久しぶりに六地蔵調べです。主に家のまわりのものを調べています。八潮市大瀬・宝光寺は、参道にある明治時代の六地蔵をすでに調べていますが、この記事では墓地にある江戸時代の六地蔵をとりあげます。
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▲大瀬・宝光寺、墓地の出入り口にある小さな六地蔵。以前から存在には気付いていたんですが、背が低く、しゃがみ込んで見ても文字が見づらくて造立年を読めそうな気がしていませんでした。この日はいい具合の曇り空で光の当たり方も良かったです。肉眼でも普通に読めたし、読みやすく撮影できたので解読してみました。
以下、数字は左からの並び順。持物、刻まれている文字。
1 両手で宝珠
武州八条領大瀬村
同行四十九人
2 幢幡
享保十一丙午十月吉日
同行四十九人(1726年)
3 柄香炉
奉造立千度参為二世安楽
享保十一丙午十月吉日同行四十九人(1726年)
4 右錫杖、左宝珠
奉供養千度参?為二世安楽
享保九甲辰九月廿四日(1724年)
5 合掌
為空善童男?養?□
元禄十丁丑年六月廿五日(1697年)
6 宝蓋
同行四十九人
享保十一丙午十月吉日(1726年)
1、2、3、6は「同行四十九人」という講で造立したものです。
4は講名がありませんが、造立年が近く「千度参為世安楽(二世-来世-の安楽の為に千度参りをしました)」という目的が共通しているので同じ講で造立したものと考えられます。
これら5体は享保九〜十一年(1724〜26年)までの2年間で作られています。
5は講名がなく、刻まれている日付もほかの5体より30年近く古いものです。また「空善童男」は幼児の戒名のようなので、六地蔵ではなく子供の供養のために作られたものだと思われます。日付も造立年ではなく子供の命日かもしれません。
おそらく「同行四十九人」の講が作った六地蔵のうち一体が失われたため、大きさが近い元禄年間の供養塔をまぜて六体にしたのでしょう。
そこで思い出したのですが、この墓地のすぐ近く、大瀬氷川神社の前に別の墓地があり、そこには「同行九十二人」という別の講名が刻まれた六地蔵があります。このうちの一体には講名がなく「享保十一丙午十月吉日安楽」「奉造立千度参為二世」と刻まれているため、ひょっとすると四十九人講の失われた一体なんじゃないでしょうか。
▲大瀬氷川神社近くの墓地にある六地蔵のうち享保十一年のもの。千度参為二世安楽と刻まれている。若干石の質が違うようにも見えますが、大きさやデザインの面では矛盾ないような気もします。ほか五体についてはこちら>こちら(別窓または別ウィンドウで開きます)
これは想像ですが、このあたりに世の安楽を願うために千度参りをする講があって、講の名前は「同行○人」だったんだと思います。九十二人講は年代がわからないのでどちらが古いのかはわかりませんが、発展して人数が増えたか、衰退して減っただけなのではないかと思うんです。その講が、四十九人の時代と、九十二人の時代に六地蔵を造立したのでしょう。
後の時代に墓地の整備や中川の付け替え工事で石造物群が片づけられて一ヶ所にまとめて保管されているうちに混ざってしまったんじゃないでしょうか。
【関連記事】八潮市大瀬・宝光寺の #六地蔵 (明治時代)
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【関連記事】#六地蔵 八潮市大瀬氷川神社近くの墓地(年代不明)
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同行九十二人と刻まれているものです。
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