先週は謎の大師像を求めて葛飾区水元から三郷市戸ケ崎にかけてのお寺や神社を訪ね歩いてしまったのですが、その際道端で妙な石杭を見つけました。
▲三郷市戸ケ崎交差点の石杭:膝下より低いくらいの小さな杭です。
▲三郷市戸ケ崎交差点の石杭(拡大):よく見ると何か刻まれています。写真だけでなく、手でふれて確認しましたが、漢数字で「八十八」のようです。石杭は苔むしておらず、新しく見えるので、昭和に入ってから立てられたものかなと思います。 どうも明治のものらしいです。
ほとんど同じものを吹上天神社の入り口でも見つけました。 ▲三郷市戸ケ崎・吹上天神社。
最初はただの車止めだと思っていたのですが、鳥居がある側から見ると、やはり文字が刻まれていました。
ここも「八十八」です。戸ケ崎交差点のより摩滅が少なく、はっきり八十八と読めます。石の色や大きさや形などが一致するので、戸ケ崎のものと同じ目的で立てたものだと思います。
もうひとつ、今度は別の漢数字が刻まれたものも見つけました。
常楽寺の寺の山門前にも白い石杭がありました。これにも漢数字が刻まれているんですが、いまひとつはっきりしません。三十六、三十七、三十八あたりだと思います。
そこでふと気づきました。常楽寺は新四国四箇領八十八ヶ所霊場の三十七番目だそうですから、この石杭は霊場巡りの道しるべじゃないでしょうか。
杭と霊場(寺)の位置関係を地図にしてみました。青いバルーンが寺で、黄色が漢数字付きの石杭です。おおざっぱに見て道しるべとして矛盾のない場所にありそうです。/都内にもあったので紫色のバルーンで追加してあります。
「新四国四箇領」の目印だったとしても、石が新しいので立てられたのは昭和に入ってからかもしれません。とはいえ、40〜50年は経過してるんじゃないでしょうか。だってほら、戸ケ崎交差点の杭なんて、あんなに小さくて目立たなかったら誰も道しるべだと思わないでしょう。立てられた時はまわりじゅう農地で、電柱だってなかったかもしれません。# 造立年代については明治三十八年と刻まれたものをみつけました。詳しくは 八十八石の都内版 に書きました。
吹上天神社の杭も、完全に昔と同じ場所じゃないかもしれないです。道しるべなら道行く人に文字が見えないとおかしいんですが、なぜか神社側を向いてしまっています。近くの道端にあったのを、工事かなにかで撤去して、石仏や板碑じゃないので車止めに利用してしまったのかもしれません。
なんて、適当に想像してみましたが、ぜんっぜん違う理由で立てられたものという可能性も否定できませんが(笑) #いや、やはり新四国の道標だと思う。本当に順路通りに立っているので。
2016年11月23日追記
もう一ヶ所みつけました。戸ケ崎の交差点からまっすぐ北へいくと、右側の道端に小さなお堂があります。このお堂の中には成田山と刻まれた石のお不動様がいます。そのお堂の傍らに、八十八と刻まれた白い石の杭がありました。杭の後ろにあるのは青面金剛(庚申塚)です。
この場所は、新四国の38番と、39番の中間で、次の霊場まで距離のある場所です。この道で合ってるのかなと、不安になりそうなところに道標を作ったのかもしれませんね。
八十八石の左側面に、何か刻まれてます。縦書きで二行。右行は読めない。左行の下のほうに春らしき文字。人名なのか、春吉日の一部なのか、今のところわかりません。大まじめに拓本でも取らないと…
2016年11月30日追記
また見つけました。やはり新四国四箇領八十八ヶ所の順路に点在しているようです。
▲三郷市谷口の真福寺(新四国の39番札所)のすぐ近くでみつけました。
▲真福寺の大師堂(新四国の39番札所)と石の杭(左の写真)。この杭には三十九番と書いてあります。札所にはその番号のついた石の杭。順路の案内は八十八と書いた杭があるんですね。# 後日よく見直したら、写真に写ってる面に三十九番、右隣の面に四十番と書いてありました。この場所を示すとともに、四十番の方向を案内していたんだと思います。
▲三郷市上口の、土屋製パン所の角にありました。迎摂院(新四国44番)と善照寺(同45番)の間です。
これらの杭は、八十八と刻まれた面に向かって右側に年号かなにかが刻まれてるような気がするんですが、気がするだけで実際にはただの凸凹かもしれません。#その後頑張ってよく見たのですが、文字が刻まれてることは確かです。ただ、なんと書いてあるのかまではわからない。年号かもしれないし、建てた人の名前かもしれません。
四国四箇領の札所は、足立区から始まって、葛飾区や江戸川区を通り、三郷市を抜けて、吉川市、草加市、八潮市を経て、また足立区に戻ってきます。八十八石は葛飾区では見た事がないので三郷市にだけあるのかもしれません。
こんなの探し回っていたら「そろそろ札所研究家を名乗っといたほうがいい」って友達に言われました。そりゃもう、そういうのは言ったもの勝ちなので、専門家の顔をしておいてもいいかなって思わなくもないんですけど、残念ながら札所全般を研究してるわけじゃなくて、あくまで身近な謎を追って行ったら札所だったっていうだけなんですよね。何かぴったりくる肩書きがあればいいですけど。
2019年7月追記
▲三郷市花和田の西善寺の門前にあり、八十八と刻まれています。隣の黒っぽいのは「新□阿弥陀」と刻まれています。□の部分は「木」か「本」のように見えますがよくわかりません。蜜乗院本堂前にあるのと同系統の案内のようですね。
▲三郷市花和田、蜜乗院の墓地。手前の角張っていて苔むしているのも、たぶん何かの案内ですが文字は読めず。隣の小さくて白いのが八十八石の仲間っぽいです。八十八でない文字が刻まれていましたが読めません。
▲同・蜜乗院の本堂があるところにもありました。左の白いのがそれっぽいですが、これまた文字は読めません。真ん中の黒っぽい石は「新□阿弥陀」と刻まれていますが、□の部分は「赤」か「亦」のような字が刻まれています。右側の苔むしたのは、文字が読めないですが、やはり何かの案内のようですね。
新赤阿弥陀、新亦阿弥陀、新木阿弥陀、新本阿弥陀……どれもあまり聞かない感じですけど、新たな謎を発見したかもしれない。# 2019年8月28日追記、これは「新六阿弥陀」と書かれているようです。ここよりずっと南、三郷市栄の香岩寺に「両岸 新六阿弥陀 第四番」と刻まれた石碑がありました。
2019年9月15日追記
谷口の交差点のちょっと南に、川沿いの道と旧道に別れるところがあるのですが、その旧道沿い、すてきなたたずまいの酒屋さんの近くの路上に転がしてありました。
近づいてみると、なかなか状態がよくて、八十八の文字の上に何か細い線で刻まれているのがわかります。線を大ざっぱになぞってみると……
どうやら指で方向を示してるみたいですね。そう思って、これまでみつけた八十八石の写真をためつすがめつ見てみると、どうも、ほとんど全部に指マークが刻んであるようです(ブログに貼った写真じゃわかりにくいかもしれませんが)。
さらに、この八十八石(もしくは札所の番号を刻んだ石)は、三郷市だけでなく、葛飾区にもありました。
葛飾区東金町の観蔵寺(三十二番)の入り口にありました。隣にある黒い石柱も新四国四箇領のです。
この石は写真左側の面に三十三番とあり数字の上に左を向いた指のマークがあるみたいです。そして右面には三十二番とあって、右を向いた指のマークがついているようです。おそらく、ここを右折で三十二番、まっすぐ行くと三十三番、というような道案内だったと思われます。
2019年11月5日追記
また見つけました。戸ヶ崎の観音寺の入り口、向かって右手にひっそりと。ある面に三十六番(観音寺は新四国四箇領の三十六番)、その向かって右に三十七番と刻まれています。
2019年11月15日追記
もうひとつ見つけました。香取神社の北西側出口にあります。前から石があるのは知ってたんですが、すごく大きいので別のものかと思ってました。近づいて見たら一つの面に三十八番、隣の面に三十九番とあり、新四国四箇領の道案内だとわかりました。
2020年1月29日追記
これらの白い石杭(八十八石)がいつごろ立てられたものなのか。
新四国四箇領八十八ヶ所は、江戸時代に成立して一度衰退したのを、明治時代に整備しなおしたものだそうです。下の写真は戸ヶ崎の常楽寺の門前にあるものですが、白いのが八十八石(刻まれてるのは札所の番号で八十八ではないですが)、隣の黒っぽいのは、やはり新四国四箇領の道案内なんです。
黒いほうの脇には年号が書いてあります。苔むしてわかりづらいですが、「明治三十○年○月」とかだと思うのですよね。ねんのために江戸時代の元号を調べましたが、明で始まるのは明暦だけで、明暦は四年で終わってます。
石の材質が違うので、かならずしも黒いのが古いとは言いきれないでしょうが、それでもやはり白い八十八石のほうが新しく見えます。同時期に二種類立てるとは思い難いので、白いのは明治の道標が古くなってから立てられたものだと思うのです。
昭和初期というのは、使われてる石がそういう時代のものかなあっていう、ぼんやりした印象であって、決して根拠のあるものではありませんが、少なくとも、白い八十八石は、明治時代のものではない気がします。
昭和の、しかも戦前のものだろうと想像します。戦後すぐはそれどころではないでしょうし、落ち着いた頃には霊場巡りは廃れているでしょうから、昭和10年前後ではないかと……
今のところ完全に想像です。別の手がかりが見つかれば考えを変える必要があります。
【追記】
造立年については新発見がありました。東金町・金蓮院(四箇領の第31番札所)南の路辺にあるものに「明治三十八年九月」と刻まれていました。すべてが同じ年に作られたとは限りませんが、同時期ではあると思います。というわけで、白い八十八石は明治38年ごろのものです! 詳しくは、八十八石の都内版 という記事を新たに作りましたので、そっちに書きました。
それにしても、ちょっとびっくりです。だって、常楽寺前にある黒い方の石も明治30年代のものみたいだから、同時期に二種類も作ったということですよね。明治38年は西暦だと1905年? 弘法大師が亡くなった年が835年なので 1070年後なんですが、霊場の再整備だったら 1050年とか1100年遠忌にあわせてしそうなものだなあと。明治38年にほかになにかあるのかな。
2021年11月25日追記
もう三郷市内のは全部みつけたんじゃないかと思ってたんですが、もう一個見つけました。花和田341-2の観音堂のすぐ東南にある三差路です。ダイヤモンド富士を見に行って、帰りのバスがないので(あるんだけど1時間後とかw)歩いててみつけました。もう日没後であまりちゃんと写ってないですが、正面に八十八と刻まれてます。
このあたりは、川沿いに現在の幹線道路があって、一本北側にバス通りになってる旧道があるんですが、八十八石や札所になってる寺をマークしていくと、さらにもう一本北側に街道が見えてきます。たぶん昔の岩槻街道ですね。葛飾区水元のほうからずっとつづいてるんです。岩槻の観音様(慈恩寺)へ行く道だったらしいです。
四箇領の札所は岩槻までは続いていなくて、吉川辺りで西へそれて八潮市、草加市を通って足立区の竹の塚あたりで終わるんですけどね。
▲三郷市花和田あたり、八十八石のあるところ(黄色いポイント)。青いポイントは札所になっている寺院。
実はこの外に葛飾区内で八十八石をいくつも発見しまして、まとめようまとめようと思いつつほったらかしてます。どれもだいたいお寺の門前にあって、三郷市内みたいに路辺にはもうほとんどないんです。道案内がちゃんと道案内として機能する場所に残ってる三郷市の例はわりと貴重なんじゃないかと思うんですけど、やがて道が拡がったりすると、だんだんに消えていくんだろうなあ。
新発見もあったので東京都内の分も別の記事にまとめました。
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ちょっとメモ
柴又良観寺:天保の石碑と並んで白い道標あり。「三十番へ」「二十八番へ」とある。良観寺は二十九番。
奥戸宝蔵院:八十八石
青戸法問寺:八十八石
写真は整理中につきまたあとで。
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