。
あと、TVからよく聞こえた
「クジラのダンス、北の国のオーロラ、ありんこの涙、い~つかきっと見れるよね~♪」という鈴与グループのCMソング、これも鳥肌立ってました。
人のこと言えた義理ではありませんが、ああ堂々とやられちゃあ・・・

珍獣ららむ~ 2007年12月18日(火)12時19分 編集・削除

 わたしは詩歌の世界で使われるのは、実はそれほど気にならないんです。ミニストップの例で言うと

しゃべれる たべれる  ミニス トップ
1 2 3 4 ・ 1 2 3 4 ・ 1 2 3 ・ 1 2 3

…と、四拍子二回+三拍子二回の変拍子になっていて、このリズムが「ミニストップ」という一番聞かせたい部分をうまいぐあいに強調してます。

 前半の四拍子二回は、四文字言葉ならなんでもよいのかもしれないけれど、ミニストップは買った物をその場で食べられるように椅子とカウンターを用意しているコンビニなので、「食べられる」をアピールしたいのも理解できるんです。「たべれる」「しゃべれる」と砕けた物言いにして、気軽にちょっと立ち寄れる、いかにもコンビニらしい雰囲気も醸し出してる。わたしは良いと思います。でも、こういうのは「食べられる」が正しいことを知ってるから感じられることなんです。

 「いつかきっと見れるよね」は……うーん、こういう言い方をするととても語弊があるんだけれど、頭の軽そうな、というか天然ボケしてそうな感じの、もっと良い言葉で言ったら夢見がちな若い女の子(しかも昨今の)を連想させるためにはちょっといいですよ。クジラのダンスやありんこの涙からの続きですから。で、これまた正しくは「いつかきっと見られるよね」だと知ってるから感じられることです。

 そういう言葉遣い「も」ある状態にしておかなきゃいけないんです。「だけ」になったら恐い。