町はずれの一本松の下にはお歯黒べったりのベタ子さんがいる。
わたしがそのことに気づいたのは去年の秋のことだった。ポケット樹木図鑑を読みながら歩いていたら、ベタ子さんのほうから声をかけてきたのだ。 「もし、そこの方」 「はい?」 あたりを見回しても誰もいない。空耳かと思ったらまた声がした。 「ここです。こちらです」
「ひゃあ、のっぺらぼう!」
「まあひどい、のっぺらぼうだなんて。せめてお歯黒べったりと呼んでくださいな」 「お歯黒べったり? あらら、ホントだ。ただののっぺらぼうじゃなくお歯黒をしてらっしゃるのですね。これは失礼しました」
ベタ子さんには目も鼻もない。顔全体をおしろいで真っ白にしている。そして、口紅で真っ赤に塗った口をあけて、わたしに笑いかけた。口の中には真っ黒い歯が並んでいる。ベタ子さんの歯は黒い。昔の人の習慣で、結婚した女の人は歯を黒く染めるのだ。 「このお歯黒もそろそろ染め直さないと、ずいぶん薄くなってしまいました」 「そ、そうかな? ずいぶん黒いと思うけど…」 「人間だった頃よりはお歯黒も長持ちするんです。でも、もうすぐ、あの人との約束の日だから、ちゃんとしたいと思って」
「ねえ、お歯黒ってどうやって染めるの?」 「そうだわ、そのことでお願いがあってお引きとめしたのです」
それから三日後。わたしは紙袋いっぱいの五倍子を持って一本松にやってきた。 「はいこれ。探すの大変だったんだからね」 五倍子というのはヌルデの木にできた虫こぶのこと。お歯黒を染めるには五倍子がぜったいに必要だっていうから、草木染めをする人から分けてもらってきたのだ。 「わざわざすみません。せめて約束の日くらいはと思って…」
「約束って?」 「…あの人が、むかえにくるのを待ってるんですよ。来年の四月八日、一本松の下で。あの人はそう言って東京に」 「それいつのこと?」 「さあ、いつだったかしら。あれは日露戦争の前の年だったから…」 日露戦争といったら百年も前のことだ。ベタ子さんのあの人は、いくら長生きしたとしても、もう死んでしまっているだろう。 「このままずっと、待ってるつもり?」 「ええ。だって、アタシはあの人のお嫁さんになるんだもの」 「そのつもりのお歯黒?」 「そう。祝言はあげていないけど、心はあの人のものだから」 ベタ子さんは五倍子の紙袋を胸のところでぎゅっと抱きしめて、何度もお礼を言いながら消えて行った。
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四月八日。
ベタ子さんとあの人の約束の日だ。でも、あの人は百年も前の人。ベタ子さんをむかえにくるはずがない。 ベタ子さんは泣いているだろうか。それとも、すっぽかされて怒っているだろうか。そうやって百年も、同じことをくりかえしてきたんだろうか。 わたしは、大福餅と缶入り緑茶を持って一本松に行ってみた。こんな時はやけ食いが一番だと思ったのだ。 けれどそこにベタ子さんの姿はなかった。代わりに一通の手紙が松の根元においてあった。
結婚って、誰とするんだろう。まさか、百年前のあの人と? けれどわたしは考えた。 あの人が百年前の人なら、ベタ子さんだって百年前の人なんだ。 ベタ子さんがお歯黒べったりになったように、あの人だってぬらりひょんにでもなって生きているのかもしれないし。 わたしは、一本松の下に腰をおろして、ひとりで大福餅を食べた。 夕暮れの空に、カラスが鳴きながら飛んでいるのが見えた。
しばらくして、わたしはベタ子さんの手紙にあった住所をたずねてみた。そこは似たような形の家が建ちならぶ新興住宅街というやつだった。 わたしは、通りがかりの奥さんに声をかけた。 「あの、すみません。少々おたずねします」 「どうかしましたか?」
「このあたりにベタ子さんの家…じゃなくて、あれ、あの人なんて名前なのかな。この住所なんですけど、わかりませんか?」 「さあ…番地ではよくわからないわね。お名前はなんとおっしゃるのかしら」 「それがよくわからないんです。年齢は百二十歳…じゃなくて、たぶん二十代前半だと思います。顔が、その…ちょっと変わっていて…」 「…ひょっとしたら、花山さんの奥さんのことじゃないかしら。花山さんだったらもうすぐ帰ってくると思いますよ。あ、ほら。うわさをすれば」
そこには買い物カゴをさげてすっかり新妻らしくなったベタ子さんがいた。 「ベタ子さん…ホントにベタ子さん? その顔、どうしたの?」
「ああ、これ? あの人に作ってもらったのよ」 「あの人って、まさか…日露戦争の前に東京へ行ってしまった?」 「そうじゃないの。今のあの人は、あの人の曾孫(ひまご)にあたる人で、あの人が残した日記を見て一本松まで来てくれたのよ」 「それで一目ぼれ?」 「そう。そしてこの顔を作ってくれたの。あの人、アメリカで特殊メイクを習ったことがあるんですって」 そう言って笑ったベタ子さんの歯は、やっぱり真っ黒だった。
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