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 死んだぼにゃ様(猫)は、ペットの火葬屋さんに焼いてもらった。庭を持ってたら埋めたと思うけれど、うちは団地なので埋める場所もなかったので、焼いてもらうことにしたのだ。

 どこでやってもらってもたいして変わらないだろうと、電話帳をひらいて最初に目についたところに電話をかけた。
 電話だから相手には見えないだろうけれど、珍獣にしては神妙な顔をして、
「おいくらくらい、かかるものですか?」
と、たずねたら、猫1匹焼いてもらうのに、5万円とかいう、とんでもない金額を聞かされて、気分はすっかり冷めてしまった。
 いくらなんでも、5万円は出せん。珍獣は自分の葬式にさえ金なんかかけたくないのだ。せ、せめて2万円くらいを希望(これでもかなり張り込んでるつもり)。それでだめならわしが食ってこの腹で供養しちゃるっ(猫肉でも、この場合カニバリズムというのだろうか?)。

 再び電話帳をひらいて、個別火葬でお骨を返してくれるところという条件で、あちこちに電話をかけてみた。珍獣は、ぼにゃ様の骨をこの目でしっかり見ておきたかったので、個別火葬だけはゆずれない。
 人間だと、よっぽどのことがなければ何十人も一度に焼いたりはしないと思うが、ペットの場合は集団火葬といって、たくさんの動物をいっぺんに火葬して、全員一緒に納骨堂に入れてもらうコースもある。それなら個別火葬よりは安くすむ。
 でも、生前の面影を骨から見いだせる霊能力の持ち主は滅多にいないので、途中で気が変わって骨を返してほしいと言っても、どれがポチなのかタマなのか見分けがつかないという寸法なのだ。
 何軒かあたってみると、新松戸にあるペットの火葬屋さんが猫の個別火葬で2万4千円くらいだった。そのくらいならいいかな、と思った。
 こうして ぼにゃ様は珍獣に食われるのをまぬがれた。

 新松戸は、珍獣のおうちからだと4駅くらい離れている。新松戸の駅まで行けば、火葬屋さんが車で迎えにきてくれるということだった。すると、ぼにゃ様をかかえて電車にのらねばならぬのか。いや、珍獣はちっとも平気なのですが、日本の鉄道会社というのは、生きている犬猫をのせるのに、人間より高い乗車賃を請求してきたりもするのですが(人間の運賃と計算法が違うので、短距離の場合は人間より高くつく)、死猫の場合はどうなんでしょうね、うひひ。
 それはともかく、動物は死ぬと肛門がゆるむので、腸にたまっていた水分が流れだす。ぼにゃ様もそうだった。たしか人間の場合はお尻の穴に脱脂綿を詰めてふさぐんだった気がするが、とりあえずペットのトイレ用シートでくるんで、さらに珍獣様お手製のパッチワークキルトのラグマット(これはぼにゃ様のお気に入りだった)で包み、手提げ鞄にいれて火葬屋さんに持ってゆくことにした。
 問題の電車賃は、珍獣の分だけ払った。ぼにゃ様は今や鳴きも動きもしないので、当然のことながらノーチェックで改札を通れましたとも。ヨーロッパだったら生きてる動物もタダなのにね。スペインで、犬と猫を連れた大道芸の人が電車に乗ってるのを見て、とてもうらやましかったっけ。

 新松戸の駅からペットの火葬屋さんに電話をかけて迎えに来てもらった。
 ペットの火葬や供養は、お寺さんが副業でやってることも多いけれど、珍獣が探し出した火葬屋さんの本業は剥製屋さんだった。剥製を売る店ではなくて、製作しちゃっている業者さんだ。
 動物の剥製を作るときにに使うのは皮だけだ。上手に皮をはいで、中に詰め物をして作る。肉や骨は必要なくなるから、その業者さんは自宅に火葬場と納骨堂を作って供養していたらしい。そのうち、一般のご家庭で死んだペットの火葬と納骨もひきうけるようになったらしい。

 送迎用の車の中で、剥製作りの話を聞いた。
 剥製というのは、作り手の腕がかなり問われるものだ。生きているときの表情を再現するには、彫刻家と同じ様な芸術的センスが必要なのだ。
 そういえば、戸川幸夫の『高安犬物語』に、そんな話がちらりとでてくる。山形の置賜地方で熊狩りに使われていた日本犬の話だ。
 純粋な高安犬の最後の一匹が死んで、せめて生前の勇姿を剥製で残そうと、地元の剥製師に頼んだら、まるで似つかない惨めな生き物ができあがってしまい、泣く泣く埋めたということだった。
 たしかに、博物館にある剥製標本なども、よく見ると生きているように立派なのもあれば、いかにも死んだような惨めなのもある。それこそ腕の違いなのだろう。
「死んだペットを剥製で残したいって人も多いですか?」
珍獣がそうたずねると、そういう人もけっこういるとの返事だった。
 そりゃいるだろうな。写真やビデオだけじゃなく、手でさわれるように残したい気持ちはわからないでもない。
  珍獣とて、剥製はともかく毛皮にならしてもらいたいくらいなのだ。ぼにゃ様はほんとうに毛並みのいいお方だったからね。剥製はどんなにきれいに作ってもらっても、カチンカチンの体になってしまう。生きてるときの柔らかい手触りを知っていると、がっかりするかもしれないし。
 その気持ちを口に出したわけではないが、火葬屋な剥製師さんは
「夏に死んだのはダメですよ。剥製にするなら、真冬でないと」
と言った。夏は毛が生え替わる時期なので、死んでからも抜け続けて丸坊主になってしまうそうだ。

 そういえば、死んでからも生きてたときの状態を続けるものはけっこうある。春先にヘラオオバコの花穂をドライフラワーにしてぶらさげておいたら、数ヶ月後に種になってバラバラと落ちてしまった。すでに死んでカラカラに乾いていたにもかかわらず。
 ある種の植物は、死んでからも熟しつづけていて、秋にはちゃんと、種になって落ちる。ヘラオオバコだけじゃなく、ハルジョオンやヒメジョオンもそうだった。ドライフラワーにした直後は大丈夫なのに、実りの季節になると種になってしまうのだ。もっとも、そういう種は芽を出す力はないと思うけれど。
 動物の毛皮もそれと少し似ていて、抜け毛の季節に死ねば、死んでからも毛が抜け続けるらしい(新しい毛を作る機能はないので禿げる)。それが真冬なら、死んでからもあまり毛が抜けないのだそうだ。
 ふうむ、それは気が付かなかった。ぼにゃ様が死んだのは、もう9月に入ってからだったけど、病気で新陳代謝が落ちていて、タダでさえ毛が薄くなっていたから、毛皮にしてもらってもいずれは抜け落ちてしまうかな。
 でも、残して置いたら三味線の皮くらいになるかしら。そしてぼにゃ様皮の三味線で、弾き語りをやろう。「珍獣の黒白猫」とかゆって(←「スーホの白い馬」のつもりらしい)。いや、三味線にするなら、ぼにゃ様1匹では足りないような気もするが。

 結局、ぼにゃ様は毛皮にはならず、お骨になった。焼かれた骨は、なんとなく固まった石灰みたいな感じだ。
 ペットの火葬は、高温の炉でがーっとやるから、骨の形があんまり残らないことが多い。特にうちのぼにゃ様など、晩年は病気でがりがりに痩せていたから、骨ももろくなっていたはずだ。
 いちおう、珍獣が探し出した火葬屋さんでは、個別火葬のときは頭骨だけでも形が残るように焼いてくれるのが売りだった。ぼにゃ様も、頭の骨はきれいに残っていた。ところどころ、青く変色した部分があって、「たぶん病気のせいでしょう。薬の影響かもしれない」と、火葬屋さんが言っていた。

 ぼにゃ様のお骨は引き取ってきたので今でも手元にある。その火葬屋さんには納骨堂もあるので供養費を払えば納めることもできるけど、それ以上はお金を出す気もなかったので、つれて帰ってきた。
 お経ならお坊さんでなくとも、珍獣が読めばいいしね。

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