「何するのよ。泥がはねた」
 ちよ子は、何食わぬ顔でそう言ったけれど、自分の前にいる唐傘から目がはなせなかった。
「雨がふればいいって言っただろう」
 唐傘は水たまりの中でバチャバチャとはねた。
「だから、ふらせてやったんだ。でも、チョコラはうれしそうじゃない」
 傘の下からつきでた一本足は裸足だった。
「どうしてわたしの名前を知ってるの?」
 ちよ子は人間に話すように言った。
「お前が祠においていった傘に書いてあった」
「じゃあ、あなたは雨の神様?」
 ちよ子がそうたずねると、唐傘はぴたりと立ち止まった。一カ所だけやぶけた傘のすきまから、大きな目がこちらを見ていたが、顔は影になってよく見えなかった。
「そうとも言える。そうでないとも言える。オレたちはたくさんいる。仲間の誰かは、神と呼ばれているかも知れない」
「あなたはどうなの?」
「そんなこと、オレにもわからない」
 唐傘は一本足ではね回った。そのたびに泥水をはねあげた。
 小さい頃、遠足で雨の神様の話を聞いたとき、ちよ子は白いひげの老人を思い浮かべた。神様だからって、お年寄りとはかぎらないと思う。でも、目の前にいるのは、とても神様のようには見えなかった。神様というよりは、お化けと呼んだほうが似合っている。
「お前は雨をふらせてくれと言った。だからふらせてやった。うれしくないのか?」
「明日のことよ。明日ふればいいって言ったの」
「なぜ今日じゃだめなんだ」
「明日は運動会だからよ」
「運動会というやつは、雨のほうがいいのか?」
「雨がふったら運動会は中止になるの」
 そう、中止になったらいい。
「中止って、なくなっちゃうのか。なくなっちゃっていいのか?」
「そうよ、運動会なんか、この世からなくなってしまえばいい」
「ふうん」
 唐傘は、はねるのをやめて、くるりと後ろをむいた。
 その後ろ姿は小さい子がすねているようだった。
 雨は小降りになってきた。西のほうから空が明るくなっていく。
「ねえ、あなた雨をふらせられるんでしょ?」
「まあな」
 唐傘はくるりとふりかえった。
「じゃあ、明日もこの調子で雨にしてよ」
「だめだ」
「どうして?」
「雨をふらせるのに力をつかってしまった。もう雨をふらせる力は残ってない」
「何よ、それじゃ役に立たないわ。お賽銭かえして」
「サイセン? そんなものは知らない。お前は雨をふらせてくれと言ったが、いつふらせろとは言わなかったぞ」
 ちよ子は言葉につまった。唐傘の言うとおりだ。明日ふらせてくださいとは言わなかった。
「でも、運動会が中止になりますようにって、言ったはず」
 重要なのは雨じゃなく、運動会が中止になることのほうだ。神様だか、お化けだか知らないけれど、そのくらいのことは見抜いて、うまくやってくれてもいいじゃないか。
「そういえば、そんなことを言っていたな。オレは運動会というのを知らなかったのだ。悪かったよ」
 唐傘は、すまなそうに言った。
「…もういいよ。明日って言わなかったわたしも悪いんだもの」
 ちよ子もあやまった。
「もうすぐお別れだ。この雨がやんだら、オレは消えなけりゃならない」
「消えちゃうって、どういうこと?」
「誰かのたみで雨をふらしたら、消える決まりになっている」
「消えるって……死んじゃうの?」
「さあな。オレはまだ、消えたことがないから」
「わたしのせい?」
 唐傘はなにもこたえず、一本しかない足であたりをはねまわった。やぶれた傘のすきまから、ほんの一瞬だけ顔が見えた。見えたような気がした。
「消えるのはこわい?」
「考えたことないな」
 空がだいぶ明るくなってきた。雨粒はまばらになり、雲の切れ間からさす夕陽をあびて銀の糸のように輝いた。
 ちよ子は、しばらく空を見ていた。気がつくと、雨はあがっていた。
 唐傘はもういなかった。
 東の空に、虹が出た。

 
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