青砥の殿さま |
むかし、葛飾の青砥(今の青戸)というところに、青砥左衛門尉藤綱という人がいました。この人は判官というお役目につくえらいお侍さんで、人々からたいへん尊敬されておりました。 ある日、青砥さまがお供をつれて川辺を歩いているとき、一文銭をひとつ川におとしてしまいました。 一文銭というのは今でいえば一円玉か十円玉のようなものです。川に落ちてしまったものを、わざわざひろう人はいません。ところが、青砥さまはいいました。
お供のものたちは、なんで一文銭なんかを、と思いましたが、殿さまのおっしゃるこではさからえません。あわてて川へはいって先ほどの一文銭をさがしはじめました。 けれど、そうかんたんにみつかるはずがありません。やがて日がしずみ、あたりは暗くなってきました。供のものたちも、さすがにつかれはてて、
ところが、青砥さまはうんといいません。
共のものはびっくりして、
すると青砥さまは、
|
◆こぼれ話◆
この話は小さいおともだちにはわかりにくい話かもしれない。
ところで、葛飾には青砥(青戸)という地名が実在しており、この地には葛西城というお城があった。けれど、ここが青砥左衛門尉藤綱の居城だというのは単なる伝説にすぎない。実際にこの地をおさめていたのは「青戸二郎重茂」という別人で、名字の発音が同じだったせいで、いつのまにかゴッチャにされてしまったらしい。今では正式な地名は「青戸」ということになっているが、京成線の駅の名前は今でも「青砥」と表記することになっている。 なお、青砥氏については『太平記』に次のような伝説も記録されている。 ある時、相模守が鶴岡八幡宮に泊まっていると、夢枕に神が立ち「政道をただしたいと願うなら、青砥左衛門をとりたてるがよい」と言った。そこで相模守は青砥左右衛門に近江の大庄八ヶ所を治めるように命令書をしたためた。 |
|目次|珍獣の館|山海経|博物誌|直前に見たページ| |
|