挙母神社
挙母と書いて(ころも)と読みます。このあたりの古い地名で、もとは「衣」とか「許呂母」と書いてたらしいんですが、奈良時代に「地名は二文字でなくてはいかん」という命令があって「挙母」の字をあてるようになったとか。なんで二文字じゃなくてはいけないかっていうと中国に習ってのことだったはずです。中国だと地名はだいたい漢字二文字で、三文字以上だと地方語の発音を当て字で書いたのがわかってしまい、田舎臭くてカッコワルイんだと思います。こんな時代から日本は海外受けばっかり考えてたんですね。
▲神楽殿と、拝殿前の門。広くてうまく写せないんですが、境内のまんなかに神楽殿があって、その奥に中門、門の向こうに拝殿や本殿がある形式です。こういう作りは京都や奈良にはあるけど、関東には少ないですよね。
▲狛犬その2:やけに細長い狛犬。顔立ちも雅楽のお面みたいで素敵。
▲中門をくぐったところ。左の写真は手前が天満宮社で奥が本殿+拝殿。/右の写真は天満宮社の柱を守ってる象(だと思うけど獏かなあ?)。中門は、正面は閉ざされてるんですが、脇の木戸があいてました。入って良かったのかどうかはよくわかんないんですけど(少なくともダメとは書かれていなかった)。ご祈祷を頼んだ人しか入れない神社もありますよね。
▲境内にある子守稲荷社の鳥居と由来書き。
挙母神社は1189年に、源義経の家臣である鈴木重善が、吉野の子守明神を勧請した祀ったものだそうです。重善は、義経を追って奥州へ向かう途中でしたが、義経が討ち死にしたと知ってこの地に留まったと言われています。
金谷勝手神社
▲由来書き。金谷はこのあたりの地名。勝手神社の読みは「かってじんじゃ」でしょうね。総本社は奈良県の勝手神社だそうです。
▲これまた金網で囲われてる神楽殿。鉄骨でつっかい棒がしてあるところを見ると、倒壊の危険があるから金網でかこってあるんですね。この状態で改修工事は終わってるらしいです。なるべく手を入れずに保存する決まりでもあるんでしょうか。
小さな神社なんですが、本殿+拝殿の前に中門があり、神楽殿は境内の真ん中というか、本殿から真っすぐ見られる感じになってます。神様に舞いを奉納するための舞台だからでしょうか。関東へ行くと神楽殿はたいてい脇にあって、背景には壁があり、参拝者が見るのに都合がいいようになってることが多いです。
▲神楽殿の奥に、さらに門があり、その向こうに拝殿や本殿がある。先に紹介した挙母神社(ころもじんじゃ)と同じです。
勝手神社は通りすがりに何気なく写した(あらゆるものが金網で囲われてたのが面白かっただけ)ものです。あとで気付いたのですが、挙母神社のもとは吉野の子守明神(子守権現)なんですよね。勝手神社は1268年に奈良の勝手権現を勧請して祀ったものだそうです。奈良では、勝手権現(男神)が小守権現(女神)と一緒に老夫婦に化身して、嵐山で花守をしていたと言われてるらしいです(能の『嵐山』がその話になってる)。挙母神社と金谷勝手神社は、作られた時期も作った人も別なんですが、意識して作ったものでしょうか? もしそうなら、そう遠くない場所に蔵王権現もあったりして。
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