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堀之内貝塚公園(市川市)

 先日、市川市の歴史博物館&考古博物館というのに行きました。博物館そのものも面白かったのですが、隣接している公園が本物の貝塚なのが個人的にはツボにはまりました。

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▲たとえばこのなんでもない小道をよくみると…

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▲貝殻が落ちてる?!

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▲ちゃんと形の残ってる貝殻がたくさんあります。

 博物館の人に聞いたら、ほんとに古代人が捨てたもので五千年くらいまえのものですよって、ものすごいことをサラッと言ってました。

 公園の名前が堀之内貝塚ですから、もちろん貝塚なのはわかってたんですけど、雰囲気作りのために最近まいた貝殻なのかなって思ってたんです。本物だったとはびっくりですね。

 現代人も東京湾にゴミを沢山埋めています。五千年後くらいの人たちが夢の島を発掘したら、粗大ごみ塚公園にしてくれるかしら。夢の島は今でも公園ですけどね。

タグ:地元(葛飾周辺)

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melonmania Eメール (09/25 21:41) 編集・削除

貝塚や古墳はちょっと前までは良く行っていたのですが、最近は行く暇もなくなってしまいました。小3の時に加曾利貝塚に行きましたが、広くて資料館の展示も豊富で楽しかった思い出があります。

珍獣ららむ〜 (09/26 03:30) 編集・削除

melonmaniaさんこんにちは。
わたしは群馬育ちなんですが、あのへんは海が遠いので、貝塚はないこともないけど数が少ないです。
何千年も前の貝殻が今も普通に落ちてる場所は、ロマンがあるし面白いですねー。
加曽利貝塚は行った事ないので、チャンスがあったら一度行って見ます!

羅漢の井(市川市・里見公園内)

 市川市の里見公園内に羅漢の井というのがあります。井戸というか、湧き水らしいです。『江戸名所図会』にも図があります(説明はない)。

◎市川市|里見公園「羅漢の井」
http://www.city.ichikawa.lg.jp/gre04/1111000009.html

 市川市のサイトによると、国府台(こうのだい)は高台なので井戸はかなり深く掘らないと水が出なかったそうです。ところが羅漢の井だけは常に清流が溢れていて不思議な場所だったとか。一説によれば弘法大師が発見したとも言われているそうです。


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▲江戸名所図会には、この図が掲載されています。


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▲今はきれいに整備されてこんな感じになってます。

 市川市のサイトにある説明を読むと、高いところにあるようにも読めるんですが、実際には川べりのそんなに高くないところにあります。

タグ:伝説 地元(葛飾周辺)

夜泣き石伝説(市川市・里見公園)

 京都と大阪の旅行記もやりたいんですが、その前に地元の話題を消化しときます。

 市川市に里見公園っていうところがあります。葛飾区からだと、柴又から矢切の渡しで江戸川を渡って、川沿いをてくてく歩いて南下したところにあります。

 そこに「夜泣き石」というものがある、というのはけっこう前から聞いていました。たぶん地元系のフリーペーパーかなんかで読んだんだと思います。

 ところが場所がわかりにくく、何度か見に行ったものの、みつけられずにいました。公園内で地元の人とおぼしき方に場所を聞いたこともあったのですが「ああ、それならあっちだよ」と教えてもらった方向に、行けども行けどもそれっぽい場所にたどり着かず、首をひねりつつ帰ったのも良い思い出です。当時はまだパソコン通信の時代で、今みたいに簡単にものを調べられない時代でした。

 あれから随分月日がたって、そういえばそんなこともあったよなあと、検索をかけたらいろいろ情報があったので行ってみることにしました。

 なんでも、夜泣き石は里見公園の中にあり、公園内でも目立たない場所にあって、通路沿いに案内などはなくて、また周りより高くなっている場所にある、らしいです。ふむー。

 というわけで情報をもとに里見公園の高いところを探してみました。最初にたどり着いたのはここ。

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▲明戸古墳石棺(あけどこふんせっかん)。

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▲明戸古墳の説明板より。

 公園の一部になっちゃってるので全体像がはっきりしないのですが、前方後円墳の丸いところのてっぺんにあたるみたいですね。この石棺は『江戸名所図会』にも記録があります。

石櫃二座

 同所(総寧寺の境内・国府台古戦場)にあり。寺僧伝へいふ、古墳二双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎広次といへる人の墓なりといふ。一つはその主詳らかならず。あるいはいふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、いまは石棺の形地上にあらはる。その頃櫃のうちより甲冑・太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、いまその一、二を存して総寧寺に収蔵せり。
 按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎および正木内膳の墓とするは、いづれも誤りなるべし。

 里見長九郎広次(さとみちょうくろうひろつぐ)という人の墓だと思われていたけど、実際にはもっと古代のものだろうってことですね。出土品が総寧寺(そうねいじ)に収められたともありますが、これは現存しないそうです。

 説明版によると、この石棺は黒雲母片麻岩(くろうんもへんまがん)という石でできていて、茨城県の筑波山から切り出されたものだそうです。

 説明版には目指す「夜泣き石」のことも書いてありました。もとはこの石棺に石の蓋がついていたそうなんですが、その蓋は里見公園内にある夜泣き石の台座になっているっていうんです。

 おお、有力情報!

 でも、公園内のどこにあるかは書かれてないんですよー。こういう説明書く人って実際に公園には来てみないんですかねー(笑)

 というわけで振出しに戻る。夜泣き石はどこだー。

 このへんで iPhone を取り出してネット上の情報を確認。えー、なになに? 目に付く場所に夜泣き石の案内はないが、近くに火を使ってはいけないエリアを説明する看板がある??

 それでやっと場所がわかりました。

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▲これが夜泣き石かー。なんかほんとにわかりにくい場所にありました。こんなのわかんないって。

 この石には古戦場にまつわる悲しい伝説があります。

 先ほど見た石棺の中の人である里見広次さんは、1564年の合戦で戦死しました。この時、十二、三歳になる広次の娘が亡き父を慕ってこの地にやってきましたが、合戦場の悲惨な有り様にショックを受けて、この石にもたれて泣き続けるうちに死んでしまったというんです。

 それからというもの、夜になるとこの石から少女が泣く声が聞こえるようになりました。あるとき一人の武士が通りがかり、姫君の霊を哀れんで手厚く供養したところ、泣き声はぴたりと止まったということです。

 ちょっといい話ですが、里見広次は戦死した時十五歳だったそうです。いくら昔の人が早熟だからって十二歳の娘がいるはずもありません。若くして合戦で死んだ武将と、古代人の墓が結びついて生まれた伝説なんですね。

 夜泣き石も、もとは古墳の石棺の前にあったそうです。いつごろ今の場所に移動されたのかは、公園の説明版には記述がありませんでした。

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▲里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑。左:里見諸士群亡塚、中:里見諸将霊墓、右:里見広次公廟。
 広次公廟はいつできたかわからないそうですが、他は1829年に作られたものだそうです。里見公園のあたりで合戦があったのは1564年のことだそうですから、慰霊碑が作られたのは、なんと265年後!

 1814年から滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の刊行が始まっていますから、八犬伝人気で国府台の合戦が注目されるようになったんでしょうね。八犬伝はフィクションですが、里見氏最後の当主である忠義の八人の家臣が登場人物のモデルになっているとも言われています。

 国府台の合戦は、里見氏と北条氏の戦いですが、里見氏が敗けて戦死者は五千人にものぼったと言われています。



より大きな地図で 夜泣き石(里見公園) を表示
夜泣き石があるのは青いポイントのあるあたりだったと思います。明戸古墳石棺はそこよりちょっと北のほうにあったと思うんですが、航空写真を見ても木が茂ってて正確な場所がよくわかりません。


国府台の合戦について、葛飾区側に残る昔話と伝説

 合戦がよっぽどショックだったのか、あるいは八犬伝の影響かはわからないのですが、葛飾区側にも合戦関係の伝説がけっこう残っています。


◎橋の名前:やつけはし(矢付橋)
 たとえば葛飾区柴又のある場所には、合戦の流れ矢が飛んできたといわれる場所があります。そこにはかつて橋がかかっていて、伝説にちなんで矢付橋(やつけばし)と呼ばれています。今は川が暗渠になって、橋の跡だけがのこっています(以前写真をとったはずなんですが、みつからないのでそのうちまた撮ってきます)。

矢付橋の場所はここ(google map)
 夜泣き石と同じ地図に書き込みましたから、広域にすると位置関係がよくわかると思います。

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▲矢付橋のあった場所はここです。写真とってきました。



 また、葛飾区の水元にある遍照院というお寺は戦国時代に一度消失しているのですが、その原因としてこんな昔話があります。

◎遍照院が焼けたわけ:その1
 遍照院で夜遅くまで法事を行っていたところ、里見氏の残党が潜んでいるものと勘違いされて、北条氏の軍勢が寺に火をつけて焼き払ってしまった。

 『増補葛飾区史』を確認したところ、天文七年(1538年)、小田原北条氏と安房里見氏の合戦で里見氏が敗れた後に、遍照院で仏会があり法幡(仏事で使う旗のこと)をつらねていたら、国府台からそれを見た北条しが、里見が決起したと思い込んで風上から寺に火を放って焼いてしまった、とありました。

 先に書いた「夜遅くまで法事があって国府台から灯りが見えた」というのも何か別の本で読んだと思います。なんだったかは思いだせません。


◎遍照院が焼けたわけ:その2
 『増補葛飾区史』によれば、同じく天文七年のこと、寺の小僧さんが古利根川で下帯(ふんどし)を洗濯して、たわむれに長い竿に結んで「源氏の白旗はこれなり」と合戦のまねごとをしていたら、国府台からそれを見た北条氏が、里見の落人が決起したと思い込んで寺を焼きに来た、とあります。

 遍照院は水元五丁目にあります。国府台からかなり離れていますが、果たして小僧さんのふんどしが見えるでしょうか。

遍照院の場所はここ
 これも夜泣き石の地図に書き込んであります。


◎西水元の財宝伝説
 また、遍照院からあまり遠くない、葛飾区西水元には、里見の残党が軍資金を埋めに来たという昔話があるそうです。参考>葛飾文化の会『葛飾百話』


◎江戸川を浚渫したら甲冑が?!
 また、合戦場になった江戸川を昭和の初期に浚渫(しゅんせつ、川ざらい)したところ、おびただしい数の刀剣や甲冑が出てきたと言われています。参考>葛飾文化の会『葛飾百話』

 江戸川から出てきたという甲冑は近年の話ですから、もし本当ならどこかに一部が保存されていてもおかしくないですが、そういう話も聞かないので、あくまでうわさ話なんだと思います。

 でも「今度、江戸川の川ざらいをするんだって」というニュースを聞いて「それじゃ国府台の合戦で死んだ武士たちの甲冑やら刀剣やらがごろごろ出てくるね」なんて話が普通に出るくらい、ここらでは国府台の合戦がよく知られていたってことでしょうね。

タグ:伝説 地元(葛飾周辺)

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Sari URL (09/21 03:18) 編集・削除

ご無沙汰しています、Sariです。
PC壊れた上に夏バテから体を壊し、まだ闘病中です。

古墳の石棺と夜鳴き石、おととしだったか行きました。
桜の季節できれいでした。
市川は色んなものがあってなかなか楽しいところで、
一度では見切れずに二週に渡って行ってしまいました。

珍獣ららむ〜 (09/21 06:59) 編集・削除

お久しぶりです。
今年の夏は強烈に暑い日と寒いくらいの日が両方あったし疲れますよねえ。
しかも、昨日今日とまたぐんと冷え込んでますし。
お体気をつけてくださいませー。

里見公園には、大昔、桜の季節にも行ったことがあります。
たしか八重桜が沢山あったような気がするので、
ソメイヨシノの終わった頃にもう一度行くと二度美味しいですね。

昔はゴールデンウィーク中だけ矢切の渡しの柴又側から里見公園へ行くモーターボートが出てたはずなんですが、
今もやってるのかな、と思って検索したら
http://kinouchi.web.fc2.com/satomi02/news63.html
里見公園側の船着き場が違法係留だと言われて終わったそうです。
何代にもわたって続いてる船頭さんなんだから、
どうにか残す方向で整備してほしいなあ。
小岩菖蒲園行きの船は知らなかったのでそっちも再開してほしいです。
いい観光資源なのにもったいない。

東北旅行21:ってなわけで帰ります(最終回)

 21回も続いた東北旅行記2011年8月編もやっと終わりです。なんか力入れ過ぎました。

郡山駅
▲郡山駅。やたらでっかい駅でした。

 磐越西線で郡山まで戻って、そこから東北本線に乗ってもいいんですが、まだ日も高いので、水郡線で水戸経由の常磐線で帰ることにしました。帰りは夜になっちゃうから、外が見えなくなったら暇つぶしに読もうと思って、郡山の駅ビルで本を買いました。

郡山駅・水郡線
▲水郡線です。奥久慈急流ラインなんて愛称がついているのできっと雄大な風景が……?!

水郡線の車窓から
▲と、思いきや。車窓から見えるのはずーっとこんな田園風景でした。田んぼ美しいよ田んぼ。急流はたまに橋を通る時だけ見えました。田園風景は大好きですが、中央本線みたいに並走する川がちょくちょく見えるわけじゃないんですね(笑)


 この日は常磐線のどこかでも大雨がふったとかで、常磐線も徐行運転をしてました。予定より少し遅れましたが日付が変わる前に金町駅に到着。青春18きっぷを利用した二泊三日の東北旅行はこれで終わりです。

 御釜神社の神宝の釜も見たいし、未だに東北大学の植物園を見られてないし、アクアマリンふくしまへも行きたいから、またそのうち東北へ行きますよー。

タグ:2011年8月東北旅行

東北旅行20:会津若松駅でにしん蕎麦を食べて、猪苗代へ

 というわけで、バスで会津若松駅までもどってきました。次は磐越西線で猪苗代へ行くんですが、電車が来るまで少し時間があるのでお昼を食べようと思います。

 ところが(前にも書きましたが)駅前にろくな店がないんです。創業100年のマルモ食堂の前まで行ってみなかったのは失敗でした。地下道の入り口に隠れてるけど、日曜以外は営業してるそうですから、たぶん前まで行ってたら開いてたんですね。かえすがえすも残念です。

 他の店を開拓するほど時間はないので、会津若松の立ち食い蕎麦屋さんで済ませました。

にしん蕎麦
▲会津若松駅の立ち食い蕎麦屋さんで食べた「にしん蕎麦」です。駅の立ち食いで具がニシンっていうのは珍しいでしょう? 身欠きにしんをもどしたのを天ぷらにしたものみたいです。

 にしん蕎麦は京都のが有名なんだっけ? 会津でも身欠きにしんをよく食べるんだそうです。消費量がものすごくて、ニシンの相場は会津で決まると言われているとか。いろんな料理に使うそうですよ。


猪苗代へ

 というわけで、来る時とは逆に磐越西線をたどって猪苗代駅で降りました。

猪苗代駅
▲これが駅舎の入り口。山小屋風でかわいいです。

 猪苗代といったら名前は有名だし、ここが五色沼やなんかの最寄り駅だと思うんです。さぞ栄えているんだろうなと思ったら…

猪苗代駅前
▲え、なにこのさびれ具合は。

猪苗代駅前
▲こっちの黒っぽい建物の喫茶店が開いてるほかは、みんな閉まっててゴーストタウンみたいでした。平日でしたけど、いちおう夏休み期間中なんですよ?

 東北新幹線があるから? とも思ったけれど、最寄りの郡山はちょっと離れているし、やっぱり五色沼あたりへは猪苗代駅が最寄りなんじゃないかしら。ってことは、電車の旅をする人が減ってるってことでしょうか。車があったら高速道路のほうが便利だし、家族分の電車賃より高速代のほうが安いですからねえ。

野口英世記念館

 さて、ここからはまたバスです。野口英代記念館に行きます。

 え、誰ですか、野口英世を知らないとか言ってる人は。千円札のオジサンですよ。彼は子供の頃に囲炉裏で火傷をして、左手の指がくっついて動かなくなってしまいましたが、苦学して海外へ行き、アフリカや中南米で黄熱病の研究をしました。

 わたしは中学の修学旅行で東北をおとずれたり、親戚がいたりしてこっちのほうは珍しくないんですが、なぜか野口英世記念館には行ったことがありませんでした。

 それが去年の3月だったでしょうか、近くを通りがかったので寄ってみたら、もう夕方だったので閉館していて、まわりにだーーーれもいなくて、寂しいかぎりでした。

 それでいつか開いてる時間に来てみようと思ってたんです。一度見たら気がすむと思うしね?

 バスは、事前にしらべておいたところ、一時間に一本くらいは走っているようです。おお、東北旅行ではじめてまともに走っているバスだー(どんな僻地を旅しているんだ、わたし)。

◎磐梯東都バス・時刻表
http://www.totobus.co.jp/bandai/timetable.html
 記念館へ行くのは、ここの「*北窪・猪苗代病院発〜猪苗代駅経由〜会津レクレーション公園方面(上り・下り)」っていうのを見てください。ちなみにバス代は片道290円です。
◎磐梯東都バス・トップページ
http://www.totobus.co.jp/bandai/


野口英世記念館
▲野口英世の生家です。

野口英世記念館
▲英世のお母さんが使った養蚕の道具。英世のうちはほんとうに貧しかったので、お母さんがなんでもやって学費を稼いでくれたみたいです。庭にはお母さんが植えた桑の木がまだ残っていました。養蚕以外にも、もちろん畑仕事をして、猪苗代湖でエビをとったりしてたそうです。

野口英世記念館
▲ここが、英世が手に火傷を負ったいろりです。ここのすごいところは全部本物ってことです。再現したんじゃなくて、残っていたものを保存してあるんだそうです。

野口英世記念館の裏
▲かっこいいステンドグラス。生家のとなりに遺品などをおさめた資料館があって、そこにありました。

 資料館内には野口英世のそっくりロボットがいて、何かぺらぺらしゃべりながらくねくね動くんです。けっこうリアルで面白いんですよ。いちおう動画にとったんですが、資料館内はさすがに撮影禁止かもしれないので、公開は差し控えます。

 でも、youtube で探すと普通にあったりします(笑)興味のある方は探してみてください。


野口英世記念館裏の農地
▲記念館裏は農地で、この道の向こうは猪苗代湖です。

 猪苗代湖のまわりは、ちょっと風景が不思議な感じです。湖のまわりに道路があって、道路と湖の間がやたら広い農地なんです。だから道路を走ってても、あんまり湖は見えません。その感じがうまく言えないんですが、日本離れしてて、ちょっと不思議です。

猪苗代湖
▲湖まで近づいてみましたが、さらに葦原が続いていて、湖面は見えませんでした。猪苗代湖って広いなあ!

野口英世記念館と磐梯山
▲振り返ると磐梯山が……雲に隠れてますね。残念。なんでもあの山はわりと最近まで噴火してたらしいですよ。野口英世の子供の頃にも噴火して、ここいらに大量の灰が降ったそうです。そのとき英世は湖で遊んでたらしいのですが、あたりが暗くなってものが見えないから、噴火がおさまるのを待ってからゆうゆうと帰ってきたそうです。冷静な判断ですねー。

バスを待つ間に地ビールを一杯

 記念館のまわりは観光施設がいくつもあります。この日は入ってみませんでしたが民芸資料館みたいなものもあったし、世界のガラス館とかもありました。お土産屋さんも何件かあったし食事を出来る店もありそうでした。

 地ビールを作ってる建物があったので、バスを待つ間に入ってみました。
猪苗代地ビール館
▲猪苗代地ビール館。駐車場ガラガラですが、中には意外と人がいました。会津村は貸し切りみたいでしたけど、野口英世記念館のまわりはそこそこ観光客がいました。そこそこですけどね。

猪苗代地ビール館・ラオホ
▲ラオホという黒ビールを注文。わあ、これ美味しい。二杯目からは割引料金で飲めるそうです。


◎野口英世記念館(公式サイト)
http://www.noguchihideyo.or.jp/

◎世界のガラス館(地ビール館が併設されている)
http://www.world-glassware.com/


ところで福島県は安全なの?

 この日おとずれた会津若松も、猪苗代も、みんな福島県です。福島県といえば原発事故で大変なことになってしまいましたが、はたして放射線はどうなんでしょう? 地震の影響は?

 まず、放射線ですが猪苗代や会津若松は原発からは何十キロも離れています。Yahoo! の放射線情報で、原発から北西に 50km くらい離れた二本松の記録を見ると 0.267(μSv/時) とかですから、これは葛飾区の金町ときわ公園や水元中央公園のデータとあんまり違わないです。これで危険なら東京で外へ出られませんから、通常の観光ならばなんの問題もなさそうです。

 地震については、会津村と野口英世記念館しか見てないのではっきりいえませんが、たぶん大丈夫。観光に支障が出るような被害は残ってないと思います。ただ、今年は7月に大雨が降りましたよね。その影響で、只見線と磐越西線の一部で今でも(2011年9月15日現在)電車が止まってます。電車で旅行をする人は、JR のサイトで運行状況を見ておいたほうがいいです。

 津波のあった海沿いはまだ大変かもしれませんが、いわき市の海沿いにある、アクアマリンふくしま という水族館はすでに営業を開始しています。ここは液状化と津波の被害があった上に、送電が止まってしまい、魚がほとんど死んじゃったんですよね。生き残ったわずかな魚は東京や千葉の水族館に避難させて、復旧作業を急ピッチで進めたそうです。できれば行きたかったんですが、ちょっと時間をとれませんでした。いわき市は原発から南へ 50km くらい。yahoo! の放射線情報で 0.128(μSv/時) くらいですから、これも東京と変わりません。

 もちろん原発のまわりは立ち入れない地域がありますし、常磐線は一部まったく復旧の見込みのたっていない区間があります。でも、それ以外の地域への観光は大丈夫だと思います。


 福島以外でも、津波の影響がひどかった地域以外は通常営業してると思います。津波が来たのに松島なんかはもうやってますので、秋の行楽シーズンに東北なんかどうかしら、と思ってる方は心配せずに行っちゃってください。

タグ:2011年8月東北旅行