すっごくローカルな話をすると、水元五丁目三差路から大場川沿いの土手を歩くとして、三差路と水門のちょうど中間くらいの場所で土手を下りると神社らしきものがあります。なんだかよくわからないので「謎の神社」と呼んでおきますね。
▲東(右)から、緑のポイントが水元五丁目三差路、中央の鳥居が「謎の神社」、オレンジのポイントが大場川水門です。
神社「らしきもの」というのは、何神社かどこにも書かれていないし、近年はあまり世話する人もいないようで草ぼうぼうで、いわゆる神社なのか、私有地内に祭られた屋敷神様なのか、イマイチ判断つかない感じになってるからです。
ただ、入り口は閉鎖されていないし、境内がどなたかの家につながってる感じでもないです。一の鳥居は大きくて立派だし、さらに奥には小さめの二の鳥居もあり、本殿は小さいものの、本殿の隣に神楽殿か神輿殿のようなものが建っていたりして、個人の持ち物にしては立派だなと思います。
▲二の鳥居から社殿を見たところ。中央の小さいのが本殿で、向かって左にある建物が実際に何かはわからないけれど、神楽殿か神輿殿のようなものかなと思う。
それに、鳥居や社殿をよく見ると奉納した人の名前がいくつも残ってるんですが、それぞれ名字が違うので、全員が親類縁者と言いきるのは不自然のような気がします。二の鳥居には昭和四十七年の日付が入っています。少なくともその頃までは氏子さんがそれなりにいたんじゃないでしょうか。
じゃあ、この神社は一体何神社で、なぜ放置されてるんだろう??
たぶん、こんなのは地元に戦前から住んでるようなお年寄りに聞いたら一発なんでしょうけど、そういう知人もなく、聞くチャンスもないので、なんとなくずーっと、なんだろうなと思ってました。
▲本殿の下に力石らしきものがある。年号なども刻まれているかもしれないけれど、薄れていて読めない。ただ「善蔵」という文字がくっきり見える。向島の牛嶋神社に「千住善蔵」という名前が刻まれているそうだけど同じ人だろうか?参考>東京都墨田区内の力石の調査・研究(PDF)
この神社についてはひょんなことから事情がわかりました。わたしのツイートなりブログなりを継続して読んで下さってる方は、わたしが「水元水郷弘法大師」を探し回ったのを御存知でしょうが、その時に調べた古い葛飾区史に区内の神社一覧が掲載されていたのです。
▲昭和二十六年発行『新修 葛飾区史』より。上から神社名、創立、位置、例大祭です。たぶん昔で言うところの村社以上の一覧で、無格の稲荷社などは掲載されてないみたいです。
この一覧をもとに、古地図で場所を確認すると、赤線の天祖神社が「謎の神社」と同じ場所にあることがわかりました。
▲昭和16年の葛飾区詳細地図(礼文社の復刻版)からコピーして引用。色はわたしが塗りました。薄紫に塗ってあるのが水元猿町です。
この地図には神社のマークがないですが、赤い○Aの部分が天祖神社の所番地(水元猿町2191)と一致します。そして「謎の神社」の場所とも完全に一致! つまり、謎の神社は天祖神社だったのです。
なお、○Bにも名前のない鳥居が書いてありますが、こっちは大畑稲荷ですね(今もあるし、パソコン版の google map にも載ってます)。
その、天祖神社が、なぜ草ぼうぼうになってるかというと、これは近くにある水元神社の由来にヒントがありました。
鳥居をくぐって左手にある大きな石碑「水元神社御造営記念碑」に、こんなことが書いてありました。長いので要点だけかいつまんで書きます。
・ここ水元神社は、もとは猿ヶ又村(水元猿町→現・西水元の一部)の鎮守香取神社であった。
・猿ヶ又村には香取神社、浅間神社、熊野神社、天祖神社、吾妻神社の5社があった。
・昭和42年に東京都は遷都百年の記念事業で水元公園を造園することになった。
・昭和46年、猿町内にあった浅間神社が都に買収されたので、熊野神社、吾妻神社も処分して合祀することにした。
・天祖神社については、かつて葛西御厨神宮と呼ばれ、伊勢神宮と深いかかわりがあったことから残し、境外末社とした。
・浅間・熊野・吾妻社の用地を処分して作ったお金で香取神社を建て直し、水元神社と名を改めた。
・旧・香取神社の本殿と鳥居等は境内に移築し、招魂社とした。
…ということなんです。このあたりの神社が合祀され、例祭を水元神社でするようになったので、天祖神社は衰退して現在に至る(ただし神様は水元神社を通じて信仰を集めている)という感じなんでしょうね。天祖神社に昭和47年付けで鳥居が奉納されているのは、猿町の神社が合祀されたことを記念したものかもしれません。
ああ、すっきりした。面白かった! ご町内でリアル謎解き。完全にゲーム脳なわたし。
おまけ
ところで、ついでなのでこれも書いておこうと思います。ネットで東京近郊の神社やお寺のことを調べようとすると「猫のあしあと」という立派なサイトを必ず見ると思います。ほんとうに東京中の寺社の写真や由来を事細かに掲載しているすごいサイトです。
ただ、水元神社関連で、いくつかの誤認があるようです。
◎猫のあしあと・水元神社
http://www.tesshow.jp/katsushika/shrine_wmizumoto_mizumoto.shtml
1. 天祖神社の写真に「西水元4の旧熊野神社鳥居」「旧熊野神社拝殿」というキャプションをつけているが、古地図によれば熊野神社は100メートルほど南西で、現在は宅地で遺構はない。
2. 水元五丁目三差路付近の大場川沿いにある石碑の写真に「葛三橋南詰麓にある旧浅間神社」とキャプションをつけているが、ここにある石に刻まれているのは「水神宮」と「氷川神社」である。旧浅間神社は、そこより200メートルほど北、水元公園猿町口を入ってすぐの場所である。今でも富士塚の跡が残っているが草ぼうぼうで見えないかもしれない。現在は葛飾区が建てた看板がある。
3. 「香取神社」とされているのは、水元神社内にある「招魂社」である。ただし、社殿は旧・香取神社のものを使っている。
サイトの管理者に教えたほうがいいかなあとも思ったけれど、何も全員が完璧である必要はないし、もしかすると何か別の資料を見た結果なのかもしれないので、そっとしておくことにしました。
情報は幾通りもあっていいと思います。それは違うと思ったら、自分で調べて発表すりゃいいんです。今わたしがこうしてブログ書いてるみたいにね。ひとつのサイトだけ見て信じ込むほうが悪いと、わたしは思ってます。
▲水元三差路付近にある石碑。河川敷きにあるせいか(あるいは私有地だからか)施錠されており近づけない。数年前に河川敷きの工事のあと、鳥居が新しくなったので放置されているわけではない。石碑は二つあり、向かって左が水神宮、右は「氷川神社 明治廿九年七月建立 氏子中」と書いてある(カメラの望遠レンズを使って解読)。
▲水元公園内(猿町口近く)の浅間神社跡。富士塚の跡は今でも山になっている。昔は人が歩き回るので草など生えていなかったのですが、数年前に膝より低い囲いができて(簡単にまたげるのに!)誰も通らなくなり、このとおりの草ぼうぼうに。保護しないといずれは山が平らになってしまうので、囲いをつけたのはいいんですが、さすがにこの状態ではせっかくの富士塚跡が見えないのです(笑)
追記
2017.06.19.この記事を書いた当時「謎の神社」は google map には載ってなかったのですが、最近になって「西水元天祖神社」と書かれるようになりました。こういうアップデートは何をきっかけに行われるのでしょうね。
あと、放置されてて草ぼうぼうは言い過ぎでした。社殿の扉が直されてるような気がするし、草刈りもされています。世話をしてくださる方がいらっしゃるのですね。適当なことを書いて済みませんでした。
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