<動物誌> ( No.10 ) |
- 日時: 2003/03/11 18:27
- 名前: ひろこ
- ・著者:コンラート・ゲスナー (1516-65)
・成立年代:『動物誌』(TheThierbuch) - 4分冊の合本 - ・「四足類」(1606年) ・「鳥類」(1600年) ・「魚類」(1598年) ・「蛇・怪物類」(1589年)
・その他の情報: 博物学的な収集と分類の精神に基づいた、グーテンベルク以後最初の体系的な解説つきの書誌
・その他の著書 『博物誌』(Historia Animalium) 『萬有文庫』(Bibliotheca Universalis) 『百科総覧』(Pandectarum) 『追録文庫』(Appendix Bibliothecae)
参照 慶應義塾大学所蔵 博物誌コレクション HUMI Project
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Re: お手伝い募集:漢籍リスト作成 ( No.11 ) |
- 日時: 2003/03/11 20:40
- 名前: ちんじゅう
- ↑さすがだわ。相変わらずすごいもの見つけてくるわね。
最近は、あっちこっちの大学で デジタルアーカイブを公開してくれて助かるよね〜。
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<東方見聞録> ( No.12 ) |
- 日時: 2003/03/12 10:00
- 名前: ひろこ
- ・著者:マルコ・ポーロ述/ルスティケロ著
・成立年代:1298年 ・その他の情報 1271年、マルコ・ポーロが17才の時に、叔父マッフェオと父ニッコロと共にヴェネツアからモンゴルに向けて旅たった。教皇から派遣された二人の伝道師は、旅の途中で逃げてしまったが、三人はそのまま旅をつづけた。 中央アジアを経て1275年に元の大都(現在の北京)にいたる。3年半の辛い旅が終わったのだ。フビライ・ハーンは礼を尽くして彼らを迎えた。特に若いマルコ・ポーロを気に入り、彼を汗の外交官として召し抱えた。汗の命令により中国各地を旅行した、この体験がのちに本となった。 1292年、海路帰国の途につく。1295年にベネチアに帰着。のち戦いでジェノバの捕虜となり、獄中で書いたのが有名な『東方見聞録』である。この書は社会に大きな影響をあたえ、東方のバイブルとなった。
1巻では、シルクロードから雲南への使節行、元朝の宮廷事情までを収録 全アジアを支配下におくフビライ・カーンの寵愛を受けて、マルコ・ポーロは二十歳そこそこから十七年間、使者として元朝諸方へ派遣され、各地を踏査する。未曾有の繁栄を誇るシルクロードを採った往路の様子から、現在のミャンマーあたりにまで至る雲南への使節行、さらには元朝の宮廷事情にまで及ぶ見聞記。
2巻はスパイスコースで帰路につき、26年という長い旅の終わりを迎えるまでを収録 現在の天津郊外より台湾海峡に至る長大な運河に沿っての福建への旅、チパング島への遠征(元寇)、さらには極寒のロシアなど、広大な地域にわたって産業や宗教、習慣、迷信などを見聞してゆくマルコ・ポーロ。インド洋を経由するスパイスコースで帰路に着き、ヴェニスを発って二十六年という長い旅の終わりをむかえる。
参照 マルコ・ポーロの東方見聞録 ドードーの絶滅
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Re: お手伝い募集:漢籍リスト作成 ( No.13 ) |
- 日時: 2003/03/12 22:32
- 名前: ちんじゅう
- 『東方見聞録』は、つい先日、超高速読みしたばかりですが(二三調べたいことがあったものですから)、成立年代などメモする前に図書館に本を返してしまい、ありゃ〜って感じだったところなので大助かりです。
こちらは文献リストの作成もちらほらやりつつ馬の怪の改訂作業に入りました。秘密の指令もあと二件くらいどこかに仕込む予定だし、食卓の再編集版もやらねばならないし…と、なんでこんなにやることあるんだ状態でうひ〜です。何やってるんだろう、わたくし。でも暇のあるうちにがーっとやります(一生暇だったりして。まあそれでも死ななきゃいいけどさ)。
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Re: お手伝い募集:漢籍リスト作成 ( No.14 ) |
- 日時: 2003/03/14 16:48
- 名前: ちんじゅう
- 『漢書』の電子テキスト(簡体字版)
http://www.guoxue.com/shibu/24shi/hansu/hsuml.htm
それから、漢籍のリストに追加 畢[水元](1730-97)『山海経新校正十八巻』清(乾隆四十六年) 山海経の注釈本のひとつ。著者は「山海経には不明な点が多く、解釈には後世の学者を待たねばならない」としており、注釈そのものの分量は少ないが信頼できるものが多いという。
『穆天子伝』 西周時代の五代目の王である穆王(在位BC1001〜946年頃)の生活行動記録といわれるが、もっと後の時代に書かれたものかもしれない。そこには王が黄河をさかのぼり、西王母と面会したことが書かれている。
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Re: お手伝い募集:漢籍リスト作成 ( No.15 ) |
- 日時: 2003/03/15 18:27
- 名前: ちんじゅう
- 追加
『六韜』 戦国時代の兵法書。
『尚書大伝』
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Re: お手伝い募集:漢籍リスト作成 ( No.16 ) |
- 日時: 2003/03/23 01:05
- 名前: ちんじゅう
- 追加
魚豢(ぎょけん)『魏略』 この本は散逸して全体を読むことができないが、さまざまな書物に 『魏略』に曰く と引用されているものから内容が推察される。『三国志』の魏志東夷伝倭人条(魏志倭人伝のこと)は『魏略』を参考にして書かれたと言われている。 魚豢は生没年とも不詳だが、紀元後三世紀くらいの人である。
陳寿(生233〜297)『魏志倭人伝』 邪馬台国について書かれているのは有名な本だが、実は『三国志』という膨大な歴史書の一部分である。正式には「三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人」という。
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高木春山『本草図説』 ( No.17 ) |
- 日時: 2003/04/20 21:27
- 名前: ひろこ
- 高木春山(本名 高木八兵衛以孝,生年不明〜1852没)
『本草図説』は未完で散逸していた原稿を孫が編さんしたもの。 現存するのは21巻から197巻までの195冊と水産部30巻、 未定稿56巻。 21〜172巻までが植物編 185〜191巻までが卵生類編(蜂・蝶々など) 192〜197巻は化生類編(芋虫・蝉・冬虫夏草など) 未定稿は獣類・鳥類・竜類などを記載。
原本は愛知県の西尾市立図書館の岩瀬文庫に保管されており, その一部が近年,荒俣宏監修・八坂安守校註により刊行され, 一般にも知られるようになった(1988年,リブロポート刊,全3冊)。
平凡社 アニマ 1986年10月号 no.166 [見出し] 江戸期最大級の博物図譜でありながら、顧みられることの少なかった『本草図説』の驚異的な力業をさぐる。 ・無名の博物学者 ・水産博覧会への出品 ・春山の実像 ・『本草図説』の驚異
「彩色江戸博物学集成」 <江戸の博物図館>(平凡社「アニマ」1985年5月号〜1987年3月号)をまとめたもの。 参照 *アマゾンコムにある?
ウエブ上古書店の在庫リスト例 BOOK BIG BOX 高木春山 本草図説 水産 江戸博物図鑑 二 荒俣宏監 \2800
玄 華 堂 12 江戸博物図鑑二 本草図説 水産 高木春山著 荒俣宏監修 リブロポート 1988 1冊 \1800. 13 江戸博物図鑑三 本草図説 動物 高木春山著 荒俣宏監修 リブロポート 1989 1冊 \1800.
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Re: お手伝い募集:漢籍リスト作成 ( No.18 ) |
- 日時: 2003/05/01 20:59
- 名前: ちんじゅう
- boople でも注文できるようです。
『彩色江戸博物学集成』
Amazon.com でなら買い物したいという人がいれば、Amazon のアソシエイトとかいうものも検討しますが。
なお、漢籍+αのリスト作成も放り出したわけではなく地味にやってはおります。正式にまとめるのは山海経動物記の改訂がひととおり終わった頃になると思います。
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Re: お手伝い募集:漢籍リスト作成 ( No.19 ) |
- 日時: 2003/05/08 16:13
- 名前: ちんじゅう
- 明治書院
新釈漢文大系68『論衡 上』 新釈漢文大系69『論衡 中』 新釈漢文大系94『論衡 下』
しばらく前に東洋文庫の『論衡』も借りてきたのですが、抄訳版で役にたたなかったので、全文が載ってる本を借りてきました。漢文と漢文の書き下し、口語訳が収録されてます。ちなみに「新釈」は集英社の「全釈」シリーズとは別のものです。
以下は『山海経』について書いてある部分の抜き書き。文章が砕けてるのは珍獣が適当にやりました。読んでたらこういうふうに聞こえたもので。
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別通 第三十八 より 禹と益は一緒に洪水の処理をしたんだね。禹は治水のほうをやって、益は珍しいものの記録をやってたそうだ。海外や山頂まで、どんな遠いところにでも行って、旅の途中で見たり聞いたりしたことを元に『山海経』って本を書いたってわけだ。ま、この本ができあがったのは、益が情報のアンテナを広く持ってたからだってことだな。 董仲舒が重常の鳥を見分けたのや、劉向が弐負の屍のことを知ってたのだって、みんな『山海経』を読んでたから。禹や益が遠くまで行かなかったら『山海経』なんて本もできなかったし、董仲舒と劉向がこの本を読んでなかったら、ふたつの謎は謎のまま残ったってことだろうね。 -----------------------------------------
『論衡』の別通篇は、本当の知識人とはどういうものか、その見分け方を説いたものらしいです。学があるからって一経だけに通じているんじゃ知識が狭いし、孔子なんか病気の時でも本を読んでた。古いものも、新しいものも読んでいなきゃダメで、チャンスがあるなら遠くまで行って、なんでも見聞きしてこなきゃダメだ、というようなことを説明するのに『山海経』が出てきます。
著者の王充という人は、さまざまな迷信に「そんなことあるわけないじゃん」と鋭いツッコミをいれたりしているのですが、この部分を読むかぎり『山海経』に対しては、かなり良い印象を持っていたみたい。司馬遷が『史書』を作るときに「山海経はデタラメなので参考にしなかった」というようなことを言ってるのと対照的です。 『山海経』には奇想天外なことが書いてあるけれど、常に淡々と特徴だけを書き記していて、余計な解釈や説教臭いところが少しもないから、王充のような現実的な人にはかえって受け入れやすかったのでしょうか。
もっとも、王充は自分が信奉している人の言うことには甘かったみたいで、董仲舒という人が「土龍を供えて雨を呼べる」と言ったことが、どのように理にかなっているか必死で説明してたりします。
ちなみに、鬼門の由来が出てくるのは別通篇ではなく、乱龍篇という部分で、まさに「土で作った龍は雨雲を呼ぶことができるか」という話の中に出てきます。 -----------------------------------------
乱龍 第四十七 より 大昔に神荼と欝塁っていう兄弟がいて、生まれつき鬼をつかまえるのが上手だった。ふたりは東海の度朔山の上に住んでいて、つかまえた鬼たちを、桃の木の下で調べた。鬼どもは、いいとか悪いとか、大した理由もなく人に悪さをするものだ。神荼と欝塁は、こういった鬼どもを葦の縄でしばりあげては虎の餌にしていた。 そんなわけで、今日では桃の木でつくった人形を戸口に飾ったり、虎の絵を門の横木にさげたりする。人形はホンモノの神荼と欝塁じゃないし、絵に描いた虎だって本当に鬼を食い殺せるわけじゃない。ホンモノの形をまねることで、災いを防ごうとする気持ちの表れじゃないか。 土の龍だってホンモノの龍と同じってわけにはいかないが、桃の木人形や絵に描いた虎を信じるのと同じことじゃないかね? -----------------------------------------
王充先生ったら、必死で説明してるわりに土の龍で雨を呼べる理由にはぜんぜんなってないですね。こんな弁護のしかたって、けっこう情けなくて余計なお世話っぽい気も…まあ、今は関係ないのでそれはこっちにおいといて。
同じような話が別の部分にも出てくるようです。 -----------------------------------------
訂鬼 第六十五 より 『山海経』に、北のほうに鬼国がある、と書いてある。(中略)国というからには人や化け物の群れなのだろう。『山海経』にはさらにこう書いてある。東海の中に度朔山があって、山の上には大きな桃の木がある。枝は三千里にもわたってくねくね絡み合って、東北の枝の隙間を鬼門といい、たくさんの鬼どもの出入り口になっている。山の上に神荼と欝塁というふたりの神がいて鬼どもを取り調べている。悪い鬼は葦の縄で縛り上げて虎の餌にしてしまう。そこで黄帝は、悪いものをおっぱらうために礼のきまりごとを作った。大きな桃の木の人形を立て、門や戸口に神荼・欝塁、虎の絵を描き、葦の縄をぶらさげて悪いものを防ごうというのだ。 -----------------------------------------
訂鬼篇は、鬼についての世間の考え方はどういうふうに間違っていて、何が正しいかを説明しているようです。王充がいうには鬼には実体があって、だからこそ『山海経』にあるこの話のように虎の餌にできたのだと説明してます。 王充は鬼の存在を否定してませんが、鬼には意志がなく人に災いがあるのは鬼が故意にやってることではない、というようなことも言ってるみたいです。
ちなみに、現存する『山海経』には度朔山と鬼門の話はチラリとも出てきません。理由はよくわかりませんが、
仮説1 オリジナルに近いものには鬼門の話があったが、整理されてるうちに失われてしまった。 仮説2 もともとそんな部分はなく、王充が別の本で読んだものを山海経と勘違いしている。 仮説3 何かの理由で後の人が鬼門について書き加え、後の時代に誰かが削除した。
これらのどれかじゃないかと。
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