青砥の殿さま
 
 
 むかし、葛飾の青砥(今の青戸)というところに、青砥左衛門尉藤綱という人がいました。この人は判官というお役目につくえらいお侍さんで、人々からたいへん尊敬されておりました。

 ある日、青砥さまがお供をつれて川辺を歩いているとき、一文銭をひとつ川におとしてしまいました。

 一文銭というのは今でいえば一円玉か十円玉のようなものです。川に落ちてしまったものを、わざわざひろう人はいません。ところが、青砥さまはいいました。
「すまんが、お前たち、川へはいって一文銭をさがしてはくれまいか」

 お供のものたちは、なんで一文銭なんかを、と思いましたが、殿さまのおっしゃるこではさからえません。あわてて川へはいって先ほどの一文銭をさがしはじめました。

 けれど、そうかんたんにみつかるはずがありません。やがて日がしずみ、あたりは暗くなってきました。供のものたちも、さすがにつかれはてて、
「殿、そろそろおあきらめになってはいかがでしょうか」
と、進言しました。

 ところが、青砥さまはうんといいません。
「いや、一文銭といえども粗末にしてはならん。町へいって、この金で人をあつめ、松明(たいまつ)を買ってきておくれ」
と、共のものに財布をあずけ、みずから川にはいって一文銭をさがしはじめました。

 共のものはびっくりして、
「たった一文のお金のために、このような大金をはたくなど、殿のなさりようとは思えませぬ。どういうおつもりでございますか」
と、いいました。

 すると青砥さまは、
「よいか、たった一文とはいえ、われら武士がもつ金は領民が汗水たらしてはたらいてこさえたものなのだ。それを川に落としてしまったとあっては民に申しわけがたたぬ。川に落ちた一文銭は石ころとおなじだ。だが、その一文銭をさがすために町で使う金は民の手にもどる。民はその金で食べるものや着るものを買うだろう。それが大事なのだ」
と、いいました。
 

◆こぼれ話◆

 この話は小さいおともだちにはわかりにくい話かもしれない。
 お金はためておいても意味はなく、使って世の中にまわすことで、景気がよくなり人々の生活も楽になり、民からの税金も増えるから国全体がうるおう、ということである。現代でも銀行の利率が低いせいでタンス預金が増えるのは問題だと言われるが、それと同じこと。もっとも、一文銭のために人をやとってまで大騒ぎするというのも極端な話だが。

 ところで、葛飾には青砥(青戸)という地名が実在しており、この地には葛西城というお城があった。けれど、ここが青砥左衛門尉藤綱の居城だというのは単なる伝説にすぎない。実際にこの地をおさめていたのは「青戸二郎重茂」という別人で、名字の発音が同じだったせいで、いつのまにかゴッチャにされてしまったらしい。今では正式な地名は「青戸」ということになっているが、京成線の駅の名前は今でも「青砥」と表記することになっている。

 なお、青砥氏については『太平記』に次のような伝説も記録されている。

 ある時、相模守が鶴岡八幡宮に泊まっていると、夢枕に神が立ち「政道をただしたいと願うなら、青砥左衛門をとりたてるがよい」と言った。そこで相模守は青砥左右衛門に近江の大庄八ヶ所を治めるように命令書をしたためた。
 これは大変な出世なので、普通の人なら躍り上がって喜ぶだろうが、青砥氏は命令書を読むと、なぜ自分にこれほどの領地をお与えになるのかと相模守にたずねました。神のお告げであると聞くと、
「それでは一ヶ所たりともいただけません。『金剛経』にも言うではありませぬか。ものごとの移りやすさは夢か泡のようであると。もし、神のお告げがあれば、なんら非がなくともわたしの首をはねますか」
と言って、この話を辞退してしまった。
 
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