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古き良き昭和の工場、 "セントラル靴"とともに歩んだ三陽山長 Vol.3

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古き良き昭和の工場、 "セントラル靴"とともに歩んだ三陽山長 Vol.3

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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。
野球部を退部した猿渡さんはメンズウェアの営業、企画を経て、新設された紳士靴部門の創業メンバーに抜擢されます。
それが、三陽山長でした――

まったくの素人からの出発
三陽山長の前身である山長印靴本舗は世界に負けない靴を目指し、ブランド靴スーパーコピー業界の大御所である長嶋正樹さんが立ち上げたブランドです。

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長嶋正樹さん
2000年に伊勢丹でオーダー会を開催すると、記録的な注文が入りました。

これは裏話になりますが、本格的にブランドとしてやっていくためには大手のバックボーンが必要です。三陽商会は伊勢丹からのラブコールに応えました。

三陽商会でやっていくにあたり、その創業メンバーに選ばれたのがわたしでした。打たれ強い、というのが評価されたようです。


創業メンバーといっても上司とわたしだけのたった2人の部署。予算もまるでない。われわれは翌01年9月に代官山の郵便局の裏に三陽山長の1号店を出しますが(店名は山長印靴本舗を引き継いだ。三陽山長の名を冠したのはいまも盛業中の二子玉川店から)、オープンまでの半年間は毎日のように店に通いました。壁を壊すなどの大工仕事をするためです。オープン前からわたしの存在は界隈で有名でした(笑)。

午後はそのまま工場にいくから、このころは会社のデスクに座った記憶がありません。

予算がなければ知識もない。店づくり以上にわたしにプレッシャーを与えたのが製造現場とのやりとりでした。その名は、セントラル靴。浅草の北にある、ほとんど最後といっていい、古き良き昭和の工場です。

昭和の業界人
職人はもとより現場を束ねる中澤(敬明)さんが厄介だった(笑)。ろくに口も聞いてくれないし、名前さえ呼んでくれない。わたしはめげずに足を運びました。ほら、むかしは靴をつくってもらおうと思えば一升瓶を抱えて乗り込んで、差し向かいに呑まなければならないってのがあったでしょ。まさにあれです。(コミュニケーションがとれるようになるまでに)1年はかかったんじゃないかな。

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いまだに口は悪いけれど、江戸っ子の照れ隠しなので心配は無用です。といっても、わたしも慣れるのに時間がかかりましたねぇ(笑)。


さすがにわたしも顔色が変わったのが4〜5年前。ある日いきなり三陽山長の木型を送り返してきたんです。原材料費があがったのにおんなじ値段でやってられるかってわけです。これは会社の論理だから申し訳ないところではあるんですが、期中の値上げには対応できません。噛んで含めるように事情を説明して、ことなきを得ました。

三陽山長の靴はよそと比べても高いほうでしょう。謹製なんて軽く10万円を超えますから。でもね、安いということはどこかに無理をさせているということです。職人がちゃんと生活できて、誇りをもって仕事に励む。その姿が後進を生む。そうして業界の層が厚くなっていく。そのためには安売りしちゃいけないんです。


おかげで製造現場の若返りはうまくいっています。事務所にいたでしょ。スキンステッチは中村さんというまだ若いあの女性が担当していますが、舌を巻くレベルですよ。

いたずらに疲弊するようなよそのやり方には辟易しています。我々の足を引っ張るなと。

だいたいがウェルテッド製法の靴は修理して履き続けることを前提としたものです。であれば、材料だっていいものをつかわなければならない。どうしたってそれなりの値段になるんです。


アツくなってしまいました(笑)。話を戻せば、セントラル靴には靴づくりに集中してもらいたいので、いろいろと配慮しています。革の仕入れをこちらでやっているのもそう。革はある程度の量をまとめて発注しないと品質が安定しない。それには資金がいりますからね。

セントラルなくして三陽山長なし
ファーストコレクションでクロケット(&ジョーンズ)につくってもらったり、スニーカーラインをほかの工場につくってもらったこともありますが、三陽山長は基本、セントラル靴一本でやってきました。

もちろん取引先が1社というのはリスクがあります。いくつかの工場にサンプル出しをしたこともありますが、どこもピンときませんでした。


三陽山長の靴はセントラル靴あってこそ。三陽山長は浅草のブランドなんだとしみじみ思います。硬派な感じとでもいえばいいんでしょうか。セントラル靴がつくる靴はどっしりしている。

その手仕事はどこをとっても申し分がありません。数々のビスポーク・スペックを難なくこなすところからもそれは明らかですが、たしかな腕前はライニングをみれば一目瞭然です。ぐるりと触ってみてください。皺ひとつないでしょ。これ、なかなかできる芸当ではありません。細かいところですが足に直接当たるパーツですからね。このゴロツキは侮れません。


1社なら数は少なくても途切れることなく注文が出せるところもメリット。職人の手は休ませないのが肝要ですから。休まなければ鈍る暇がありません。

それにね、この業界は斜陽産業です。いくらでも代わりがいる業界とは違うんです。大切にしなければならない。どんなに口が悪くてもね(笑)。


中澤さんもすでに85歳。その歳でなお現役です。ただただ頭が下がりますが、業界のためにもまだまだ長生きしてもらいたいですね。

最終回へ つづく


猿渡伸平(えんどしんぺい)
1970年神奈川県横浜市生まれ。日体大荏原高校卒業後、三陽商会の野球部に所属。スーパーコピー ブランド代引き引退後、営業、企画を経て三陽山長の創立メンバーに。現在は三陽山長を含むオウンブランドの責任者として活躍する。

【問い合わせ】
三陽山長
http://www.sanyoyamacho.com

タグ:群馬

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  • 2007年04月12日(木)09時57分
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