すべての始まり、十三番
12番:戸ヶ崎村寄巻・金蔵院
歩いて遠くまで買い物に行ったんですが、途中で立ち寄った寺に「第十三番」と刻まれた弘法大師像を発見しました。
ここがそのお寺で金蔵寺といいます。正円寺の別院だそうです。左手前の小さな建物が大師堂で、奥が本堂。右に地域の集会場みたいな建物があります。カメラを持ってるわたしの背後は墓地。たぶんですが、お坊さんがいつもいるお寺ではなくて地域で法事がある時だけお坊さんが来る感じじゃないでしょうか。
そしてこちらが大師像ですが…げげげっ、第十三番と書いてある。また霊場巡りだ!!! これは水元弘法大師二十一ヶ所とは完全に別のものです。大師像のデザインがぜんぜん違いますから。
新田組廿壹ヶ所ノ内 第拾三番 東京関口安之助# 「東京関口亜土助」と読んでしまっていましたが、コメントで指摘されてよく写真を見直したところ、「安土助」または「安之助」のようです。人名として「安之助」さんのほうが自然なので、そのように修正しました。 像がそんなに古くなさそうだし、
場所は埼玉県内なんですが、東京の関口さんという人が表札(って言わない?)を奉納してるんですね。亜土助さんというお名前が時代を感じさせます。亜がアジアのことなら、たとえば台湾統治が始まった頃に生まれた人かも(あくまで想像ですが)。 #前述の通り、関口さんは「安之助」さんである可能性が高いです。わたしなんで亜土助さんとか読んでしまっていたんだろう><
そしてこの霊場も二十一ヶ所(廿壹ヶ所)のようです。新田組というのがどのへんまでの範囲かわからないけれど、それほど広範囲ではなさそうです。別院のここにあるなら、本院の正円寺にもありそうな気がしますね。
大師像のデザインがどのくらい違うか
弘法大師像というのは、右手に金剛杵を逆手に持って、左手は数珠を握って座っています。このかっこしてるお坊さんの像は「ああ、弘法大師ね!」と思ってだいたい間違いないと思うんです。その基本をふまえつつ、作る人によりデザインが変わります。
水元弘法大師は、座った膝のところに斜めのひだが何個か必ず入ってます。左手の数珠は一重で横に長く広がってるのも特徴ですね。あと、大師像のすぐ下が番号の入った台座で、番号には「第」がつきません。二十一ヶ所もあるので、すべての像が同じ年に作られたとは限らないし、よく見ると表情が一個ずつ違ってたりします。しかし、同じお手本から作るらしくて、基本デザインは守られています。
新田組弘法大師は、まだ十三番しかみつけてないので傾向を論じられるほどじゃないのですが、右手の金剛杵が大きくて目立ちますね。左手の数珠が太くて二重。大師像の下の台座には靴と水瓶が刻まれています(どちらも弘法大師を象徴するアイテム)。番号の台座はその下になります。# その後わかったことですが、番号入りの大きな台座は少しずつデザインが違うようです。
十五番と二十番を発見 2016年11月23日追記
15番:戸ヶ崎村鎌倉・明王院
20番:戸ヶ崎村長沼・正円寺
その後、行ける範囲を歩きまわって、三郷市鷹野の明王院と正円寺にも共通したデザインの大師像があることがわかりました。
番号の入った台座が寄巻・金蔵寺のと違ってますが、その他の点ではデザインが共通しており、同じシリーズの大師像だってことがわかります。
この調子で鷹野付近のお寺をまわれば…と思ったのですが、そう簡単なことではありませんでした。国道298を越えて東側へ行くと、そっちのお寺には同じシリーズの大師像がなさそうです。三郷市は真言宗の寺院が多く、大師堂のあるお寺は沢山あるのですが、どれもデザインが違っており、数字も入っていませんでした。
九番を発見 2019年7月追記
9番:八木郷村一本木・観音堂→現・新和四丁目の稲荷神社
▲三郷市新和4丁目の稲荷神社、新田組の九番。大きい社が稲荷、向かって右の赤い屋根の小さな建物が大師堂です。
▲お堂の中に大師像が二体あるのですが、向かって左側が新田組の大師像です。番号が書かれた木の札もあったんですが、文字が薄れててほとんど読めず。ただ「九」と書かれてるようでした。十九番は別途みつけたので、ここが九番ではないかと思います。右側の大師像は江戸川八十八ヶ所の像みたいです。
▲これは2020年の12月にまたお参りして、台座の文字を確認したものです。右から左へ「九番 字一本木中」と刻まれています。造立年が見られないか台座の脇もがんばって写そうとはしたんですが、堂内が暗いこともあって脇面まではうまく写らないですね。
十二番を発見、2019年7月追記
12番:八木郷村横堀・東福寺(廃寺)→現・横堀御嶽神社
▲横堀御嶽神社、新田組の十二番。ただ、この像(向かって右の)は新田組のじゃなくて、江戸川八十八ヶ所のだと思います。三郷市新和4丁目。
▲横堀御嶽神社の大師堂に貼ってある札。新田組の十二番、江戸川の二十番であることがわかります。
なお、横堀御嶽神社は、もとは如意山宝珠院東福寺というお寺だったそうで、明治6年の神仏分離の際に、住職がいなかったため寺は廃寺、神社だけ残ったそうです。現地の由来書きにありました。
十九番を発見 2019年7月追記
19番:八木郷村樋野口・樋ノ口かさや(個人宅)→樋野口稲荷神社に遷座
こちらは神社なんですが大師堂がありました。あとでわかったことですが、十九番は三郷市東町の「かさや」という屋号の家にあったのをここに移したということです。『三郷市史 第七巻』- 日露戦争前後の村の生活より。
また、十九番については少し先まで読み進めると続きがありますのでお楽しみに!
五番を発見 2020年11月10日追記
5番:八木郷村市助・市助庵(地蔵堂)→現・市助公民館
別の霊場巡りの記事で教えてもらった大師堂を見に行った際に、大場川沿いにやたら大きな木の生えている場所を発見。もしかしたら寺院の跡ではないかと裏道にまわってみたら市助公民館でした。旧村名のついた公民館は無住の寺や念仏堂の跡であることが多いのです。敷地内にお堂があり、五番と刻まれた大師像がありました。入り口が大通り側になかったので、今まで気づかなかったのです。
▲市助公民館の大師堂。あとでわかった事ですが、もとは市助庵と呼ばれる地蔵堂だったようです。市助はこのあたりの旧地名です。
▲市助公民館の大師像。台座に「第五番 明治四十二年三月廿一日」と刻まれています。
これまでみつけた新田組の大師像と、だいぶ雰囲気が違うような気はするのですが、顔つきは似ているかもしれないです。しかしここには木の札がなく、決め手がありません。新田組の札所には番号や奉納した人の名前が書かれた木の札が掲示されているのはこれまでに書きましたが、その札が市助にはないのでこの時点では新田組の札所なのか、別の霊場めぐりなのか判断がつきませんでした。
しかし、さらに別の大師堂を見に行って、造立年に注目すればいいのだと確信することになります。
六番? 新和一丁目・長昌寺
6番:八木郷村八丁堀・長聖寺=長昌寺?
2020年11月10日追記
ここはときどきコメントをくださる一円さんが航空写真とストリートビューでみつけてくれた寺で、境内にいくつかのお堂があります。そのうちのひとつが大師堂なのですが、現地に来てみると、ここの大師像には番号がないのです。しかし、台座に造立年があり、これがなんと明治四十二年三月廿一日。市助の五番と同じ日付です。
▲台座の脇にスマホを差し込んで写した写真。発起人の名前と造立年「明治四十二年三月廿一日」が刻まれている。
像のデザインが市助のものとは違うのですが、造立年が完全に一致。これはどう考えても申し合わせて同じ日に作ったものだと思うんです。番号がないので通番のどれかなのか、それとも番外札所なのか、そこはわからないんですが、長昌寺も霊場巡りの札所であることは間違いないでしょうね。
そこで気になるのが、これまでに発見して、間違いなく新田組廿壹ヶ所の札所だとわかっている像にも造立年が刻まれているんじゃないかっていうことですね。今までは台座の横まで見ていなかったので、いつ作られたものかわかっていなかったのですが、ここまで来たら確認したい。しなきゃならない!
【追記】2022年6月11日
『三郷市史 第七巻』に新田組についての資料がありました。三郷市鷹野(旧・長沼)の白石家という旧家に『高祖弘法大師新田組廿一ヶ所巡拝道引帳』という巡拝案内が残っているんだそうです。それによると、八木郷村八丁堀(現在の新和何丁目だかにあたります)「長聖寺」が六番だとあります。寺の表記が違うんですが長聖寺も長昌寺も読みは「ちょうしょうじ」でしょうから、同じ寺の表記違いじゃないかと思われます。昔の文書にはそういうことが良くあります。三郷市史の資料については詳しくは後ろの方(←ここをクリックすると別窓なり別タグなりで開きます)にも書きました。
新田組廿壹ヶ所の成立は「明治42年3月21日」!
2020年11月10日追記市助公民館や長昌寺の発見により、造立年を調べないと気がすまない病におかされたわたしは、とりあえず家から近めのいくつかを見に行ったのです。まずは樋野口稲荷の十九番。
▲樋野口稲荷神社の大師像の台座。来てみたはいいけどお堂の扉が施錠されていて近づけないのです…駄目もとで扉のガラス越しに頑張ってみたら、おっ、これは、どうにか読めますよ? 明治四十二年三月廿一日って書いてありますよね?!↓明治四十二年のところだけさらに拡大。
樋野口稲荷の大師堂には「新田組廿壹ヶ所ノ内・第十九番」と書かれた木の札が残っていますから、札所である事は間違いないのです。それが市助の五番と造立年が一致したわけだから、市助や長昌寺は新田組の札所だと考えていいのではないでしょうか。
もうひとつ見に行きました。金蔵寺の十三番です。
ここはお堂が施錠されていなかったので、丁寧に開けてスマホをつっこんで写しました。「當字中(当字中) 明治四十二年三月廿一日」って書いてあります。やった! これで新田組廿壹ヶ所は、明治42年に成立したことがわかりました。この年になにもないところに開創したのかもしれないし、古い霊場を再整備した可能性もありますが、とにかく明治42年3月21日に作られたということです。
当村ではなく、当字になっているのは、市助や幸房といった古い村名は明治22年に廃止されて八木郷村や早稲田村になっていたからです。古い村名は大字(おおあざ)や小字(こあざ)になっていたわけです。
もしかしたら興禅寺の大師像も…?
3番:早稲田村岩野木・宝便寺→現・興禅寺
2020年11月10日追記
興禅寺は 江戸川八十八ヶ所 という別の霊場巡りの68番札所なのですが、このお寺にある大師像が旧村名を刻んだ台座に乗っていまして、どっちかっていうと新田組廿壹ヶ所の形式っぽく見えるのですよね…
▲興禅寺の大師像。番号はなく、旧村名(岩野木・早稲田)と刻まれた台座に乗っている。こちらのお堂は普段閉まっていて、この写真を撮った日は偶然入り口が少しだけ開いていたので覗けたのです。この距離だと台座の脇までは写りませんでした。
たぶん、きっと、この像も台座の脇を見たら造立年が刻まれているんじゃないかと思うんですよ。もし明治四十二年三月廿一日と刻まれていたら、像自体は江戸川八十八ヶ所ではなく、新田組廿壹ヶ所のために作られたものと考えてよさそうじゃないですか?(江戸川八十八ヶ所は昭和9年に開かれた霊場めぐりです)
これは、お寺にメール書いて問い合わせたほうがいいかもですね。ひょっとしたらお寺の人はもっと何かすごいことを知ってるかもしれないし…
【追記】20201204
その後さらにわかったことですが、江戸川八十八ヶ所の札所にある大師像は、どうも昭和9年に新たに作ったわけではない(作ったものもあるかもしれない)ようです。流山市内の札所で大師像を見たところ、台座に安政五年とありました。江戸川八十八ヶ所は昔の札所を再編成して作ったという話も聞いているので、別の霊場めぐりのために作られたものが既にあれば、それを流用しているかもしれない。
ということは、興禅寺にある大師像は新田組廿壹ヶ所のために作られて、その後江戸川八十八ヶ所に組み込まれた可能性が高い、ということです。まだお寺に造立年の有無を問い合わせていないので憶測ですが。
聞いたらきっと台座の脇くらい見てくれると思うんですが、いろんなところでいろんなものを見て、少しずつわかってくるのも楽しいなあと思うと、人に聞かずにあちこち回ってしまうのですよね(汗)
【2022年6月追記】早稲田村岩野木の大師像は、やはり新田組二十一ヶ所のもので間違いないです。もとは宝便寺というお寺にあって番号は三番だったとのこと。『三郷市史 第七巻』に情報がありました。宝便寺がいつごろ廃寺になったのかは不明です。
2020年11月10日現在、発見済みは「五、九、十二、十三、十五、十九、二十、番号なし(後に六番と判明)」の 8件と、もしかすると仲間かもしれない興禅寺(後に三番と判明)。それ以外は未発見です。寺だけでなく神社にもありそうです。旧家の庭や、路上(っていうが路辺)にもあるかもしれません。
【番号と台座に刻まれた講名のメモ】 05番 講名確認できず(旧市助村?)/市助公民館 09番 字一本木中(旧一本木村)/新和四丁目稲荷神社 12番 像は現存しない(旧横堀村?)/横堀御嶽神社 13番 当字中(旧寄巻村?)/金蔵寺 15番 鎌倉講中(旧鎌倉村)/明王院 19番 樋ノ口講中(旧樋野口村)/樋野口稲荷神社 20番 長沼中(旧長沼村)/ 番号なし(六番) 字中(旧八丁堀村?)/長昌寺 番号不明(三番) 岩野木幸房講中(旧岩野木村・旧幸房村)/興禅寺
どうも明治22年以前の村のまとまりで1体ずつ大師像を作ってるみたいなので、旧村名のついた公民館の敷地内がすごくあやしい。
青いポイントは2020年秋までに発見済みの場所。紫のポイントは三郷市史第七巻にある白石家文書により判明した場所。朱色のポイントは白石家文書にある場所と近いものの一致するかはっきりしない場所。地図が全体表示されない事があるので、全貌を見たい場合は地図上のマイナスボタンを押すなどして縮尺を調整してください。
新田組廿壹ヶ所の資料がみつかる 2022.06.06.追記
この調査に進展がありました。1990年代に刊行された『三郷市史』は神社仏閣のリストや由来、三郷市の伝説などが収録された巻は読んだのですが、それとはまた別の巻に「日露戦争前後の生活」というのがあって、そこにも宗教関連の記事があったんですね。
そこに、ずばり新田組の一覧が出てました! 嬉しいような嬉しくないような。だって散歩中に見つけるのが楽しいのであって、リストを先に見つけちゃったらなんとなくネタバレ……いや、でも闇雲に探せるほど三郷市は狭くないし、家からも近くないのでいいのかも。市史のリストを見ると今はないお堂の名前で書いてあったりするから、近隣の寺などに移動されてる可能性もあるし、こうなったら見に行って確かめるべきだな。そのためにはリストを地図と突き合わせて下調べしないと。
しかもですね、新田組二十一ヶ所が二つあるらしいんですよね。
・ひとつはわたしがこの記事にまとめているやつで明治42年の開創
・もうひとつは三郷市のもうちょっと北のほうが範囲の新田”上”組二十一ヶ所で開創年は不明
あー、なるほど、新田組よりも北の範囲にあるあれやこれやがもしかすると上組のか……もうね、このあたりの人たち、空海のこと愛しすぎやろ。どんだけ霊場巡りを作りまくれば気が済むのかと(さすがに昭和後期以降には作られてないと思う。いや、わたしに人望と金があったら作りたいですけどね、なくてよかったですね、あっはっは)。とりあえず、新田上組についてはひとまず棚にあげておきます。
ここでは90年代刊行の『三郷市史 第七巻』に掲載されている「新田組」の札所リストをそのまま書きます。『高祖弘法大師新田組廿一ヶ所巡拝道引帳』という巡礼案内書が三郷市鷹野(旧・長沼村)の白石家に残っているそうです(ああ、実物を見たいなあ。デジタルアーカイブしてネットで公開してほしいなあ)。
13. 金蔵院 戸ヶ崎村寄巻
14. 天神前 戸ヶ崎村寄巻
15. 明王院 戸ヶ崎村鎌倉
17. 極楽寺 戸ヶ崎村戸ヶ崎吹上
18. 円正寺 戸ヶ崎村前谷
16. 観音堂 同 前川
20. 正円寺 戸ヶ崎村長沼
06. 長聖寺 八木郷村八丁堀
04. 草庵寺 八木郷村谷中
02. 弥陀堂 早稲田村茂田井
01. 光明院 早稲田村茂田井
03. 宝便寺 早稲田村岩野木
05. 市助庵(地蔵堂) 八木郷村市助
07. 大膳上(観音堂) 八木郷村大膳
08. 大膳下(不動堂) 八木郷村大膳
09. 一本木(観音堂) 八木郷村一本木
12. 東福寺 八木郷村横堀
10. 円福寺 八木郷村長戸呂
19. 樋ノ口かさや 八木郷村樋野口
21. 金剛寺 八木郷村小向
11. 宝道寺(宝蓮寺) 八木郷村高須
緑字はすでに番号付きの大師像を発見しています。そのほかに青字にしてあるのは見つけた大師像に札所番号がないため今まで未確定だったもので、上に写真を貼ったのもあれば、貼ってないのもあります。
・03番 宝便寺 早稲田村岩野木→興禅寺にあるのと台座の文字が一致するので間違いない。
・06番 八木郷村八丁堀 長聖寺→長昌寺にある番号のない像(造立年は一致する)がこれだと思う。寺の名前が違うのは「ちょうしょうじ」という音が同じなので、昔はどちらとも書いたのかもしれない(または単なる誤植)。
・02番 弥陀堂 早稲田村茂田井→江戸川八十八ヶ所の記事に写真を貼ったのがそれだと思う。あとでこっちにも貼る。
・01番 光明院 早稲田村茂田井→同。1番と2番はもう一度でかけて台座の横が見られないか確認すべきだと思う。
・04番 草庵寺→寺は今もあり大師堂があるが、堂内の像は石像ではなく、新しく作ったものだと思う。
・10番 円福寺→お寺は今もあるが、大師像のデザインがだいぶ違っていて今まで確定できなかった。
・11番 宝道寺(宝蓮寺)→お寺は今もあって…同上
・14番 天神前 第二大場川沿いの旧家の門前にある大師堂がたぶんこれ。ただし像は新しく作り直したやつだと思う。番号付きの台座もない。写真あるのであとで貼る。
黒字にしてある札所は、
・17番 極楽寺 戸ヶ崎村吹上→確証はないが、吹上天神の隣にある墓地がそれっぽい。ただし大師堂はない。
・21番 金剛寺 八木郷村小向→小向公民館がもと寺だったのではないかと思うが、大師堂はない。
07上大膳、08下大膳、16前川観音堂、18前川円正寺(20番長沼正円寺とは別なので注意)は今のところこのへんだろうという見当すらついていませんが、気長に調べます。
三郷市内の廃寺になった寺の情報がどこかにあるといいんですけどねえ(三郷市史にも少しありそうなので後日また図書館に行ってきますが)。
それでは、ここから下は白石家に保存されていたという『高祖弘法大師新田組廿一ヶ所巡拝道引帳』にもとづいてわかった残りの札所について書いていきます。
一番、早稲田村茂田井・光明院
現在の町名だと三郷市三郷二丁目になりますが、昔は早稲田村茂田井でした。今はお寺という扱いではないのかgoogle地図には「元光明院」で出ています。地域の集会場があって、墓地と大師堂と六地蔵などが残っています。
▲茂田井・光明院の大師堂と堂内の大師像(画像はクリックかタップで大きくなります)
新田組の札所を探すために、当然こちらも参拝して存在は知っていたのですが、これまで見てきた新田組の大師像とはだいぶデザインが違うため、ここが札所とは断定できずにいました。実際、大師像自体は新田組のものかどうかはわかりません。それというのも光明院は江戸川八十八ヶ所の85番でもあるし、さらに別の霊場巡りもあったかもしれないので、そこはなんとも言えないです。
ところで、元光明院には廿一ヶ所巡りの標石と思われる石碑もあります。
▲元光明寺、廿一ヶ所めぐりの標石。向かって左のものに「廿一」「一番」などの文字が見える。
札所番号も刻まれているのですが、この標石は途中が割れてしまっているので、一番なのか、十一番なのか、あるいは二十一番なのかわからず、新田組のものなのか、そうでない別のものなのかは判断がつきません。向かって右脇に真言講中と読めそうな文字がありますが、造立年らしいものはなかったと思います。
第二番・早稲田村茂田井弥陀堂
▲茂田井弥陀堂(阿弥陀堂)。右奥に見える小さなお堂が大師堂です。こちらは今の地名でも三郷市茂田井になります。google地図でも茂田井阿弥陀堂で検索できます。
▲堂内の大師像と堂の軒下に掲げられている御詠歌の扁額(写真はクリックかタップで少し大きくなります)。
大師像のデザインから、横堀御嶽神社(旧・東福寺)の9番と何か関係がありそうな気はしていたのですが、御詠歌の扁額には「新四国江戸川二番」とあって、新田組とのかかわりが今までよくわかりませんでした。霊場巡りの名前は厳格に決まっているわけではなくて、全部「新四国(四国の霊場を新たに作りましたという意味)」だし、そこに地名と何ヶ所かがついて呼び名になっているだけです。だから新田組が江戸川二十一ヶ所と呼ばれていたとしてもあまり不思議ではないんですが、扁額がそんなに古くなさそうに見えるので、江戸川八十八ヶ所と混同して作られたものかもしれないです。
こちらの大師像は 9番の横堀御嶽神社にある 2体のうち、右側の 1体と似てると思うんです。ただ、9番の例でいうと新田組開創時に作ったのは左側の像だと思われます(台座に刻まれている村名が白石家文書の札所一覧に一致するため)。となると、像自体は新田組のではないかもしれません。
四番、八木郷村谷中・草庵寺
▲八木郷村谷中・草庵寺(墓地の入り口に見えるお堂が大師堂)と堂内の大師像
草庵寺は、今の町名だと三郷市中央にあたるんですが、道を挟んですぐ隣が今の町名でも三郷市谷中になります。江戸川八十八ヶ所の39番もここだそうです。ただ、大師堂にはこれといって何の案内もないため、あらかじめ知っていないと札所だとは気付きません(江戸川も新田組も、すでに活動していないので案内がなくても不思議ないですが)。堂内の大師像も石像ではなく、新しく作ったもののようですね。
十番、八木郷村長戸呂・円福寺
円福寺は新葛飾橋のすぐ近くにあるお寺で、現在の町名だと三郷市鷹野一丁目にあります。こちらも大師堂があるのは前から知っていたのですが、大師像のデザインがほかの札所のものと違うため、関係ないだろうと思っていました。
新田組の開創時に作られた像だと、旧村名などが刻まれた台座があり、その脇面に明治四十二年の日付が入っている事が多いです。こちらはその台座もありません。
十一番、八木郷村高須・宝道寺(宝蓮寺)
『三郷市史 第七巻』によれば、白石家文書には「宝道寺」と書いてあるらしいんですが、高須の寺ならば宝蓮寺だろう、ということのようです。現在の町名だと三郷市高洲にあたります。
▲八木郷村高須(高洲)・宝蓮寺の大師堂と、堂内の大師像二体。
こちらの大師像も以前から存在には気付いていたんですが、村名や札所番号の刻まれた台座もないため、新田組とのかかわりが確定できずにいました。像は二体あって、新田組とかかわりがあるなら向かって左の像なんでしょうが、ほかの札所にあるのと違ってずいぶんスマートです。しかし白石家文書によればここが十一番です。
宝蓮寺の大師像といえば、たしか夢のお告げで掘り当てた話が『三郷市史』に載っていたような気がします。そんな伝説は全国のあちこちにあるわけですが、大昔の話ではなくて、明治だか大正だか、近代の話だったように記憶してますが、うろおぼえで違ってたらごめんなさい。その話と堂内の像に関係があるかどうかはちょっとわかりません。あとでまた三郷市史を読んできます。
十四番、戸ヶ崎村寄巻・天神前(未確認)
まだ確証はないんですが、たぶん14番はここだろうという大師堂を上げておきます。違ってたらごめんなさい。
今でも三郷市寄巻(よまき)という地名はあるんですが、戸ヶ崎村だった頃の寄巻は北に向かってもう少し範囲が広かったかもしれないです。その寄巻に天神様があるかっていうと、今はないんじゃないかなあ。水神様ならあるんですが、水神前には13番の金蔵院があるので、違うような気がします。また、隣の吹上になら天神社があるんですが、そこは昔から吹上なのでこれも違うと思います。
そんなわけで、今は天神様はなさそうなんですが、第二大場川沿いある旧家の門前に大師堂と、何の神様なのかわからないお堂があって、前から気になっていました。旧家の方にごめんくださいと挨拶して聞いちゃったらいいのかもしれないんですが、なんの御縁もないお宅なので、ちょっとご挨拶しにくいですね。そんな事聞いてどうするんだみたいに言われると、知りたいだけですとしか答えられないですし(大学で研究していますとかだと話は別なんですけどw)。
▲第二大場川沿いにある旧家門前の大師堂(左手前のお堂)と堂内の大師像。もしかしたら新田組14番札所かもしれない。
こちらもお散歩中に見つけて、立派なお堂だなあといつも感心して、参拝させてもらっていました。新田組との関係も気にはなっていたのですが、像が新しくて、台座もないため、後年作り直したものかもしれません。
お堂の前に「金峯神社」と刻まれた石碑があります。欠けたり、苔むしたりして、あまり読めなくなっているんですが、「○○八十八ヶ所」「三偏 西国三十三番」「○偏 坂東三十三ヶ所」「五偏 秩父三十四ヶ所」などと書いてあるのが見えるので、全国の霊場巡りを何回まわりました、という記念碑のようです。
【追記】この旧家の方とお話したことがある、という方から情報をいただきました。お堂はこの家の人が作ったもの(札所の一部ではない)というニュアンスの話を昔したことがある、とのことです。ただ、結局詳細はわからないみたいです。またこちらの大師像は左右逆に作ってある特殊なものなので、○○講のようなグループで作ったものではないだろうということでした。
さて、ここから下は白石家文書のリストにはあるものの、大師堂がみつからない札所のリストです。一部は「○○集会場のことだろう」くらいのあたりはついています。
七番、八木郷村大膳・大膳上(観音堂)
不明。現在の町名だと三郷市新和の何丁目だかにあたるのかなあと思います。
八番、八木郷村大膳・大膳下(不動堂)
不明。同上。
十六番、戸ヶ崎村前川・観音堂
正確な場所は不明。現在の町名だと三郷市栄の一部か戸ヶ崎の一部かなあと思います。前川というバス停が今でもあります。
十七番、戸ヶ崎村戸ケ崎吹上・極楽寺→吹上天神横の墓地
吹上天神社のとなりに墓地があり、現在は西福寺が管理しているようですが、吹上で寺の跡と言えそうな場所がここにしかないので、ここが旧・極楽寺なんだろうと思っています。墓地内に昭和の時代にたてられた修業大師の像はあるのですが、これは新田組とは別のものだと思われます。【追記】墓地に昭和10年に作られた修業大師像があり、その台座に「松林山極楽寺」という文字があり、「明治39年に勅令があり40年に西福寺と合併」と読める漢文が刻まれているので、やはり吹上天神横の墓地が旧・極楽寺です。また、昭和10年に何かあったらしく(祝融のどうのこうのとあるので、たぶん火災)堂宇が建て直されたとも書いてあるので、新田組の大師堂などもその頃に処分されてる可能性があります。
十八番、戸ヶ崎村前谷・円正寺
不明。前谷は、三郷市戸ヶ崎の一部です。現在でも前谷小学校や前谷稲荷神社があります。信用金庫の支店名にも前谷がついていたりします。【追記】円正寺という名前のお寺は現在この地にはありません。明治初期まで「塩正寺(鹽正寺)」があり、小菅県時代に廃寺になっているそうです。場所まではわかりません。
二十一番、八木郷村小向・金剛寺→小向集会所?
小向は今の町名だと高洲四丁目あたりの事で、土手の近くに小向公民館があったり、小向という交差点があったりします。公民館はあきらかに昔寺だったと思うんですよね。敷地内に石仏があるし、三輪神社と同じ敷地にあります(明治になって分けられるまで寺と神社は同じ敷地内にあった)。ただ、ここに大師堂はなかったです。神社に小堂があるんですが、扉の隙間から拝見すると、お祀りされているのは仏様ではなく神様のようでした。 ▲小向(三郷市高洲四丁目)・三輪神社と、右手奥の建物が小向集会所
また隣接したところに大雄寺という日蓮宗のお寺があるんですけど、境内にあった由来書きによれば室町時代の創建とのことですから、元・金剛寺だった、などということもなさそうです。本堂のまわりと墓地を拝見したところ大師堂はありませんでした。そもそも日蓮宗のお寺には弘法大師の札所はまずないです(ほかの宗派だとたまに札所になってる事があります)。
【追記】三郷市史第七巻p.39 によれば、明治初期、小菅県だった頃、住職のいない寺などを廃止するよう命令があったとかで、いくつもの寺が廃止され、墓地等が別の寺の管理になったということです。小向村については金剛寺が廃止になり、大雄寺が立った(残されたの意味か?)とあります。廃止になった寺は地元の集会所や公民館として残される事が多いので、やはり小向集会所が金剛寺だった可能性が高いです。新田組が開創された明治末期には金剛寺はもうなかった可能性が高いですが、昔からの習いで跡地の集会所を金剛寺と呼び続けていたのかなと思います。
カテゴリー:
ピンバック: 札所(霊場巡り)関連の記事一覧 | 超・珍獣様のいろいろ
ピンバック: 江戸川八十八ヶ所のうち三郷市内の札所めぐり | 超・珍獣様のいろいろ
こんにちは。ご無沙汰しています。
ここ数日ららむ~さんの札所めぐりの記事を再読しています。今更なのもありますが、いくつか気が付いたことを。
この記事のトップにある拾三番の札(こういうものも棟札と呼ぶのだろうか?)の奉納者ですが、関口安之助のような気がします。縦棒が目立つ字に之を当てるのは無理な気もしますが、右上から左下に斜めの線があるようにも見えます。元々は斜線だったのに、あとから縦線に書き直したのかもしれません。本当のところはこの写真では判らないというところです。
掘り文字に胡粉を詰めてあるのなら、掘りを確認すれば間違いがないでしょう。
さて、ららむ~さんが『江戸川八十八ヶ所のうち三郷市内の札所めぐり』で見つけた旧版地形図のサイトですが、これよりも更に古い時代の地形図を見られるサイトがあります。そちらにも新旧対照の機能があるので、同様の使い方が出来ます。
http://habs.dc.affrc.go.jp/
ただしこの図はなんで明治時代の墨一色地図よりもボケボケで雑で見にくいのか。 と言うのも、これは明治8,9年ごろから15年ごろまでかけて作成された、近代的測量機器による日本で初めての地形図の原図そのものだからです。製版、印刷される以前のもののため、文字や家屋などすべて手書きです。記号もほとんど無く、また作図はフランス式で行われたため、土地利用などが色分けによって示されています。
また明治10年に西南戦争が起きてからは、非常事態に備えるための軍事用として、街道筋の主な目印(道標や大木など)が郭外に図示されたり、河川の横断面図が配されたりしています。歴史的農業環境閲覧システムの題字の右側にある川と橋の絵はその一例です。
この図の中で気が付くのは公共性のある建物は赤線で描いてある点です(これも軍事目的を兼ねていると思われる)。寺社や学校、役場などです。またある程度の広さの境内の寺社の場合、周囲を区切る記号(塀?)が付けられていることもあります。このことに注意して見て行くと、どれがどの寺や神社なのかある程度見当が付くようになります。
具体的な例は「江戸川八十八ヶ所のうち三郷市内の札所めぐり」の末尾に記された鷹野(樋野口)・円福寺で挙げることが出来ます。ただしこれに付いてはそちらに記すことにします。
尚この原図は、その後陸軍がドイツ式地形図を採用することになったため、全く人の目に触れることなく百年余りの眠りにつくことになります。
ええと、コメントを沢山(あちこちに)もらったので、話題にすべき事柄がなんなのか、ちょっと混乱してます。
>安之助さん
もとの写真を拡大して見たら、そもそも名前の一文字目は亜じゃなくて安ですね。
二文字目は悩むところですが、一文字目が安だから、おっしゃる通り安之助さんのような気がします。
なんでわたし亜土助さんとか読んでたんだろう?
本文も直しときます。
>地図
これまた使えそうな資料を見つけてくださってありがとうございます。
なるほど、寺や神社らしきものも公共の施設として赤い□で書かれてるみたいですね。
地元のほとんど使われていないような公民館になってしまってる旧念仏堂なんかがこれでみつかるかもしれないですね…根気がいりそうだけど。
ところで、別の記事で、一円さんがここにも大師堂があると教えてくれた長昌寺ですが、行ってきたんですよ。確かに大師堂がありました。そして、どうやら新田組の札所なんじゃないかという気がしてきました。ちょっと落ちついて(慌てると何かを見間違えるので)写真を眺めてから追加したいと思います。
一円さんがみつけてくれた長昌寺、すごい発見でしたよ。市助で新たにみつけた第五番と同じ日付が刻まれてました。新たにわかったことなど追記しました。
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20161024p5865#20201110
ははあ、なるほど。先ほどお顔が全然違うと書きましたが、「字中」の表記から、それぞれの字で個別に造った結果らしいと判りました。中には同じ石工に頼んだものもあるだろうから、それらはほぼ同じ体裁になるでしょう。ある程度は像に付いて話し合ったとしても、細かいところはお任せだったかもしれません。
確実に共通しているのは造像の年月ということで、これは今後調べて行く際の重要な判断基準になりますね。
ですです。二十一ヶ所くらいだと共通のデザインで作ってるだろうとわたしも思ってたんです。水元の水郷大師とか、黒大師(瓦大師)とかは、あきらかにデザインをあわせてますから。でも、市助と長昌寺の発見で、像のデザインには幅がありそうだとわかりました!
ピンバック: 八十八石の都内版 #神社仏閣 #四箇領八十八 | 超・珍獣様のいろいろ
ピンバック: 江戸川八十八ヶ所 常磐線の南側6ヶ所 | 超・珍獣様のいろいろ
ピンバック: 江戸川八十八ヶ所 柏市内24番と26番 | 超・珍獣様のいろいろ