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昨日作ったもの

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▲がま口と毛糸の針山
 布のがま口を作ってみたくなり、ためしに口金を一個だけ買ってきた。説明書がついていないので手探りで型紙を作り、捨てても惜しくない布で何度か作り直して、どうにか大きさの調節をした。

 最終的には口がねに止め付けてみないと状況がわからないので、仕方なく適当な布のままやってみた。結果的にはまあなんとかできたんだけど、止め付け作業が意外と難しい。油断すると左右のバランスが悪くなる。接着剤で固定しつつ口がねをペンチでかしめて止めるタイプだから、一度止めちゃうとやり直しもきかない。意外と難しいっていうか、なんかわたしには無理かもね。やりなおしがきかないのが一番きつい。練習の数だけ口金を買わなきゃいけない。

 作り方のサイトはあちこちにあったので読んだし参考にしたけれど、この手のコツは実際に見ないとわからない部分が多いね。でも、どこへ行って聞けばいいやら、という感じ。

 話は変わるけど、最近の建物は壁が木じゃなくて石膏ボードだったりするじゃない。壁がもろいのでネジひとつまともに使えない。普通にねじ込んだだけじゃ壁が壊れて簡単に抜けちゃうから。ネジを受けるための部品を石膏ボードに埋めてからじゃないとダメらしい。

 その、ネジを受ける部分をどうやって埋め込むのか、やってるところを見たことがないからイメージがサッパリ湧いてこない。買えば説明書くらいついてるだろうけど、そうじゃなくて実際見たいし練習したいわけ。でもどこへ行って聞いたらいいかわからない。まあ、そもそも家が賃貸だったらネジも釘もダメなんだろうけどさ。


 針山は、ダイソーで買った染め分け毛糸が意外とダサイので無駄に消費しているところ。かぎ針で長編みしてみたら、どうしていいかよく分からない薄汚れた物体になった。

 細編みにしてみたら細かい迷彩模様で、こうやって使えばいいんだろうな(もしくは棒針で編むか)と納得はしたけれど、迷彩色はあまり好きじゃないんだよねえ。玉に巻かれてた時はそういう配色だって気づかなかったんだもの。編んでみて「あっ!」と思った。染め分けって難しい。でもダイソーだから。写真にとったら黒いだけになってしまった。二重にダメじゃんもう。

 迷彩を目立たなくするために赤い毛糸で針をさすところを作ってみたけれど、赤すぎてぜんぜんダメだ。もうちょっとくすんだ赤なら似合いそうだけど、これのために高い毛糸を使いたくないなあ。

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▲太陽光でとりなおしてみた。逆光で写したら色わかりませんって。

タグ:手芸

なまじ似てるほうが難しい法則

アイヌ語はなまじ日本語と似ているから余計にわかんない・1

 そういえば昔はアイヌ語を日本語の一方言みたいに思っている人が少なからずいたらしいんだけど、そこまで似てないです。たしかに日本語と語源を同じくする語彙も多いし、語順も似てるけど、アイヌ語には「〜が」「〜に」「〜を」のような助詞はないし、動詞に何かつけて過去を表現したりもしないし、とにかくいろんなことが違う。

 中でもこの違いは面白いんじゃないかと思うのは、ものの性質によって所有の表し方が違うこと。

 たいていのものは、「わたし・持つ・ナントカ」という形で「私の〜」という意味になる。

ku=kor itanki わたしのお椀
e=kor tamasay お前の首飾り
ci=kor cise 我らの家
eci=kor cip 君たちの船

 これらはどれも、「ダレソレが持つ、ナントカ」という形になっている。

 ところが「私・ナントカ(名詞所属形)」という形で「私の〜」を表す単語がある。

k=utarihi わたしの家族 utar:家族
e=seturuhu 君の背中 setur:背中
ci=akihi わたしたちの弟 ak:弟
eci=kerihi おまえたちの靴 ker:靴

 どこに違いがあるかっていうと、人にあげたら他人のものになってしまうものと、そうでないものの違いだそうな。

 手や鼻や目のような体の一部や、弟、妹、兄、姉、父、母、家族みたいな、どう頑張っても他人には与えられないようなものは、「ダレソレ・名詞の所属形」の形で所有を表すらしい。植物の葉や枝なんかにも所属形がある(植物自身から見たら体の一部だから?)。

 お椀や首飾りみたいなものは、そもそも所属形がないので後者の方法では言い表せないし、耳や足なんかを「ku=kor」とかでは言えないそうだ。説明されれば違いはわかるんだけれど、日本語にはない発想だと思う。

 よくわかんないのは「靴」にまで所属形があるということ。靴なんかいくらでも他人にやれそうなものなのにね??

# アイヌ語も地方により語彙が少しずつ違うんだけど、萱野茂の「アイヌ語辞典」を引くと、着物にあたる単語で、amip には所属形がなくて、humuyke(he)、mipi(hi)は、()内の語尾をつけることで所属形を作れるらしいです。靴も着物も身につけるものなので、自分の一部とも考えられるのかも。

アイヌ語はなまじ日本語と似ているから余計にわかんない・2

 もうひとつ、これはひょっとすると昔の日本語もこうだったのかな、と思うんだけれど、名詞に場所になりうるものと、そうでないものがあるらしい。

 たとえば、ta というのは「〜で」という意味の格助詞だけど、必ず場所を表す名詞とセットで使わなきゃいけない。これだけなら日本語とかわらない。

 問題は何が「場所を表す名詞」なのかってこと。村は場所を表すので、kotan ta:村で、という言い方ができる。

 じゃあ、砂浜は? 日本語なら砂浜は場所になりうるので「砂浜で」と言える。でもアイヌ語では砂浜は物であって場所ではないらしい。

 そういう場合は名詞にくっついて場所の意味を作る形容名詞というのを使うらしい。

sanota ka ta:砂浜・のところ・で
ita so ka ta:板の床・のところ・で

 決して、sanota ta とか ita so ta とは言わないそうだ。

 最初は素直に日本語とは違うんだなと思ったけれど、何度も唱えてるうちに、日本語にも同じ違いがあるんじゃないかという気がしてきた。

 〜のところ・で、という形にこだわるとわかりにくいので、〜の上・で、〜の中・で、で考えてみる。

○村で △村の中で(くどい)
○砂浜で △砂浜の上で(くどい)
×砂で ○砂の上で
○浜で ×浜の上で

 こうしてみると、何が場所で、何が物なのかわかる。村や浜は場所っぽいけど、砂は物なのだ。

 砂浜は、砂の浜なので場所ってことになる。だから「砂浜の上で」とか「砂浜の中で」という言い方をするとくどい。日本語はそのあたりを厳密に分けないので間違いとはされないけれど、スマートな物言いではないはず。

 このとおり「場所を表す名詞と、そうでない名詞がある」というのは日本語でも同じような気がする。

 でも、何を場所、何を物とするかは違っているみたい。アイヌ語では sanota(砂浜)は場所じゃなく物で、日本語ではどうやら場所っぽい。


 そんなこんなで、アイヌ語と日本語は、半端に似ていて、半端に違っている。だからよけいに頭がこんがらがって困っているところ。


 左から二番目の辞書は、わたしは持ってないんだけど三番目の「カムイユカラで……」と著者が同じなのでセットで買うと幸せかもしれません。が、けっこうなお値段です。

 「カムイユカラでアイヌ語を学ぶ」はCD付きです。このCDがかなり楽しい。ひとつ前の記事に書いた「年寄りカラスがどうした」の歌も入ってます。

 一番右のは音楽CDで、伝統的な歌を軽くアレンジして伴奏をつけてあります。が、アレンジがアッサリしているので嫌みがありません。


[追記]
 「砂山の砂に腹ばい」という石川啄木の短歌があるけれど、砂は物なので本来ならば「砂の上に腹ばい」で、「の上」という場所を作る単語が省略されているんだと思う。

 他にも「船で暮らす」とかも、「船(の上 or の中)で働く」の略だけれど、日本語では省略しても意味が通じればあまり問題にされないわけです。この場合の船も物であって場所じゃない。

 
 などと、ブツブツ言いながら、〜 ka ta (〜の・ところで)を克服しつつあるわたくしですが、 yakne と yakun と kor の違いに倒れそうです。

〜したら(yakne)、〜なるでしょう
〜したら(yakun)、〜する
〜したら(kor)、〜になるものだ

 全部同じに見えるー(笑)!!!

似てるー

Onne paskur ine
(アイヌのわらべうた)
Onne paskur ine 年寄りカラスがどうした
Tara tak wa isam 俵を持って行っちゃった
Ne tara ine その俵どうした
Sake a=kar wa isam 酒を造ってしまった
Ne sake ine その酒どうした
A=ku wa isam 飲んでしまった
A=ku ruwe ine 飲んでどうした
A=eosoma wa isam うんこにして出しちゃった
Ne osoma ine そのうんこどうした
Seta e wa isam 犬がたべた
Ne seta ine その犬どうした
Cironnup kamuy rayke wa isam 狐の神が殺した
Ne cironnup ine その狐どうした
Okimunpe san wa a=momka wa isam 山津波に流された

Ne 〜 ine : その〜どうした
〜wa isam : 〜してしまった


のんのさんいくつ
(葛飾のわらべうた)
のんのさんいくつ 十三七つ
まだ歳ぁ若いね
若子を産んで 誰にだかしょ
おさんにだかしょ
おさんどこ行った 油買い 茶買い
茶買いの前で すべって転んで
油一升こぼした
その油どうした
白どんの犬と 黒どんの犬と
ちょっくら来てなめた
その犬どうした
太鼓に張ってしまった


 アイヌ語の入門書を読んでたら似てることに気づいたので並べてみたよ。リンク先は midomi になってます。


グリーンカプセル二個セット★テレビで紹介されました!
大人気!
3,150円(税込)送料込

 野菜の種をカプセルの中で発芽させて、大きくなったらプランターに植えると本当に育つそうです。エコとかロハスとかって連呼されてるのが強烈にムカつくけどカプセルがかわいい。首からさげたり、ストラップにしたり、イヤリングにしたりと、楽しみ方はいろいろ。もちろん机の上に置いて眺めても可。

 今あやうく注文しかけて、他にほしいものがあるんじゃないかと思いとどまったところ。三日くらい考えてまだほしかったら買うかも(笑)

タグ:わらべうた midomi

帝釈天で豆まきを見た

 節分なので帝釈天の豆まきを見に行った。出かけてからカメラを持っていないことに気づいたけど、もういいや、なんか今ものすごくやる気失せてるところ。

 家を出て、もよりのバス停から京成バスに乗った。このへんからだと戸ヶ崎操車場〜金町駅、金町駅〜小岩駅、というバスが走っていて、一日に何度か戸ヶ崎から小岩まで直通のバスが走ってる。柴又は金町の向こうにあるので、通常ならばバスを乗り継がなきゃいけない。往復で840円になる計算。区内のちょっとそこまで行くのに馬鹿こくでねぇって感じの金額だ。

 有り難いことに東京にはバスの一日乗車券というものがあって、同じ会社のバスならば、乗り降り自由で500円也。三回のったらペイ計算。当然これを買うよね。

 家の近くでバスを待っていたら、ラッキーなことに小岩駅まで直通のバスがやってきた。帰りもこれに乗れたらいいのになあと思いながら、それほど本数が多くないことも知っているので「一日乗車券ください」って500円きっちり、おつりの出ないように差し出した。

 過去に何度か千円札を出して「おつりがない」って不満げに言われたことがあり、その状況にもかなり頭にきているんだけれど極力おつりが出ないように気をつけて、つねに500円くらい持ってることにしてるわけだよ、誰か褒めてください。

 にもかかわらず売れないって言われた。切符がないんですと。なんと、日に四枚しか持ち歩いておらず、今日は四枚ともさっきいっぺんに売れたっていうのよ。

 売れた理由はよーーーーくわかる。だって帝釈天で豆まきやるんだもん。観光客から地元民までみんな行くよね、帝釈天。そんな稼ぎ時に一日乗車券を四枚しか持ってないって……もうその時点で個人的には「おいちゃん、そろそろ引退したほうがいいんじゃない?」って感じ。

 とにかく、ここで下ろされては困るし、500円で済むはずなのに余計にお金を要求されるのも困る。「困ります」を三回くらい言ったら、乗り継ぐところで買えばいいよと言って乗せてくれた(あたりまえだ)。

 さて、帝釈天はすごい人出と言いたいところだけれど、平日なのでそれほどでもなかった。かといって空いているわけでもない。いい具合の賑わいだ。町内会だか商店街だかの人たちが、赤や青の全身タイツに虎のふんどしと鬼の面をつけて参拝者に向かってポーズしている。

 二時になると、御幣猿の扮装をした人と、裃姿で手に福豆の升を持った地元名士たちが入場。たぶんほとんどが議員さんとかだと思う。顔がわかるのは平沢勝栄だけだった。猿が芝居がかった口上をのべて鬼をあやまらせ、盛大に豆をまいた。豆は小袋に入っている。

 参拝者は遠くからとんでくる豆を、我も我もとつかみ取る。わたしなど思い切り顔にあたったが、後ろへ落ちてしまい、よその人に取られてしまった。まあ、仕方がない。

 豆まきは三時にもやると言っていた。もう一回がんばろうかなとも思ったけれど、一人で何袋もかきあつめて持っているオッサンやオバハンを見ていたら、突然冷めて帰ろうって気持ちになった。やだやだ、ああいうの見てると福落ちる。

 帰りのバスを待っていたら、初めて来たという観光客が「団子を食べてたら、お店の人が豆まきがありますよって教えてくれて、偶然参加したらとれたのよ」って嬉しそうに言ってるのを見て、こういう人にわたってよかった。今日はこの人の笑顔を見て満足しようという気持ちになった。

 ちなみに、福豆の小袋には当たりがついている。当たったという人の話だと、草団子の引換券とか、そういうものらしい。

 ここで終われば気持ちがいいんだけれど終わらない。柴又からうちまで、バスをのりついでも420円。もはや一日乗車券は不要だけれど、最初に乗ってきた分を払っていないので、わたしは買うつもりで500円用意してバスに乗った。

 が、お金を出して運ちゃんの顔をみて驚いたよ。同じ人だった。当然切符は持ってない。もう、うんざりして「わかったよ、もうけっこうだよ」とバスを下りた。

 こうなったらムカつきついでにもうひとつダメだししておこうと思い、すぐ近くにある「京成」柴又駅へ行き、駅員に「バスの一日乗車券はありますか」と聞いた。ないって言われた。想定通りの答えだ。金町まで行けばバスの営業所があるよと言われたけれど、そこまで移動するんならバスなんか乗らんで歩くよ、馬鹿馬鹿しい。

 というわけで、歩いて帰りましたとさ。


 これがもし、JRだとして、都区内フリー切符は売り切れました、なんて死んでも言わないだろうし、仮に券売機の不調で発券できなくなってもどうにかすると思うんだよ。売れないなんて言ったらみんな怒ると思う。

 なぜかバスだと平気で「おつりがない」「売りきれた」なんてことを言う。そして、なぜかお客が泣き寝入りするんだよ。あり得ないと思いません?

タグ:地元(葛飾周辺)

若麒麟:世の中聞きたくない話ばかりだ

 若麒麟問題。世の中的には「解雇にしたら退職金が出ちゃうだろう」とか、そういう表面的なつまんないことばかりが問題にされているみたいに見えるんだけど、そうなんだろうか。

 日本人的なけじめの付け方で言うならば、弟子が犯した取り返しのつかない罪に対して、師匠(この場合なら理事だけど)が温情を示して除名ではなく解雇としたならば、弟子は温情に感謝しつつ自らの罪を恥じて、もらえるはずの退職金は辞退して当然だと思う。

 その両方が成立してはじめて「納得のいく処分」になるんだけれど、今の角界にそこまでの度量があるかっていうと、なさそうに見えるところが激しく問題なんだよ。弟子側もだけど、師匠側も。

 そういう、古き時代の感覚で言っても「かわいそう」は確かにおかしい。本気で弟子への思いやりがあるならば、むしろ除名にして「この厳しい処分は、おまえが本当に反省し、真人間になろうとしていることを世間に知らせるためだと思いなさい」と諭すべきじゃないのかね。

 考えが古いって言われても、舞台は角界なんですよ? おまえらなんのためにチョンマゲ結ってんだよと言いたい。日本人的な古き道徳観も持たずに形だけ侍を気取るなんて不潔だぞ。神様の前で、どの面さげて四股踏んでるんだよ。そんなんじゃ鬼どころかゴキブリも逃げんわ。

 まったくもう、テレビをつければ耳にしたくないような話題ばかり。うんざりする。もう地上波を見るのはやめようかとすら思うわ。