千葉県に奈良の大仏があるなんていうと、東京ディズニーランド(千葉県)や、東京国際空港(千葉県)や、東京ドイツ村(千葉県)のようなやつじゃないのって思いがちですが、さにあらず。
千葉県には本当に奈良があるのです。
どうです、千葉県市原市「奈良」ですよね。
ここは明治22年まで奈良村と呼ばれていました。
奈良村にある大仏だから、千葉県の奈良の大仏です。
▲奈良の大仏入り口。立て札には「市原市指定文化財 奈良の大仏 奈良町会」と書いてあります。立て札に向かって右側が参道です。
このあたりはちょっとした山の中で、民家はそれなりにありますが、基本は森と農地ばっかり。市街地からはだいぶ離れていて、山道を車でくねくね走り回ってやっとたどり着く場所です。バス停をみかけなかったので、ひょっとすると路線バスもないかもしれないです。
▲ここは一応「奈良児童遊園」ってことになっていて、ベンチがおいてあったり、ちょっぴりだけ遊具があったりもします。
まわりにお寺はありません。ただ石の大仏さんだけが立ってます。仏像そのものは人と同じか少し大きいくらいの立像で、台座を含めると4メートルくらいの高さがあるでしょうか。東日本大震災のときに台座から落ちたと聞いていたのですが、きれいに修復されてるようです。
正面には「法界萬霊」と大きく刻まれ、その上の段には以下のように刻まれています。
承平元辛卯 #931年 春建立 再三之造立 八百七十四年目 文化元甲子歳 #1804年 釈迦如来 十月十六日 玄題三十部 上総國市原郡 □良村 #奈良村か?
「何度も建て直されてはいるが、最初の建立は承平元年で、文化元年で874年目になる」という意味です。文化元年からさらに200年以上たってますから、奈良の大仏さんは1000年以上前から何度も作り直されてここに建ってるということです。本当だったらものすごいことですね。
また台座の裏側にはこんな文字も刻まれていました。
廣野山 木?泉寺 四十二世 時代隋□ 當村方 男女一□ 東都 筋違御門外 井筒屋 石工 藤兵衛
文化元年の造立で中心的な働きをした人たちの情報かなと思います。広野山木泉寺はひょっとすると今はもうないかもしれません。江戸・筋違御門外の井筒屋さんが気になるので検索してみたら、埼玉県内にも「筋違御門外井筒屋」と刻まれた念仏供養塔があるそうなので、仏道にたいそう熱心で、なおかつ大金持ちだったに違いありません。
台座には他にも沢山の人名や講の名前が刻まれています。それだけ大勢の信仰を集めていたということでしょう。
▲文化財の説明。「市指定文化財 奈良の大仏 当地は平将門伝説と風光の美しさで知られ、等身大の石像釈迦如来立像が鎮座し、以前より奈良の大仏の名で親しまれている」このあとは回りの樹木の説明を延々してるだけで、ぜんぜん文化財の説明になっていない謎の看板(笑)
Wikipediaによると、承元元年の建立は平将門によるものだという伝説があるそうです。「朝廷に対して反乱を起こした平将門が、新皇を名乗りこの地の北方に京を模した自らの都を構えた際、京の南の奈良の東大寺の大仏を模して建立したもので、銅製だったとされる」しかし史実としての裏付けはないのだとか。
【おまけ:石杭】
先日ひょんなことから石杭マニアがいることに気づいたのでこれも書いておきます。
大仏の入り口に、立て札のほかに石杭もありました。四方に文字が刻まれています。現地では日差しが強くて影になってる部分が読めなかったので、写真をとって家で分析しました(笑)
1. 正面當区ヲ経テ上野□坂山? 2. 昭和十(あとは写真からは読めない) 3. 東国中野瀬又誉田駅 4. →大正校、大椎、土氣及ビ本納□
中野・瀬又・誉田、大椎・土氣・本能は市原市の地名なので、道標みたいですね。「大正校」っていうのがなんなのか良くわかりません。上野もどこの上野なのかさっぱりです。
というわけで、千葉なのに奈良の大仏でした。撮影は2017年1月1日です。おともだちと千葉県内の別の寺院に初詣に行ったついでに寄りました。
「別の寺院」はもう思い出したくないような場所だったんですが、市原の奈良は空気がさわやかで心が洗われるようでした。来て良かった。また行きたい!
本当に山の中で何もありませんから、訪れる場合はコンビニのあるところでトイレは済ませておいたほうがいいと思います。
追加画像
下のはこれでも読めないと思うので、パソコンの人は下のURLをコピーして見に行ってください。直接リンクにすると縮小画像が出てしまうので。
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/wp-content/uploads/2017/01/IMG_9955c.jpeg
最初の建立年が本文中でなぜか「承元」になっておりますので
お直しをいただければ幸甚にございまする
え、前のコメント、まさか当の井筒屋さん? 筋違見付は神田の昌平橋の下手ということですが、店は失礼ながら現存しているんでしょうか。
それはさて置き、道標3の北側方面、近くに東国吉という字があります。これの略称か、或いは欠字か。現在の県道を辿ってゆくと、途中瀬又の手前で川沿いから離れて丘を登り、更に駅に向かって下ります。川沿いにも瀬又の集落方向に多少広い道があります。先の県道の分岐から1.5㎞ほど行くと左に曲がる道があり、谷を登って行くとまた県道に合流します。どうやら元の道はこちらだったようです。
大正校というのは多分大正時代に創立された学校ということでしょう。それほど遠くないところに明治時代からの学校が存在するのではないでしょうか。
この続き及び1はもう夕食の時間を大幅に過ぎているのでここまで。
と言いつつ続き。
調べたら北側にある市東第一小学校は明治の創立で、道標にも示されている東側の市東第二小学校は大正2年開校のようです(計算合ってるか?)。
https://www.city.ichihara.chiba.jp/shisetsu/syou_cyuu_gakkou/el/el_shito1/index.html
http://www.city.ichihara.chiba.jp/shisetsu/syou_cyuu_gakkou/el/el_shito2/
残る正面の「上野□坂山?」は上野は南東方向に存在しています。その先には国府里とか国府関という字があって、この辺が上総と安房の境らしいと判ります。しかし碑にあるような文字を含む字名は見当たりません。もっと茂原寄りの地名かもしれません。
茂原に近くなると「井」の記号があちこちにあります。現地の人はガス代が安いんでしょうか?
ところで房総方面に良く行くようですが、こんなのは見ていますか?
https://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/special/takimuse/mainfall/kawamawasi1.htm
すみません。井筒屋ではございません
書き込みにあたって何か名を拝借したかったものの、
将門さまを名乗るのは恐ろしかったので
井筒屋さまの名をお借りしただけで…
井筒屋様、納得しました。
先の年号の誤りは指摘を読んで、ようやく承平の乱を思い起こしました。
というわけで(どういうわけで?)自分のサイトに戻ってきましたよ。
井筒屋(偽名w)さん、ご指摘ありがとうございます。直しました。
一円さん、「東国吉」ですが、改めて見直したところ
「東国”吉”中野瀬又誉田駅」でした。
自分で書いておいて、なんで東国なのかと首をひねっていたのですが、
東国吉でこのあたりの地名だったんですね。
激しく納得です。
画像を本文の終わりに付け加えておきます。
学校の件もありがとうございます。
昭和十何年だかの日付なので、
大正時代にできたばっかりの小学校が
「大正校」と言われてる可能性はありますね。
上野の件も、画像を用意して貼っときます。
拡大写真を見ても「上野□坂山?」は判りませんね。「鼠」に見えなくもないですが、石が剥落しているんでしょうか。
あとで地理院のサイトで確認してきます。とにかく「上野、□坂、山?」らしいことは解りました。これならそれらしいのを見つけられるかも。