ちょっと前から、葛飾区郷土と天文の博物館の1階に、こんな穴だらけの石が展示されています。
説明を読むと、関東ローム層の下にある岩盤が露出したものだと書いてあります。江戸川の川底にこのような岩盤があることが昔から知られていたそうです。
この岩盤が「からめきの瀬」の正体だとも書いてあるのですが、よく一緒にプラネタリウムを見に行くおともだちに「からめき? なんすかそれは」と変な顔で聞かれました。
「からめきの瀬」あるいは「からめき川」というのは、江戸時代以前のいろんな本に出てくる川の名前で、江戸川のことじゃないかと言われています。「瀬」という場合は、川の浅くなってる場所の呼び名かも知れません。
わたしは『江戸名所図会』を愛読しているので「からめきの瀬」という言葉自体は知ってましたが、一体なんなのかと聞かれると「江戸川のある部分をそう言うらしいよ」くらいのことしか言えないのでした。
そこで江戸時代以前の古典から「からめき」に関係している部分を抜き書きしてみたいと思います。ためしにネット上で探してみたところ、国会図書館や大学で公開している昔の本や、古文書の類いが思いの他役にたちました。
『江戸名所図会』
◎早稲田大学図書館・古典籍総合データベースより
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05105/ru04_05105_0020/ru04_05105_0020_p0015.jpg
新利根川
万葉集刀禰に作り、活字板源平盛衰記利根に作れり。旧名を太井河といふ。此号更級日記および東鑑等の書に見えたり。又清輔奥義抄云、下総国かつしかの郡の中に大河あり。ふと井といふ。河の東をば葛東の郡といひ、河の西をば葛西の郡といふとあり。証とすべし。私に云、此河より西は葛西と称して今武蔵国に属す。又北条五大記国府台合戦の条下にはからめき川といふよし見えたり。世俗坂東太郎と称し、或は文巻川、又かつしかの河とも唱へたり。
【要約】
・新利根川という川があり、旧名は「ふと井川」という。
・世間では坂東太郎、文巻川、かつしか川などと呼ばれている。
・『更級日記』や『東鑑(吾妻鏡)』などに下総国葛飾郡の大河で太井川というのが出てくる。
・川の西を葛西郡、東を葛東郡とされているので場所が特定できる
・『北条五代記』の国府台合戦のシーンに「からめき川」とある。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05105/ru04_05105_0020/ru04_05105_0020_p0016.jpg
迦羅鳴起瀬(からめきのせ)
新利根川の水流なりといへども今その地さだかならず。土人云く柴俣の辺なりと。北条五代記に氏康と里見義弘戦ひの条下に武州江戸より小田原方遠山丹波守冨永三郎左衛門尉はせ参じ、からめきの川を前にへだててそなへたりとあり。同書にからめきの瀬ともあり。
按にあらしな日記にかがみの瀬とあるは此川の事ならんか。恐らくは後世の
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05105/ru04_05105_0020/ru04_05105_0020_p0018.jpg
里俗あやまりつたへて、からめきと転唱せしもしるべからず。
【要約】 ・新利根川の水流だが場所ははっきりしない。 ・土地の者は柴俣(柴又)の辺りだと言ってる。 ・『北条五代記』に冨永三郎左衛門尉がからめきの川を隔てて戦いに備えたとある。 ・同書に「からめきの瀬」ともある。 ・『更級日記』に「かがみの瀬」とあるのはこの川のことであろう。
『江戸名所図会』も江戸時代後期の本です。タイトルのとおり江戸の名所案内のようなものですね。葛飾区あたりの名所も沢山掲載されてて面白いです。図書館に行けば活字化された本もあるはずですが、このくらいのくずし字なら根性を入れると読めるかもしれないので頑張ってみるのも楽しいかもです。本全体を詠みたい場合は>ここをクリック。
さて、新利根川というと、現在は茨城県南部を流れる利根川のことを言うみたいですが、北条氏家と里見義弘の戦い(国府台の合戦)があったと書かれているので、『江戸名所図会』にあるのは江戸川のことだと思います。「からめき川」は江戸川の別名だということです。
そのからめき川の「柴俣のあたり」には「からめきの瀬」があったとも書かれていて、『更級日記』にあるかがみの瀬が訛ったのではないかと考察されています。
では『更級日記』も読んで見ましょう。
『更級日記』
◎早稲田大学図書館・古典籍総合データベースより
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0037/bunko30_e0037_0001/bunko30_e0037_0001_p0006.jpg
更級日記の全体を読みたい場合は>ここをクリック。
そのつとめてそこを立て、下つぶさとむさしの堺にて(あすだ川といふ、在五中将のいざこととはんとよみけるわたりなり、中将の集にはすみだ川とあり)、かがみのせまつさとのわたりの津にとまりて、夜ひと夜船にてかがづかづ物などわたす。
欄外に:元本は下つふさとむさしとの堺にふとゐ川とありて改めてここに出せり
【要約】
・下つぶさ(下つ房=下総)と武蔵の堺に「かがみのせ」「まつさとの渡り」の津(港)がある
・在五中将(在原業平)が、「いざ言問はん」と詠んだ、あすだ川の渡りのことだ。
・『中将集』には「すみだ川」とある。
・元の本には「ふとゐ川」ともある。
『更級日記』は平安時代中期の作品なので、ぐっと古い文献です。筆者は女性で、十三歳の時に一過で都に移り住むことになり、下総国(今の千葉県)から出発するところから日記が始まっています。「かがみの瀬」が出てくるのは旅立ってすぐの頃で、この川を越えたら武蔵(東京・埼玉・神奈川の一部を含む地方)という場面です。
『江戸名所図会』は、この場面を引いて「かがみの瀬」が変化して「からめきの瀬」になったのではないかと言ってます。
昔の本は人の手で何度も書き写されて今日に伝わるのですが、今回参照した資料には、書き写した人のメモと思われるものがついています。(あすだ川といふ…)の部分です。それによれば、かがみの瀬は在原業平の歌にある瀬のことで、あすだ川あるいは、すみだ川のことだと言うのです。いざ言問はむ…というのは『伊勢物語』の一節で、武蔵と下総の間にある隅田川を渡る時に、都鳥を見て詠んだとされているので、きっと同じ場所だろうと考察しています。
しかし、欄外にもうひとつメモがあって、「元の本ではふとゐ川」と訂正されています。『江戸名所図会』に出てくる「ふと井川」のことでしょうか。もしそうなら江戸川のことかもしれないですね。実はこの先をもう少し読み進めると、武蔵と相模の間にある川を渡るシーンがあり、その場所に同じようなメモがあります。どうやら場面が似てるので川の名前が入れ違っちゃってるということみたい。
千葉方面から見ると最初に渡るのは江戸川で、隅田川はその次でしょうから、かがみの瀬と呼ばれているのは今でいう江戸川のどこかにあったと考えて良さそうです。『更級日記』には「かがみの瀬」という呼び名が出てくるだけで、なぜそう呼ばれているかは書いてありません。
『嘉陵紀行』
◎国会図書館デジタルコレクションより
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952975/53
巽の方に天守臺と云もの有。のぼる事四五間、上の平らも五三間、浅間の社南にむかひて立せ賜ふ。下りて其南の方崖上に望めば、刀禰の流れ、脚下に渦巻、川を瞰こと、ここを最上とす。遍覧亭はここには劣れり。此下を鐘が淵と云、城のかねこの處に沈みし故名付くと云。其続きは前にいふ、丹土の絶壁也。その下をがらめきの瀬と云。古この處に、石船しずみて水底に有故、水棹にさはりてがらがらと音するをもて名付といふ。
【要約】 ・天守臺(天守台)という、川を眺めるのに最適な場所があった。 ・有名な遍覧亭よりここのほうがいい眺めである。 ・天守臺の下に刀禰(とね)という川があって、ちょうどそこで水が渦巻く。 ・ここは城の鐘が沈んだ場所で、鐘が淵と呼ばれている。 ・その(川の)続きは赤土の絶壁で、その下は「がらめきの瀬」である。 ・かつて沈没した石船が今も川底にあるため、船をあやつる棹があたり、がらがらと音がする。『嘉陵紀行』は村尾正靖という人が書いた本で、嘉陵は著者の号(ペンネームみたいなもの)だそうです。本の冒頭に文化九年と書いてあるので江戸時代後期の文献です。内容は嘉陵さんが江戸周辺の名所をたずね歩いた旅の記録になります。
鐘淵の伝説は隅田川のものが有名ですが、実は日本中あちこちに同じような話があります。この直前で国府台合戦と城跡について書いており、そこから巽(東南)の方角に天守台とあるので、現在の里見公園(市川市)のあたり、「刀禰」は江戸川のことと考えられます。
この本では水底に石があるので、棹に当たってガラガラいうから、という音由来説をとって、がらめき(garameki)と記しています。
今回のテーマは「からめき」なので余談ですが、「遍覧亭」は公園より1kmくらい南にある弘法寺にあった茶室だそうです。遍覧亭という名前は水戸の黄門様が下さったとかで有名だったということです。
その弘法寺は涙石という不思議な石があることでも知られています。よろしければ以下の記事もどうぞ。>涙石と手児奈の伝説(市川市・弘法寺)
『北条五代記』
これはやっかいでした。そもそもこのへんの歴史をよくわかっていないので、長い話のどのへんを読むと問題のシーンがあるのかさっぱり想像がつかないのです。国会図書館のデジタルコレクションなど活字化kされたデータがあるので端から全部読めばよさそうですが、文字が小さすぎて、拡大すると全体が見えず、ぜんぜん頭に入らないのです。
図書館でも探してみたんですがそれらしい本もみあたらず、現在これはお手上げです。でも『江戸名所図会』の著者が言うことを信用するなら、どっかに「からめき」が出てくるらしいです。
◎国会図書館デジタルコレクション
北条五代記
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172/303
活字化されてるけど文字が小さく、拡大すると全体を見られなくなるので読みにくく、私は投げました orz
◎国文学研究資料館
北条五代記
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-027504
◎早稲田大学図書館・古典関総合データベース
北条五代記・巻三
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_09273/index.html
北条五代記・巻六と七
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e1171/index.html
コメント欄で教えてもらったので抜き書きしてみます。「からめき川」が出てくるのは巻五・下総高野臺の合戦の事という部分だそうです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172/355
聞しはむかしさかみ北条氏康と安房里見義ひろたゝかひあり。然に太田みのゝ守武州岩付に謀叛をくはたて義弘と一味するによつて義弘義高父子下総の国へ発向し高野臺近辺に陣をはる。この高野臺ふるき文には国府臺(こくふのだい)小符代(こふのだい)鴻岱共書たり。今所の者にとへは高野臺と書といふ。見れは字面にあふたるたかき臺也。武州江戸より北条がた遠山丹波守富永三郎左衛門尉はせ参しからめきの川を前にへだてゝそなへたり。
【要約】 ・里見義弘・義高親子が高野臺(台)に陣を張った。 ・高野台は字面のとおり高台である。 ・古くは国府台、鴻岱とも書いた。 ・北条方の富永三郎はからめき川の対岸に陣取った。
市川市の国府台は今でも「こうのだい」と読みます。下総国府があったことに由来するそうです。普通に読んだら「こくふだい」になりそうなものですが、なぜ「こうのだい」になってしまうのか昔から謎でした。『北条五代記』の時代には高野台と表記されてたというのでなるほどなあという感じです。あの辺は下総台地といって江戸川沿いに埼玉のほうから海の近くまで続く高台なのですが、国府台の里見公園のあたりは特に川からすぐに崖になってますね。
関八州古戦録
巻之六http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172/164
国府臺は西北の方切岸高く險なるも東南はなだらかなりと云。(中略)両将即氏政を倶なひ葛西筋より市川の川上迦羅鳴起の瀬を渡して…
詳しくはコメント欄を見てください。
まとめ
・「からめき川」は江戸川の古名っぽい
・「からめきの瀬」は江戸川の里見公園付近のことっぽい
・語源その1:かがみの瀬→からめきの瀬
・語源その2:川底の岩に棹が当たってガラガラ言う→ガラメキ→からめき
・とりあえず、江戸時代の観光案内本にわざわざ書かれてるくらいなので昔はよく知られてたらしい。
・国府台合戦に関する複数の軍記物に「からめき川」が印象的に出てくる。
こんばんは、コメント失礼します。
記事拝見して興味を持ったのでリンクを張ってくださっている北条五代記と、一緒に閲覧できた関八州古戦録を見てみました。
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★北條五代記 巻之五 下総高野臺の合戦の事
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172/355
1)タイトルから5行目の上の方、「からめきの川を前にへたてゝて」
前後の文は、「武州江戸より北條かた遠山丹波守富永三郎左衛門尉はせ参しからめきの川を前にへたてゝそなへたり」
2)左右ページの綴じのすぐ右側ラスト2行の下からラストの行へ、
「氏康先手の衆から/めきの瀬を取こし敵は高野臺を二里ほと引てそなへたり」
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★関八州古戦録 巻之六
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172/164
『国府臺後度合戦 付里見太田敗北事』
5~6行目あたりから、
「両将即氏政ヲ倶ナヒ葛西筋ヨリ市川ノ川上迦羅鳴起(ふりがな:カキメキ)ノ瀬ヲ渡シテ真間国府ノ東西ヘ押着ケ旗旃ヲ潜メ陣ヲ取リシキ姑ク人馬ノ息ヲ休ム」
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ミスタイプあったらすみません、概ねこんな感じになってるみたいです。でも関八州古戦録、カキメキ…?w 漢字は迦羅鳴起ってあるから誤植ぽいですけども。
いつも楽しい記事をありがとうございます。
うおおっ、ありがとうございます。『北条五代記』は国府台を「こうのだい」と読む理由が書いてあるのも面白いですね。あの辺は今でも「こうのだい」と呼ばれているし、東京側から見ると崖になってますよ!
『八州古戦録』も国府台の地形を説明してあって、こういうのを読んでた昔の人は、やっぱり「この崖の上に義高・義弘の陣、川をへだてて柴又側に富永三郎」とか言いながらニヤニヤしてたのかなあ。迦羅鳴起はカラメキでしょう。そのテキストは思考が止まりそうなレベルの誤植がありますね。「險ナレノモ」とか、ルの片側が落ちてモとくっついてますよね…他のところもどこまで合ってるやら(笑)