中根駅は完全無人駅ですが、地元のみなさんが駅のまわりを手入れしてくれているので天気のいい日なら素敵な休憩ポイントになりそうでした。
目指す古墳はこの無人駅から徒歩で30分くらいのところ。また歩きか… 前日から茨城県北芸術祭の「何処からの手紙」をまわっていて、ずーっと歩きっぱなしです。でも、この日は天気もよくて、空の広い田舎道を歩くのは楽しかったです。
▲途中で見た軍馬観世音。昭和十三年と刻まれていたので日中戦争で徴発された馬の供養碑でしょうか。
▲ここが虎塚古墳らしいです。9時ごろの到着でしたが、もう小学生の団体さんや、遠くからの観光客が何組かいました。
▲ここが石室への入り口。いつもは非公開だけど春と秋の期間限定で一般公開されています。中は撮影禁止。見学料は150円だったかな。
中に入ると、石室の入り口はガラスで塞がれていて、温度と湿度がしっかり管理されているようです。見学者が入れる場所もとても狭く、大人なら4人も入ったらいっぱいじゃないかっていう感じ。天井が低く、しゃがんで見学です。時間制限があり、ガイドの人が立て板に水といった口上で古墳の説明をします。アラームがピピピっと鳴ると終わり。
実物を見た感想は「壁画が色鮮やかなまま残っている。保存状態が良さそう」「すごく狭く見える。手足を伸ばして横たわるのは無理なのでは?」という感じ。深い感慨とかは持ってる暇もなく終了。
古墳のとなりに資料館(埋蔵文化財調査センター)があり、そこへいくと石室の実物大模型や出土品が見られます。
▲虎塚古墳の実物大模型。ちょうど資料館の人が子供たちに説明していたので一緒についてまわっていろいろ聞いたのですが、この石室は佐倉(千葉県)の国立歴史民俗博物館で特別展示用に作ったものだそうです。その展示はしばらく地方を回っていたそうですが、最終的に福岡だかどこだかへ行ったところで終わり、廃棄処分が決まったところで貰いに行ったということでした。本物は撮影禁止だけど、この模型は自由に写していいってことです。
実物大レプリカですが、やけに大きく感じられました。人がじゅうぶんに手足をのばして横たわれるサイズ。館の人がおっしゃるには、ほんものには様々な機材が入れてあるので狭く感じるんじゃないかってことです。
壁画の説明も受けたんですが、ここでまた「ホントにそうなのか?」病が出るわたしなのでした。
▲正面の壁。説明では棒は弓か矢で、カップみたいなものが靭(ゆぎ、矢を入れる道具)で、右側の糸ノコみたいな変なのが弓じゃないかって説明でした。でも…
▲右の壁にあるワイングラスみたいなやつも靭だろうって説明されてて「は?」っていう感じ。靭だったらなんで真ん中狭くなってるのかって思うし、となりの弓っぽいやつが正面の絵と作風が違いすぎるでしょ?
左の壁の九つの赤い丸は銅鏡のつもりじゃないかって言うんだけど、じゃあその下の三日月みたいなのはなんなのって思う。ひょっとしてこの赤丸も全部太陽なんじゃなかろうか。中国に太陽が10個いっぺんに出たという伝説があって、そのせいで地上が焼け焦げてしまったので、ゲイという弓の名手が9個射落として地球を救ったことになってるのよね。
弓の絵が書かれているなら、葬られた人は弓の名手だった可能性があるし、ひょっとするとゲイの伝説を壁に描いたんじゃないの、とか妄想してしまうわけ。妄想ですけど!
左右の壁の下のほうに、よくわかんない絵がちょこちょこっと書かれていたりもするし、結局は「よくわからない」が正解なんだろうな、と思います(笑)
なお、この資料館は小さいけどすごく面白かったです。展示されてるものがほとんど地元で出土したもので、一部レプリカだけど、ほとんど全部本物だって言ってました。
こういうのもあった。赤ん坊に乳を与えている土偶。(古墳のレプリカは写していいと書いてあったけど、この埴輪も写していいかどうかちょっとわからないけど写した。ダメとは書いてなかった)
子供抱いてるのは珍しいな!って言ってる人はいたけど、個人的に注目したいのは、やっぱり髪形だよなと思う。
頭の上にくっついてるのは櫛だと言われているんだけど、この位置だと後ろの髷にとどいてなさそうなので、櫛だとしてもただの飾りだね(髷の元結いを締める役割は果たしてなさそうってこと)。髷がやっぱり板状なのよ。しかし、後頭部にくっついているので、これがもし反物かなにかを頭にしばりつけてるんだとすると位置がおかしい(この位置に固定できない)ので、やっぱり髷なのかな、とも思う。しかし髷ならこんな板状にはならん(笑)
◎女性埴輪の頭についてる板みたいなのは何なの?!
http://matome.naver.jp/odai/2147355034894632501?&page=1
新説にたどり着けば面白いけど、「やっぱり髪形だね」でもいいの。別に学説を否定するためにやってるんじゃない。いきなり「それはなんとかである」っていう情報だけが降り注いでしまうので「なんで?」「どうして?」と思う隙間がないのがつまらないの。その説に至るまでの道のりを自分も味わいたいわけ。