改めてプルタブの話をしてみようじゃないか

IMG_8353s  なぜかプルタブの話がタイムラインに流れてくるので、改めてプルタブの話をしてみる。

 むかし、缶ジュースは蓋をあけるとプルタブがはずれる(独立してしまう)のが普通だった。そのため、ジュースを飲んでる間にプルタブをそこらに落としてしまう人がけっこういて、自販機の回りにはプルタブが踏み固められてぺちゃんこになっていたものだ。

 しかし、プルタブも原料が鉄だったりアルミだったりするわけで、回収すれば資源として再利用できる。得にアルミは鉄より高く売れるので「集めて送ってください。回収業者に売ったお金で車椅子を買って寄付します」という運動が実際にあった。

 その代表として文化放送の「さだまさしのセイヤング」というラジオ番組があげられる。さださんが長いことそういう運動をやってた。邪魔なプルタブだけど、そこらに放り投げずに、集めて送ってくれ、資源として再利用するから、というわけ。ほっとくと迷惑なゴミになるものを資源として見直そう、という試みだった。「今の換算レートだと何万個集めると車椅子1台分になる」という説明もしていた。なお、この番組では「プルトップ」という言い方をしていたと思う。

 さださんがやっていた運動は筋がとおっており、目的はあくまで「ポイ捨てされてしまうプルタブを資源として見直すこと」だったはず。「プルタブなんか集めなくても、当社で車椅子を寄付しましょう」という車椅子製造業者からの申し出もあったそうだが「そのお気持ちがあるのでしたら、番組に寄付するのではなく、しかるべき施設に寄付してあげてください」と丁重にお断りしたということである。

 ところが「プルタブを集めると車椅子になる」という情報だけが独り歩きして、ベルマーク運動のようなものだと思い込む人たちが現れた。特に子供たちがそう思ったらしく、あちこちの小学校で生徒がプルタブを集め始めたらしい。

 その件が文化放送の系列新聞社(サンケイだっけ?)が記事にしたことがあって、その記事では「プルタブを車椅子と交換している飲料メーカーはない。完全にデマ」と断じたらしい。それを読んださだまさしが番組内で「系列新聞社なのにひどい」と冗談交じりに苦言を呈していたのを覚えている。

 それからしばらくして、ジュースの缶が改良され、蓋をあけてもプルタブが独立しなくなった。さださんの運動もいつのまにか終わったに違いないが、それがいつかはわたしは知らない。

 それでも「プルタブで車椅子」という勘違いだけは長く流布しつづけたらしく、あちこちの小学校で子供たちがプルタブをわざわざ切り放して集めるというようなこともあったらしい。

 まだパソコン通信時代のことだが「うちの学校の生徒がプルタブを集めてる。どこかに送ると車椅子に換えてくれると言ってるが、それは本当か」と、学校の先生が掲示板に書いているのを見たことがある。先生は完全にデマだと決めつけており、最初からプンプン丸状態で掲示板に書き込んでいたので「さだまさしがラジオ番組でそういうことをしていたが、景品としてもらえるのではなく、あつめたプルタブをアルミ回収業者に売ってお金にして買ってたはずだ」と教えた。

 その先生は、あちこちに問い合わせたらしく、最終的にはわたしが教えたのと同じような結果を得て報告のメールをくれた。ただ、どうやら「うちの生徒たちがデマに踊らされていた。純真な子供心をふみにじる酷いデマだ」というのが頭にあるらしく、報告メールもやや怒りぎみだったのには、少し困った。ええと、わたしは悪くないですよ?

 その後もたまに「プルタブを集めると車椅子になるらしい」とか「プルタブで車椅子はデマ」とかいう話が定期的に湧き上がるので、都市伝説化してしまったんだなと思っている。

 ところでプルタブ車椅子の都市伝説であるが、実は日本だけの話ではないらしい。アメリカの都市伝説に、プルタブを集めると人工透析機を無料で使える、というのがあるそうで『メキシコから来たペット』という本に収録されている。以下の記事の最後のほうに、わたしの読書記録があるのでよろしければどうぞ。

◎暑さのせいでこんなに本を読みました
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1419

 ここから先は本当にただの余談で、プルタブ車椅子の話とはまったく別であるが、昨日ともだちと映画を見に行ってプルタブの話をした。

 昔のプルタブは独立したので、ジュースを飲んでる間「指にはめてる派」と「缶の中に入れちゃってから飲む派」がいた。わたしは入れちゃう派だったが「そんなものジュースに入れたら不潔だ」とよく人に言われた。しかし、缶自体がほこりにまみれているはずだから、口をつける部分だって汚れているはずである。それを思えばプルタブを中に入れたところでどう不潔だというのかイマイチよくわからない。

 ともだちは指にはめる派だったそうだが「今のプルタブは開けると内側に入るので、入れてから飲むのと同じことになってる。昔不潔だとか言ってた連中は、その件に関して文句はいわないのかね」というのだ。言われてみればその通り。清潔派のみなさんは今どうしてるんだろう。缶ジュースなんか飲まないのか、それとも気にしないことにしたのか。

 思えば缶ジュースというのは、なんの保護もされていない缶自体に口をつけて飲むわけだから、缶じたいに毒でも塗っておけば簡単に人を害せるかもしれないわけで、なぜ今までそういう事件がなかったのか不思議である。毒入りコーラ事件などは、たいてい瓶を巧妙にあけて、毒を入れてから蓋をしなおす手口だったと思う。そう考えると、不潔かどうかより、安全面で不安があるな、とは思う。

 そもそも缶ジュースが減りつつある昨今なので「缶ジュースなんか一度も飲んだことないよ。ぼく蓋のあけかたも知らない」という世代が出てきそうな気はするが。

[追記]
 ここまで書いて公開したあと、昼間ちょっと出かけて、もどってきてから改めて昨今のプルタブ事情を検索し、それが想像を絶する世界だったので開いた口がふさがらないのである。

 どうやら今どきの人たちは、プルタブを集めることで車椅子が貰えるとかいう都市伝説を信じているわけではなくて、本当にただ根性だの思いやりだのを養うために修業としてプルタブを缶から切り放しているらしい。

 これが宗教だったらわたしは決して馬鹿にしない。宗教の修業ならばこの世の価値観ではとうてい見返りなどありそうもないことを、神に自分を見いだしてもらうためだとか、来世での幸福のためにするのだとか、自分と向き合うためにするのだとか、理由をつけてするものだし、他人に迷惑をかけないようなことなら好きなだけすればいい。

 しかしね、それはあくまで自分と神とのかかわりのなかで選択するものだから、学校や職場で無意味な行為を強要するのはおかしい。特に学校はいい加減にしろと言いたい。奴隷を生産してるわけじゃないんだから!

 どうしても子供や従業員の根性を鍛えたいと思うのならば、もっと意味のあることをすれば(させれば)いいと思うのだ。わざわざプルタブを切り放すなどという無駄なことをせずアルミ缶そのものを集めたほうがどう考えても合理的だし、道に落ちているペットボトルを拾い集めて回収業者に売ってもいいのではないか。無駄感の強いベルマーク集めだって、わざわざプルタブだけ切り放して回収する愚行よりも何十倍もマシだと思うのだけど。

 地味な努力が必要で、なおかつ結果の出ることなんて、世の中にいくらでもあるのに、一体なぜ、わざわざ無意味なことをする? 無意味なことをわざわざしなければ得られない達成感など、ほんとうに得る必要はある?

 もしかして都市伝説に振り回されていた頃のほうがよほどマシだったのではないだろうか。

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珍獣ららむ〜 の紹介

特技はおりがみとお蚕の飼育と世の中の役にたたないこと全般です。養蚕が普通の仕事だったらニートでヒキコモリの体質から脱出できそうな悪寒がします。DQ10はほぼ引退しました…だってストーリーが完全にソロゲーなんだもの。/ちなみにわたしが珍獣を名乗っているのは1999年からで、イモトよりも古いです。ワンピースは知らん。イモトですねって聞かれるとあっちがマネだと答えたくなる。 twitter などでは chinjuh です。

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