出発したのは5月4日の朝。今回の移動はおともだちの車です。早朝4時半くらいに葛飾区を出たと思います。三郷南あたりで外環(高速道路)に乗る前に給油もしたのでインター入ったのが5時ちょっと前かなあ。うちのほうからだと外環→関越→上信越自動車道を通って長野インターで降りるのが近いので、そういう流れで。
ゴールデンウィーク中ですが道は空いていて、長野インターを降りたのは朝7時すぎです。これならサクッと参拝して次へ行けるだろうとたかをくくっていました。御開帳にあわせて参拝に来たわりに、回向柱に触れることなんかには、ほとんどこだわっていないので、車さえおければ問題ないだろうと。
ところが、長野市役所の前あたりからでしょうか。もうそのあたりから渋滞してるわけです。渋滞っていうか、車がさっぱり動かないわけ。まさかの御開帳渋滞ですよ。駐車場待ちの行列らしいです。朝7時半。
信州大学の前あたりに「駐車場満杯、他の駐車場へ」みたいな立て看板が出てるんですが、ナンバーを見ると並んでる車はみんな遠くから来てるみたい。その状態で「他へ」と言われても、他がどこにあるかなんてわからないので誰も脱落しない。近隣の駐車場と、そこから善光寺まで行く道順や路線バスの案内をパンフレットにして配ってくれたら従うんだけどねえ?
そんなこんなで、けっこう長いこと行列したところで、近所の人が駐車場の呼び込みにやってきました。普段あいてる土地を駐車場にして善光寺のイベントの時に貸してるようです。このまま並んでても時間とガソリンの無駄なので止めることに。3時間500円と言ってたけど、止めてみたら「何時間いても500円でいいですよ。ごゆっくりどうぞ」って言ってくれました。それで500円ならいいよね。止めてよかった。
駐車場の人に道を聞いて善光寺までたどり着いた頃、8時40分ごろ。1時間も駐車待ちか… これは思ったより過酷だぞ、善光寺の御開帳。参道には人がごったがえしており、すでになんらかの行列がはるかかなたまで続いています。なんの行列かはよくわかりません。とにかく並んでいます。わけもわからず並んでしまうと大変なことになると思い、とりあえず行列の先頭を見に行きました。どうやら参道の行列は回向柱というものに触れるための行列のようです。
回向柱というのは、木でできたオベリスクのような柱で、柱の中ほどから本堂まで紐が貼ってあります。その綱が御本尊様のお前立ちとつながっているので、柱に触れるとご本尊様に直に触れたのと同じことになります。この柱は御開帳の時だけ立てられるので、みな必死で並んでいるわけです。スピーカーからアナウンスがあって、最後尾から柱まで90分待ちだか120分待ちだか、ものすごいこと言ってる。 ▲回向柱(えこうばしら):柱に書いてある謎の文字は梵字といって、インドの文字が日本まで伝わるうちにこのようにデザインされたものです。上からキャ・ハ・ラ・ヴァ・ア(これはお墓にある卒塔婆にも書いてある)で、その下に御本尊様の種字(イニシャルとは違うんですが、シンボルとされている文字)が書かれています。善光寺の御本尊様は阿弥陀菩薩なのでフリーヒ(キリークと仮名書きされることが多い)、その下は脇侍の勢至菩薩と観音菩薩の種字でサクとサです。近くの釈迦堂などでも同じ形式の回向柱が立ってました。キャハラヴァアの下に御本尊様の種字なので、釈迦堂ならば「バク」になります。あとで文字ネタでやりましょうか。
せっかく七年に一度の御開帳なのに回向柱に触れないのとかありえない、かもしれませんが、さすがにこの行列だけで何時間も過ごすのは勘弁してほしいので並ぶのはやめました。だって仏はモノじゃないし、物理的な繋がりに必死になるのとかどうでもいいって、この行列見て完全に悟りましたよ(笑)
おそろしいことに行列はそこだけじゃなかったです。回向柱の行列は柱に触れたところで解散してて、さらに本堂まわりに別の行列がいくつもあるの。ひとつはお戒壇巡りというもので、やらなかったので詳細はよくわからないんですが、暗い地下室みたいなところを巡って何かするらしいです。現地には「戒壇巡り」という看板しかたっておらず、それ以上の説明がないんですが、みんな並んでる。
ほかにも本堂むかって左側にもなんらかの行列があって、これがなんの行列かよくわからんのですが、ながーい行列になってて、みんななぜか並んでる(結局なんだったかは後述)。行列に次ぐ行列。もしかして四の五の言わずに並ぶのが修行だったりする?! なんという過酷な御開帳!
実は、ここへ来るちょっと前に、佐倉の国立歴史民族博物館で、昔の見せ物みたいなのを再現したコーナーを見たんですけど、賽の河原で石を積んでる子供たちを地蔵菩薩が助けて、最終的には「極楽見たけりゃ善光寺へ」みたいに終わる口上が流れてまして、なんだ善光寺のステマかよとか言ってたんですけど、こりゃ確かに極楽見えるわ。見えるどころか、並んでるうちに心臓とまって極楽に行けちゃうかもしれないです。あたしゃ御開帳をなめてたわ。こんなことと知っていたら、前日の夜来て夜明け前から並んだのにね、ネタで。
今はとても並べないので、まずは並ばずに見られるところを。お寺って、入り口に山門(あるいは参門)ってあるじゃないですか。善光寺の山門はすばらしく大きくて立派。二階部分には四国の八十八箇所霊場のご本尊様の分身像が安置されています。大有料(大人500円)ですが中も公開されてて、ここは行列せずに入れたので見ました。 ▲この立派なのは本堂じゃなくて山門です。見学料を払うと二階に上がれます。
入ってみたら、これがちょっと面白かったですよ。内部は撮影禁止なので言葉だけで説明すると、分身本尊様たちはすごく小さくて、ナゲシみたいなところに並べて安置されてました。面白いのはそこじゃなくて、壁一面に「上州○○村だれそれ、明治×年」みたいな記念の落書きが墨と筆でビッシリ書き込まれています。目につくのは明治や大正のものが多いですが、江戸時代の年号や、昭和初期のもたまにあります。
江戸の頃は歩いて参拝していたはずだし、鉄道が汽車だった時代も来るのが大変だったはずです。みんな一生に一度の大イベントとして参拝に来るので、以前はそういった記念の一筆が許されていたそうです。今は山門自体が文化財になり、新しい書き込みは禁じられています。
個人の名前のほかに、屋号のようなものや、何かの記号も書かれています。お店の繁盛を祈願しに来たとも考えられますが、ひょっとすると講の名前やマークかもしれないですね。講は、みんなでお金を出し合って、代表者を聖地に送り出すグループです。富士講が有名ですが、善光寺講とか成田講とかもあるそうです。明治以降のだと墨がくっきり残っていて、村の名前などはっきり読むことができます(昔の人のくずし字なのでコツはいりますが)。ひょっとしたら「若い頃に善光寺まで汽車で出かけて山門に名前を書いたんだよ。上がってすぐのところだから、行ったら探してごらん」なんて言ってるおばあちゃん、おじいちゃんもいたのかなあ。
▲これは山門の二階から写しました(堂内は撮影禁止でしたが、外は許可されていました)。遠くに見えるのは仁王門。並んでる人たちは回向柱にふれるのを待ってる人たち。行列は仁王門の外まで続いてるみたい… いやーん。
山門を見てから、本堂にも行きました。回向柱やお戒壇巡りは行列してて時間がかかるのですが、本堂に入るだけなら行列はなくて、簡単でした。本堂もすっごく広いです。日本のお寺というより、中国かなんかの修行僧がいっぱいいる寺院みたいな(行ったことないですけど)、大仏様のいない奈良の大仏殿みたいな、なんか説明しにくいんですが、お寺っていう言葉でイメージするものとなんか違う不思議な建物でした。
本堂の、中ほどに仕切りがあって、そこから先はご祈祷を頼むなどしないと入れないようです。仕切りの近くまで行くと、奥に前立ち本尊様らしき金色に輝く仏像が見えました。善光寺様式の仏像は、大きな1個の光背の前に、主役の仏像(中尊)と脇侍(わきじ)が一緒に並んでいます。普通はそれぞれの仏像が光背を1個ずつ背負ってるものです。
仏像の善光寺様式とかも、ここに来る数ヶ月前に偶然覚えたことです。「仏の世界展」という、漫画家さんたちが書いた仏様展覧会を都内で見たんですが、会場になってたお寺で聞きました。たしか、東北のどこだかで被災した善光寺(全国にある)で、住職がご本尊さまだけは救わなければって背負って避難したそうです。そのご本尊様を展覧会場の寺で出開帳(でがいちょう)していて、そのときお坊さんに「善光寺様式というのは…」って。
わたしとしては「明日行こう」みたいに突然誘われてついてきたつもりだったんですが、こうして考えると見えない世界では数カ月前から計画して、善光寺に行かされることになっていたのかもしれないです。なんと恐ろしい、善光寺のパワーよ。あたしゃイベントのない時にまた来ますよ。ここを目指してくれば鈍行列車でも大した時間がかからないので、青春18きっぷの季節にふらっと来ればいいんだから。
話をもとにもどして信州信濃の善光寺です。本堂も人がごった返してて細かいところは見られませんが、お賽銭箱の横で、住職が赤い巾着袋のようなものを両手に持って、参拝者の頭にポンポンと押し付けてるのを見ました。それにも長蛇の列ができていて(どうも、本堂向かって左の行列がこれだったらしい)並ぶことはできなかったのですが、あとで調べてみると御印文頂戴というものらしいです。
御印文はおふだを作る時に押す印鑑みたいなやつでしょうか。わたしも詳しいことはよくわからないです。善光寺まわりは用語が特殊で、いちいち「ナニソレ??」って感じなので。その、印文を包んだものを頭にあてると、ありがたい御札を頭に直接おしたようなイメージになるらしくて、それだけで極楽に行けるくらいの御利益があるそうなんですよ。古典落語に『御血脈』ってのがありますが、それに出てくるのがこれ。御血脈(おけちみゃく)は善光寺ではおふだのことらしいです(面白い話なので紹介したいですが、長くなるので興味がある人は調べてみてください)。
とにかく、どこもかしこも人だらけなので主要な部分はろくに見られなかったのですが、宝物殿みたいなところも見ました。たぶん大本願ってところにある施設ですけど詳細はよく思い出せないです。人が多いし、歩いてる人がまるで何かによっぱらったみたいにフラフラユラユラ歩いてるの。全員が人ごみに酔っちゃってて、何もかもが夢心地(というか歩いてるだけでクタクタになる感じ)でよくわからないんです。
そのくせ宝物殿には見学者がほとんどいなくて閑散としてる(笑)お抹茶がついて300円だか500円だか、そのくらいの見学料をとられたと思います。もうね、どこへ行っても見学料、参拝料、その他もろもろ、お寺の集金システムってすごいです。これだけで首がしまって極楽行けそう(笑)いや、まあ、それはともかく、展示は面白かったですよ。
順路の最後のほうに善光寺の由来を描いた掛け軸があって、かたわらで物語を説明するDVDがエンドレスで再生されてる。みんなDVDを凝視してるんですが、あれは音だけきいて掛け軸を見るべきです(だいたい、縦横の縮尺を間違えたまま再生されてて腹立たしいもん。ホントに信仰心があったら仏様を縦に引き伸ばしたみたいな変な縮尺で映さないでしょ。それを何千円で販売って書かれててもさあ…笑)。一枚の絵の中に、時間経過の違う場面を詰め込む、昔の絵巻物の技法で描かれていて、それを音声を聞きながら見ると、とても理解しやすかったです。
調べなおすと時間がかかるのでうろおぼえのまま書きますが、善光寺の本当の御本尊様はエンブダゴンという特殊な黄金で作られており、その像自体が生きてるらしいです。なんでも、天竺にナントカいうケチな長者がいて、お釈迦様が托鉢に来たのに食べ物をさしあげなかったらしいです。そのせいでいろいろあるのですが、結果として長者も反省して仏道に目覚めます。そこでお釈迦様は、弟子の目連(だったっけ?)に命じて、竜宮にエンブダゴンを取りに行かせ、阿弥陀如来の像を作り、長者に与えました。
時は流れ、朝鮮半島の百済の国、なんとかいう王様の時代にエンブダゴンの阿弥陀像が飛来します。そこでしばらく世直しをしたあと、阿弥陀様は日本で民の心を救わなければと思い立ち、船に乗って日本に向かいます。阿弥陀様が去ってしまうと聞いて、王妃様は別れを惜しんで泣きながら海に飛び込み、それを見ていた侍女たちも、次から次へと海に飛び込んで船のあとを追ったそうです。
さて、日本にやってきた阿弥陀様ですが、崇仏派と廃仏派の戦いにまきこまれて、たたき壊されそうになったり、溶鉱炉で溶かされそうになったり、さまざまな災難にあいますが、決して傷つくことはなかったそうです。しまいには海に投げ込まれたりもしましたが、本田善光という人がみつけて信州信濃にお連れしました。この頃作られたのが飯田市に今もある元善光寺らしいです。寺の名前は本田氏の名前にちなんでいます。
ある時、善光の息子(だっけ?)が病気かなにかで死んでしまいますが、阿弥陀様の御加護で生き返ることになりました。しかし、自分と一緒に閻魔大王の前につれてこられた人の中に、帝の娘であるお姫さまがいました。それを見て、息子は「自分はいいのでお姫さまをお助けください」と阿弥陀様に懇願。その心根に免じて、ふたりとも生き返ることになりました。そのお姫さまが後に皇極天皇になり、この時に受けた仏の慈悲に感じて、阿弥陀様のために大きな寺をたてたのが、現在の善光寺というわけ。
あくまでうろおぼえなので間違ってたらごめんね。そういうことなので、善光寺のほんとうの御本尊様は生きていて、ひょっとすると寺の奥にはいないかもしれないです。必要に応じてどこへでも出かけていって迷える民を救っているかもしれません。七年に一度の御開帳で見る事ができるのは、お前立ちといって、本当の御本尊様の代理人みたいな仏様なのです。
そのような有り難い由来をもつ寺だからなのか、善光寺は真言宗や天台宗というような宗派には属さない、無宗派の仏教寺院なんだそうです。へー!
縁起絵巻を見たあとに、お茶室でお抹茶をいただきました。お茶室というか、陛下が来たときに使う客間のようなところらしいのです。普段は特別な人しか入れない御簾の中まで公開されてて、座ってお茶飲んでいいですよって言われました(笑)陛下が座る場所はさらに奥の間になってて、そこは御簾がおろされて入れませんでしたが、近くに見ることはできました。お抹茶と落雁、美味しかったです。 ▲ひととおり見終わってから山門に戻ったら、まだこんな行列… お昼ごろに撮影。みなさんお疲れさまです。昔は一生に一度のつもりで遠くから参拝に来たってことですが、この行列は今でも一生に一度でいいかもねー。
▲善光寺の濡れ仏:なんで「濡れ」かっていうと、深い意味はなくて、外にあって雨にさらされてるから、らしいです(少なくとも現地には説明はなかった)。伝説によれば、恋人に会うために放火して処刑された八百屋お七の冥福を祈るために、お七の思い人だった吉三郎が造立したと言われているそうです。が、実際にはなんの関係もないらしいです。
▲仁王さんの足。仁王門にはすばらしく立派な仁王像があるんですが、金網越しなのでうまく写らなかったので、生々しい足のみ。
▲古い道しるべ。方向をあらわすのに指さしてる手がレリーフされてるのが面白い。
そうこうしているうちに昼を過ぎました。参道は人でごった返しているので、なにかないかと人のいないところへ歩いて行ったら、なぜか近くのお寺で「ダライラマが開眼供養をした仏像があります」って客引き(って言うなw)をしているので、誘われるままに行ってみたら、本堂に色あせているとはいえ古くて立派な天井画があり、善光寺で使っていたとされる天蓋があったりして、なかなか立派なお寺でした。名前は西方寺だったでしょうか。
▲西方寺の門前。こんな感じで看板いっぱい、チベットの旗がひらめいてて、色物じゃないかって思うんですが、よく見るとお寺自体は古くて由緒ありげでしたよ。
それから、偶然みつけた蕎麦屋さんに入ったのですが、ここが大当たりで、手打ちそばが美味しかったです。店名は山屋。水曜定休。営業時間11:00〜15:00/17:30〜19:00 ▲大もりそば 750円+かきあげ200円x2
▲来間池跡:善光寺のまわりにはいくつかの池があったそうですが、これはそのひとつ。以前は飲料水として使われ、近隣の造り酒屋でお酒を仕込むのにもここの水を使ったとか。大八車いっぱいに水をくんでも、来る間にもとどおり水が沸いているので来間池(くるまいけ)だそうです。今は完全に覆われて池はないんですが、地下に水源が残っていて防火用水として使われているそうです。
午後は車で松本に移動して、城を見てから、インター近くのネットカフェに宿泊、翌朝は山越えして飛騨高山でこないだ見られなかったところを見るんですが、そっから先もまた大変な話で、長いので別の記事に書きます。
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