「江戸川八十八ヶ所霊場巡り」の三郷市内のものを回ってみました。回った上で、ネット情報の間違いなんかも正してみたり? 基本ただのお散歩記事ですが。
【今回まわったところ】
20番 横堀・御嶽神社
06番 大膳・稲荷神社(新和四丁目)
39番 谷中・草庵寺?
68番 幸房・興禅寺 #20201109追記あり
85番 茂田井・阿弥陀堂と元光明院
86番 丹後・光福院
おまけ(札所じゃない) 鷹野(樋野口)・円福寺
# 正確な場所は、最後のほうに地図を掲載しました。
何年か前に埼玉県三郷市(葛飾区のお隣です)で新田組二十一ヶ所めぐりの弘法大師像を発見しました。この札所(霊場)めぐりは現在もう機能しておらず、順路もわからなくなっています。可能なら二十一ヶ所発見したいなとずっと思っているんです。
◎またまたみつけた霊場巡り(新田組二十一ヶ所)
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20161024p5865
新田組の札所はすでに六ヶ所みつけており、そのうちの二ヶ所が「江戸川八十八ヶ所」めぐりの札所でもあり、そういうことなら江戸川のほうもまわってみたいなと思うじゃないですか。
ところで江戸川八十八ヶ所ってどのくらいの範囲に八十八ヶ所がちらばっているんでしょう。ネット情報を見れば早いかもしれないですけど、ちょっとまって、わたしこういうの持ってるんです。ちょっと大きくて画面を塞ぎますが、地図なのでそのまま貼りますね。
これは、松戸市の三日月神社(ここも江戸川八十八ヶ所霊場のひとつ)の大師堂に飾られていたものを、写真にとって歪みをなおしました。下に小さく印刷者の住所が書いてあるんですが、「東京市」になっているので戦前のものだとわかります。書いてあることを読むと、鰭ケ崎の東福寺で巡礼の人たちのお世話をしている人が配布した地図みたいです。
札所を眺めてみると江戸川八十八ヶ所といっても現在の江戸川沿いだけでなく、流山市を中心に、松戸市、柏市、三郷市の広範囲に札所が点在しています。これは全部はまわりきれないし、もともと「新田組廿壹ヶ所(二十一ヶ所)」関連で見てまわるだけだから、三郷市内のものをまわって見る事にしました。
▲略図のうち三郷市内の札所を切り出したもの(左)
さらに略図にして見やすくしたもの(右)
画像を右クリックして「リンクを別のタブで開く」とかするとかなり大きな画像が見られると思います(ただのクリックでもちょっぴり大きめの画像になりますが)。
略図すぎて、ちょっとあやしい点もありますけど(大場川が江戸川に流れ込んでるように描いてある件とか…実際には西へ曲がって中川に流れ込みます)、道案内としては充分です。三郷市(戦前は複数の村でしたが)の霊場は大場川沿いにある事がわかります。
では南から行ってみます。地図には「六 横堀」とあります。ここは行った事があるので知ってるんですが、横堀御嶽神社のことですね。
二十番:横堀御嶽神社
横堀というのは江戸時代のこのあたりの村名です。昔はここに如意山宝珠院東福寺というお寺があったそうなんですが、明治6年(1873年)に明治政府が神仏分離政策を進めた際に、お寺に住職がいなかったため廃寺になったと現地にある「墓地整理記念碑」に書かれていました。
問題の札所(弘法大師堂)は御嶽神社の社殿に向かって右脇にあります。
大師堂に近づいてみると、屋根の下に木の札が貼ってあります。
▲ここが○ヶ所めぐりの札所であることを知らせる木の札。
左:江戸川八十八ヶ所第二十番
右:新田組廿壹ヶ所第拾二番(札を奉納した人の名前も)
新田組のほうは別の霊場めぐりの案内です。こっちも注目しており、札所を探していますが、今回は棚に上げておきましょう。
左側の札が江戸川八十八ヶ所のものですが、あれっと思った人は鋭いですね。そう、三日月神社にあった順路の略図では、横堀は「六番」とされているのに、現地には「二十番」とあるんですよね。略図が作られたのが戦前ですから、多少の混乱はある事でしょう。とにかくここが「横堀」の札所であることは間違いありません。
▲横堀の大師像。大師堂の中には大師像が二体あります。右側の石像が、おそらく江戸川八十八ヶ所のものだと思います(理由は次の「大膳・新和四丁目稲荷神社」を読んでください)。
次の札所はここからちょっと北にある「大膳」ですね。大膳も江戸時代の村名です。
六番:大膳・新和四丁目稲荷神社
▲新和四丁目の稲荷神社。社殿の右脇にある赤い屋根のお堂が大師堂。
横堀御嶽神社から大場川沿いの細い道を北へほんの数百メートル行ったところにあります。三日月神社にあった略図からして「大膳」の札所はここだと思います。
大膳というのは江戸時代の村名なんですが、1982年まで字として残っていた地名です。82年なんて、わたしの中では「つい最近」なんですが、その頃の地図を探そうとすると国会図書館あたりまで行かないと見られないので、今ちょっと正確な境界線まではわかりません。
ただ、新和四丁目稲荷神社の近くにある中華料理店の名前が大膳であること、三郷放水路にかかる橋の名前が新大膳橋であること、放水路の北にあるバス停の名前が大膳橋であることなどを考えると、横堀村の北で、放水路の南北あたりが大膳村だったんじゃないかと考えられます。
とにかく「大膳」は横堀の北です。ここは間違いないはず。
▲大膳の大師像。左のものは新田組廿壹ヶ所の九番の像です(新田組の他の像とデザインが同じなので)。右のものが江戸川八十八ヶ所の像だと思います。
画像はパソコンだと右クリックでリンク先を別のタブで開くとかすれば少し大きいのが見られますので横堀の大師像と比べてみてください。大師像の下に波の模様が彫られており、あきらかにセットで作られた大師像だとわかります。
横堀の大師堂と違い、ここには江戸川八十八ヶ所の案内はないんですが、三日月神社の略図で札所の名前が「大膳」であること、このあたりの字が「大膳」であること、横堀にあるのと同じデザインの大師像があることなどから、ここが大膳の札所だと考えられます。横堀が二十番だったので、こっちが六番でしょう。
一部のウェブサイトに、江戸川八十八ヶ所の六番を三郷市鷹野(ずーっと南の方です!)にある別のお寺であるかのように書いてあるのですが、そこは地名から考えても有りえない怪情報です。これについては最後にもう一度触れようと思います。
というわけで、次はさらに北へ、谷中の札所ですね。
三十九番:谷中・草庵寺?
三日月神社の略図では「谷中」とだけ書かれていて、谷中のどこにあるかの手がかりが「大場川の西」くらいしかないです。谷中もすでに廃止された字なので、どこいらへんまでが範囲なのかわからないですが、略図の書き方からして、大場川からそう離れた場所ではないと思います。
ここまで、横堀も大膳も神社だったので、谷中も神社ではないかと、最初は谷中稲荷神社を見に行ったのですが、そこには大師堂はありませんでした(鳥居の脇にあるお堂には日枝神社と書かれた石碑があるだけ)。
そこで改めて略図を見ると、谷中のところだけ大場川からちょっと離れる感じに書いてあるんですよね。
ここらへんの地図で寺院を探すと、ちょうどそのあたりに草庵寺というお寺があります。
▲谷中・草庵寺。本堂に向かって右手、墓地の入り口にあるのが大師堂。
大師堂は施錠されていましたので、お堂のガラス越しに拝見しましたが、大師像は石像ではなく、それほど古いものでもなさそうでした。
残念ながら江戸川八十八ヶ所の案内もなく、略図には「谷中」としか書かれていませんから、ここだ、という決め手もないんですけど(大師堂は札所と関係なくそこいらじゅうのお寺にあるんです、ほんとに!)、地図的にここかな、という感じです。
できればお坊さんの話などもお聞きしたいところですが、アポをとったりしていないので声をかけにくく、大師堂に合掌して現地を後にしました。
「戦前からここが草庵寺が札所でしたよ」とか、「ここじゃなくて昔は路上にあった」とか、教えてくださる方はコメント欄へお願いします。コメント欄はずーっと下のほうにございます。(ネット情報は知っててあえて無視しておりますので不要です)
次は「幸房(こうぼう)」ですね。
六十八番:幸房・興禅寺
▲「第六十八番、江戸川八十八箇所、早稲田村幸房興禅寺」と刻まれた道案内。向かって右面に「昭和九年十一月吉日・施主○○」、向かって左はひとつ前と次の番号。写真はクリックで大きくなります。
こちらはお寺の門前に昭和9年に立てられた道案内がありました。この昭和9年というのは弘法大師入定(亡くなったということ)から1100年目にあたるそうです。
そういえば葛飾区内の水元水郷弘法大師も作られたのは昭和9年ですから(一番の像の裏側に彫られている)、全国で新しい札所めぐりが作られたり、古い札所が再整備されたりなど、大きな動きがあったんじゃないかと思われます。
しかし、残念なことにこちらの道案内がすでに怪情報なんですよね。興禅寺が六十八なのはいいとして、ひとつ前は谷中の「三十九番」なんですよ。次は茂田井の「八十五番」です。にもかかわらず、六十九、六十五って刻まれてる!
昔のことなので、資料が手書きで読みにくかったのか、石屋さんに注文を出した人が勘違いをしていたか…といったところでしょうか。
江戸川八十八ヶ所は、順路がまったく番号順ではないんですが、誰だって番号通りに並んでると思いたいですからねー。
お寺は表側の山門は常に閉まっているのですが、裏から入れるので墓地と本堂を拝見しました。大師堂はなさそうですが、真言宗のお寺なので特別に作らなかったのかもしれません(もしくは江戸時代にはあったけれど現存していない)。大師像、あるそうです。下に追記しました。
【追記】2020年11月9日
コメント欄で 興禅寺の公式サイトに大師像の事が書かれている と教えてもらい、見てきました。なんでも大師像は弁天堂に遷座されたとのことです。弁天堂ってどこのこと?!
▲興禅寺弁天堂(たぶん)。本堂の裏手にある古いお堂です。いつもは閉まっていて何がお祀りされているかもよくわからなかったのですが、たまたまこの日は入り口がほんの少しだけ開けてあったので、隙間から中を拝見できました。
▲これが中の様子です。ああ、ホントだ、大師像があるー。ルーベンスの絵をやっと見られたネロ少年みたいな気分です!
▲大師像だけ拡大しました。台座に刻まれているのは「岩野木/幸房/講中」でしょうか。岩野木も幸房も明治時代まであった旧村名です。横堀や大膳を初めとする三郷市内一連の像とはかなりデザインが違うので、あらかじめここが江戸川の六十八番だと知らなかったらスルーしてしまいそうです。
…そもそもホントに江戸川八十八ヶ所の像なのかな(札所は何系統もあって、ひとつのお寺が複数の霊場めぐりの札所になっているケースも多々あります)。江戸川八十八ヶ所、三郷市内の他の札所にある像は、像の下に番号や講名の刻まれた台座がないですよね。横堀も大膳も、後述の茂田井も丹後も、像の下は靴と水瓶が刻まれた高さのない台座があるだけです。
大師像の下にある台座に旧村名+講中などと刻まれているのは、どちらかというと 新田組廿壹ヶ所 の形式だと思うんですよね。もしかすると、像自体は新田組のなんじゃないだろうか…?
台座の向かって右脇の面に何か刻まれているみたいなので、ここが読めたら造立年などで手がかりになるかもしれないのですが、残念ながら距離があって無理そうです。ううむ、通りがかりの素人の限界か…
とはいえ、興禅寺に大師像があることは確認できました。何度も通りがかって一度も拝見できなかったものなので、隙間からとはいえ、本当に幸運でした。追記ここまで。
次は八十五番の茂田井です。
八十五番:茂田井阿弥陀堂 or 元光明院?
まず結論からいうと、やはり江戸川八十八ヶ所の八十五番は元光明院かもしれません。この記事を書いていた当時は阿弥陀堂が八十五番だと思っていたのですが、別の手がかりを見つけてそれは怪しくなりました。とりあえずこのまま読み進んでください。2022年6月追記
三日月神社の略図によれば、八十五番の茂田井は大場川の東に書かれています。これが正しいとすれば元光明院がそれにあたりそうなのですが、ここに少々疑問があります。
というのは、そこから目と鼻の先で、大場川の西(というかこのへんで川が湾曲するので南ですが)にある茂田井阿弥陀堂に大師堂があり、江戸川八十八ヶ所の案内があるんですよねえ。
まず阿弥陀堂のほうを見てみましょう。
江戸時代は村落ごとに念仏堂のようなものがあり、住職はいなくて法事の時だけお坊さんが来るというお堂がけっこうあったようで、現在でも墓地が併設された集会場として残ってるケースが多数あります。ここもそういう施設じゃないかと思います。
▲大師堂に掲示された札所の案内と御詠歌。「新四国江戸川二番、ごくらくの みだのじょうどへ ゆきたくば なむあみだぶつ くちぐせにせよ」
新四国というのは四国を模して新しくつくりましたということで、全国各地の札所巡りが「新四国○○」と呼ばれています。新四国江戸川だから、江戸川八十八ヶ所の札所だと言ってるんだと思うんですよねー。
ただ、三日月神社の略図では、ここは八十五番なのに、案内には二番とあるのが謎ではあります。
大師像を見ると、着物のひだが多くて、座禅を組んだ足の下にあまりハッキリはしないものの波模様が…あるかなあ、いやこれは着物のひだかなあ。とはいえ、横堀や大膳(新和四丁目)にある大師像とかなり共通点があり、セットで作られたもののような気がします。
これはあくまで想像ですが、二番というのは早稲田村内の二番ということじゃないでしょうか。
横堀、大膳、谷中、幸房、茂田井、丹後はそれぞれ独立した村でしたが、明治22年に横堀〜谷中までが戸ヶ崎村に、幸房から丹後までが早稲田村に編入しています(新宿区の早稲田とは別ですよ!)。
◎ウィキペディア:三郷市:歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%B7%E5%B8%82#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
1889年のところをみてください。
江戸川八十八ヶ所のうち、早稲田村内の札所は南から数えても、北から数えても茂田井が二番目ですから、おそらくそういう事だと思います。
というわけで、わたしは茂田井の札所はこの阿弥陀堂ではないかと考えています(もし、地元の方で異論がある方はコメント欄へお願いします。ただしネット情報は求めていません。お爺ちゃんやお婆ちゃんの記憶が重要なんです)。
【二番について追記】2022年6月
この記事を書いてからだいぶたちまして、その間にもあちこちで知らない霊場巡りをみつけたり、江戸六地蔵なんかも(全部じゃないですが)回ってみたりしました。六地蔵なんかだと、札所番号が複数ある場合もありますね。たとえば作られた順と、参拝する順で違う場合もあるみたいです。
ただ、八十八ヶ所だと数が多いのに複数の番号があるとややこしくて面倒です。自分で言っておいてなんですが、早稲田村の二番目説がどうも気にくわない。
そんなある日、気付いてしまったのです。二番は江戸川の番号じゃなくて、新田組廿壹ヶ所の番号なんです。『三郷市史 第七巻』の「日露戦争前後の村の生活」に、新田組の札所の一覧がありました。市内鷹野の白石家という旧家に当時の巡拝案内が残っていたんだそうです。それによれば、茂田井阿弥陀堂が新田組の二番だということです。
堂内の大師像も新田組の開創時(明治42年)に作られたものかもしれません。新田組のだとすれば沓(くつ)や水瓶の刻まれた台座のさらに下に、旧村名等が刻まれた台座がもうひとつあって、その脇に造立年が刻まれているはずなんですが、茂田井阿弥陀堂の像には村名の台座がないので、絶対そうだとは言いきれないんですが、新田組の像かもしれないなあ。
とにかく、「二番」は新田組廿壹ヶ所の番号です。
そうなると、やはり江戸川八十八ヶ所の八十五番は元光明院なのかもしれないです。追記ここまで。
さて、最初に書いた通り、略図を参考にするなら茂田井の札所は元光明院なので、そっちにも行ってみました。
元光明院は茂田井阿弥陀堂から徒歩で数分、すぐ近くです。集会所らしき建物が茂田井阿弥陀堂とそっくりなので、同時期に同じ大工さんが作ったのかもしれないですね。
元光明院の大師像は茂田井阿弥陀堂や横堀や大膳のもののように下に台座もありません。や手に持ってる数珠もかなり違います。
▲横堀・大膳(新和四)と茂田井阿弥陀堂は数珠の構造が同じく二重で房あり。元光明院のは一重で房の本数も少ない。
【2022年6月追記】茂田井阿弥陀堂のところにも書きましたが、江戸川八十八ヶ所の八十五番は、やはり元光明院なのかもしれないです。実は江戸川八十八ヶ所の像は、昭和9年の開創時に全部作ったとかじゃないみたいなんですよね。お堂に施錠されてるケースが多くてすべては調べられないんですが、四十九番の流山市長崎・金乗院の像など、台座に安政五年と刻まれていました。 つまり、昭和9年以前からあったものがそのまま使われてるということです。
阿弥陀堂がそうだったように、元光明院も江戸川八十八ヶ所以外の札所になっています。新田組廿壹ヶ所の一番でもあるし、下に写真を貼る石碑はかなり古そうなので、新田組(明治42年)とはまた別の二十一ヶ所めぐりの札所でもあったかもしれません。
右端のくずれてるのはよく読めません。真ん中の石柱は上の方が読めませんが「…大師遍照金剛」と書いてあります。
注目したいのは左の石柱です。真ん中で割れているのを継いであるため途中が読めないんですが「弘法大師」「廿一(二十一)」「○番」「光明院」の文字が見えます。側面には「真言講中」の文字もありました。
もう一度結論を書くと、江戸川八十八ヶ所の八十五番は「略図」にあるように元光明院かもしれません。ただし、地図にある川との位置関係からすると茂田井阿弥陀堂という可能性もあります。
もっとも阿弥陀堂と元光明院はすぐ近くなので、江戸川の巡拝をしていた人たちは、どちらもお参りしたかもしれないです。
次は「丹後光福院」です。
八十六番:丹後光福院
▲大師像。前掛けをしてもらっているので失礼ながらちょっとめくらせていただきました。
丹後というのも旧村名です。丹後村→早稲田村→三郷村→三郷市。
大師像のまわりに札所の案内はありませんでしたが、三日月神社の略図に「丹後光福院」とハッキリ書いてありますので、ここで間違いないでしょう。
大師像のデザインも、横堀・大膳のものと似ています。靴と水差しを刻んだ台座の上にあり、着物のひだもよく似ています。手にした数珠は房が省略されていますが二重になっています。足と台座の間に波模様がないのは違いますね。
最後に一部のWEBサイトで六番としている三郷市鷹野の円福寺も見てみましょう。
おまけ:鷹野・円福寺(圓福寺)
江戸川八十八ヶ所をネット上で検索すると札所のリストを掲載しているサイトが複数あるんですが、その中に鷹野の円福寺を六番としているサイトがあります。
しかし、このお寺があるのは鷹野一丁目で、旧村名でいうと樋野口村か徳島村にあたると思います。
境内にある石碑に「大正三年に江戸川の改修があり大正五年に堂宇が新建され墓地が改修された」とはありますが、遠くから移転して来たわけではなくて、昔からここにあったみたいです(プチ追記:江戸川土手が改修された際に、旧本堂はおそらく土手にかかったんだと思います。それで川から少し退いた現在の場所に堂宇が新建されたので、1ミリも動いていないわけではありませんが別の村から引っ越してきたわけではない、はずです)。
ということは、三日月神社の略図の、どの札所とも一致しないわけで、ここはぜんぜん関係ないと思うんです。大師堂があるお寺は他にも沢山ありますし。
▲三日月神社にあった略図のうち三郷市付近を切り出したもの。六番と二十番の番号は入れ違っているが、横堀の北に大膳があるのは間違っていない。
円福寺を六番だと言ってる人が何を根拠にそうだと言ってるのか、ちょっとわからないのであくまで想像ですが、その人もこの略図を見たとすれば、六番と二十番が入れ違っている件で混乱したに違いなく、大膳の渡しを円福寺の上を通る上葛飾橋と勘違いしているのだと思います。
とにかく、円福寺は大膳の札所ではないです。大膳はもっと北ですから。
▲現在の地図と札所の場所。丹後光福院が略図と違って大場川の東にあるのも謎です。
【追記】大場川なのか荘内古川なのか 20201109
これについてはコメント欄でも話題になっていますが、大正時代の江戸川土手改修以前は、江戸川と大場川の間にもうひとつ川があったみたいなんです。後述の 今昔マップ on the web で明治時代の地図を見ると名前は荘内古川みたいですね。
大場川が鷹野のあたりで西に折れ曲がって中川に合流するのに対して、荘内古川は長土呂村あたりで東に折れ曲がって江戸川に注いでいます(ちょうど「略図」に描かれた川みたいに)。土手の改修後は荘内古川という名前はなくなっているようです。
江戸川八十八ヶ所霊場は昭和九年に整備されたもので「略図」が描かれたのもその頃だと思います。つまり、この当時はもう荘内古川はなかったはずなんですが、今ほどものが豊かでなかった時代の事なので、「略図」を書いたお坊さんが、古い地図を見て大場川と荘内古川を混同していたのかもしれません。
荘内古川から見れば丹後の札所は西にあるので、ああ、なるほど、となります。追記ここまで。
【三郷市の旧村名】
三郷市の旧村名は、チャンスがあったら国会図書館あたりで昭和の地図を探そうとは思うんですが、ネットで見られる資料として「今昔マップ on the web」というのをみつけました。
画面をキャプチャしていいかどうか、ちょっとわからないのでリンクのみに留めますが、かなり使えるサイトだと思います。
◎今昔マップ on the web
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html…
字が廃止される前の1970年代で、横堀や大膳がある場所にリンクしてみました。やはり大膳は横堀の北で正解。
南のほうへ移動して、現在の地図で上葛飾橋があるあたりを見ると、このへんは樋野口ですね。橋の南にある卍が円福寺です。70年代の地図でも同じ場所に寺があるのも確認できます。やはり円福寺は江戸川八十八ヶ所の順路からははずれていますね。
【江戸川八十八ヶ所、流鉄沿線の何ヶ所か】
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20200929p8492
【札所(霊場巡り)関連の記事一覧】
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20161130p6431
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ピンバック: 江戸川八十八ヶ所めぐり流鉄沿線をいくつか | 超・珍獣様のいろいろ
「またまたみつけた霊場巡り(新田組二十一ヶ所)」へのコメントの続きです。以下は旧図を見て具体的に判ることの一例です。
尚、旧図の正式名称は「二万分一迅速測図」と言います。これは全部で1000面ほどあり、関東地方の平野部をほぼ覆ったところで、その作業を終了しました。歴史的農業環境閲覧システムで公開されいるのがそのすべてだと思われます。現在で1面当たり1000円ほどで購入することが出来ます。
こちらにおまけとして挙げられている鷹野・円福寺ですが、迅速測図と現代図を並べてじっーと見ると、ららむ~さんが「遠くから移転して来たわけではなくて、昔からここにあったみたいです。」と言うのはどうかなという気がしてきます。
先に僕は「寺社などの公共性のある建物は赤で書く」などと言いましたが、確かにそれがここにもあります。旧図で大場川が直角に西に曲がっているすぐ北に道がありますね。それを東に江戸川の土手まで行くと、その北側に点線で囲まれた四角の中に黒い家の記号ともう一つ非常に小さいですが赤で書かれているらしい建物があります。これがおそらく元々の円福寺でしょう。
ただし今昔マップの明治42年版ではこれは確認できず、次の大正6年版では現在と矛盾の無い位置に寺の記号があります。大正5年の堤防改修で元の寺域は土手の下となり、北100メートルほどのところに新たな堂宇と墓地を作ったのだろうと思います。
問題はその先です。これを書いているうちに気が付いたのですが、江戸川東岸の主水稲荷から順路をたどると、八十八ヶ所霊場巡拝道順略図にある江戸川の東の小さな川は大場川ではない、のではないでしょうか。(途中ですが、一旦中止します。続きはまたのちほど)。
訂正です。先の文末にある
「八十八ヶ所霊場巡拝道順略図にある江戸川の東の小さな川」
これは正しくは「江戸川の西の小さな川」です。
問題はこれがどの川なのかということになるのですが、まだ検証も進んでいないのでまたあとで。
切れ切れで申し訳ないですが、六十八番興禪寺はそちらのサイトに大師堂の記述があります。
http://www.kouzenji-misato.jp/about_2.html
江戸川八十八ヶ所札所霊場(第六十八番)の中に、
「昔より多くの方々にお参り頂いた大師像は、現在の本堂建築の際に弁天堂の中に移されております。」
とあります。
で、全然別のお寺で大師様発見しました。この興禪寺が管理している同じ曹洞宗の長昌寺という寺があります(三郷市新和1-540)。グーグルアースで見ると境内に赤い屋根の小さなお堂らしきものが3棟。
そこで境内の写真はないかと探したところ、このページにありました。
https://tesshow.jp/saitama/misato/temple_shinwa_chosho.html
写真の説明に大師堂と無かったとしても、これはもう間違いないですね。ららむ~さんなら台座の形からだけでもほかとの共通性をある程度は判断できるのではないでしょうか。
さて、これは何番で、八十八ヶ所とは関りが有るのかどうか?
このコメントはURLが二つ書いてあったので表示されなかったみたいですね。面倒な仕様ですみません。一時期ものすごい数のスパムがあったものですから。
興禪寺の大師像は弁天堂…弁天堂ってどれのことだろう(汗)そういえば本堂の裏手にとても古いお堂があるから、それが弁天堂なのかなあ。覗き込んでも中がよく見えず、何がお祀りされているのかも良くわからなかったのでスルーしてしまいました。これもあとで見に行ってきますね。
これでコメント全部かな^-^;
わたしが放置してるからですけど、普段ぜんっぜんコメントつかないもので、気づくの遅くてほんとすみません。
見に行くメモ:
・興禪寺の弁天堂
・三郷放水路の近く院ある長昌寺
続きです。「八十八ヶ所霊場巡拝道順略図」の大場川が江戸川に合流する部分はららむ~さんも指摘するように明らかにおかしいです。各時代の地形図を見直しているうちに、明治版にある庄内古川の下流部と大場川がどこかで誤ってつなげられているらしいと判りました。東福寺の住職、古い記憶でいい加減な図を書いたな。こう思います(笑)。庄内古川は大正初期の堤防改修で埋められています。
以下あちこち地図などを見ながら検証してゆくと、どうやら案内図の札所の番号、二十と六は入れ違っているらしいと強く感じられてきます。
ところで大正初期の堤防改修というのは、明治43年の大水害を受けてのものでした。この時に庄内古川と江戸川に挟まれた土地からすべての人家が立ち退かされたようです。大水害の際にすべて流されて、その後家が建つこと自体が無かったかもしれません。本件とは無関係ですが、もしここにそれ以前からの札所が設けられていたとしたら、移転したか失われたかのいずれかでしょう。
差し当たりこれが最後で、おまけです。
この周辺の地図をあちこち見ていて見つけたのですが、草庵寺のほぼ南、1km辺りのところ、三郷放水路の北側に長昌寺というお寺が有ります。草庵寺と同じ曹洞宗で、同寺が管理しているとのこと。ここをグーグルアースで見ると、境内に小さな赤い屋根のお堂らしいものが三棟あります。
更に境内の写真がないかと探すと、有りました。
https://tesshow.jp/saitama/misato/temple_shinwa_chosho.html
ずばり大師堂です。
でもこんな台座の像はこれまでの記事に出ていたかな。ともあれまた近所に行くようなことがあったら一度確認してみてください。
今続けて三郷駅の少し南側をストリートビューで見ていて、ところどころに大きな家がやたら高いところに建ててあって、感じが悪いなあと思っていました。2軒目までがつい最近建て直した新しい家だったので、殊更にそういう印象を持ったわけです。ところが3軒目に割と古い家が同様なのを見て「ああ、そうか。そうだった。重要なことを忘れてた」。
こういう家はいざという時でも多分無事に済むんでしょうね。戦後間もなくのカスリーン台風の時はどうだったんだろうと感じます。
わー、沢山コメントしてもらってたの今やっと気づきました…すみません、最近うちのサーバ調子が悪くてコメントの新着がメールで通知されなくなってて;;;
鷹野・円福寺ですが、そう、昔の堂宇は土手にかかったんだと思います。土手の工事のために今の場所に移転したと寺にあった石碑に書いてあります。しかし、その程度の移動は所在地名が変わってしまうほど「遠くから」移動したことにはならないと、わたしは思ったので、そのように書きました。大膳は円福寺が今ある場所から2〜3km川上です。
それと、長昌寺ですが、そういえばそのへん見てないかもしれないので、近いうちに行ってきますね。
ただ、大師堂は、どこにでもあるんですよ…ほんとに、どこにでもあるんです。札所になっていなくてもあるんです。すごく沢山、とにかくあるんです…葛飾区から三郷市あたりって、もうなんか、めちゃくちゃ弘法大師推しが強くて、いたるところに大師堂あるので、ただあるだけかもしれないし、なんか別の札所を見つけてしまう可能性もあります(鼻血)
家が高いところに立ってる件ですが、ご想像のとおりで、三郷市、葛飾区、足立区あたりは、昔は洪水の被害がそうとうあった土地らしく、洪水にまつわる伝説や昔話が沢山あります。カスリン台風の時、葛飾区は水没したと聞いてます。三郷市もかなりの被害だったはずです。
ええと、混乱して何についてどこに書かなきゃいけないのかよくわからなくなってきました。すでにコメントしたものも含めてまとめますが、
【円福寺の位置】
大正時代の土手の改修で堂宇が動いたことは確かです。しかし、川から少し内陸に退いた程度であって、別の村から引っ越してきたわけではない、という意味で「遠くから移転したわけではない」と考えています。
【六十八番興禪寺の弁天堂】
これは、今日改めて見に行ってきました。いつもお堂が閉まっているのですが、今日はちょっぴりだけ開いていたので中をのぞき見ることができました。確かに大師像がありました。台座に番号などはなく、講の名前が書いてあったと思います。これはあとで、心を落ち着けてから写真を詳しく見て考えたいと思います。江戸川八十八ヶ所のものなのか、別のものなのか…
・長昌寺の大師堂
これも見てきました。これ、もしかしたら江戸川八十八ヶ所ではなくて、新田組廿壹ヶ所関連かもしれないです。というのは、長昌寺より少し北の市助公民館の敷地内に、五番と刻まれた大師像を新たに見つけまして、台座に刻まれてる日付などからセットものじゃないかって気がするんですよね。これも、あとで心を落ち着けてから、写真をよく見直そうと思います。
・川について
三日月神社にあった「略図」の、江戸川の西にある川ですが、そうですね、これはもしかすると、大場川そのものではなくて、江戸川と大場川の間にあった水路である可能性はあります。水路の名前は、わたしにはちょっとわかりません。
今昔マップの1917年(大正時代)の地図を見ると、大場川は今と同じで樋野口村あたりで西へ折れ曲がっていますが、水路の方は八木郷村と長戸呂村の間くらいで東へ折れ曲がって江戸川に流れ込んでるんですよね。略図の川の流れとまったく同じ感じに。
今昔マップ http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.807242&lng=139.887671&zoom=16&dataset=tokyo50&age=1&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
ちょっとURLが長いけど、このへんです。
江戸川の土手が改修されたのが、大正時代の事なんですが、今昔マップの大正時代の地図だと水路がかなりの太さで描かれているので、この時代の事ならば大場川じゃなく、こっちの水路沿いに札所があったんじゃないか、みたいな気はします。
しかし「略図」が描かれたのは昭和初期なので、昭和の地図ではもう水路がほとんど描かれていなくてですね、やっぱり略図にある江戸川の西の川は、大場川のような気がしてならないです。
ところで、大正の土手改修後に目立たなくなってる水路ですが、実は今もそれほど川幅のない用水路として残ってまして、現在は田んぼがないので水もほとんど流れてないんですが、昭和初期ならちゃんと水が流れてたと思うんです。
それで、略図を書いたお坊さんが、大場川とその水路をごっちゃにして、図を書いてるんじゃないかとわたしは睨んでいます。昔はまわりじゅう田んぼだったでしょうから、その程度の勘違いなら道に迷うこともないでしょうし、誰も気にしなかったんだと思います。
ひとまずこんな感じでしょうか。とりあえず写してきた写真を見ないと。
とりあえず、興禅寺の件、追記しました。
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20200925p8437#koubou20201109
長昌寺関連は、新田組廿壹ヶ所のほうに追記したいと思います。ちょっと待って。
茂田井阿弥陀堂は江戸川のうち八十五番のはずなのに、御詠歌の板には二番と書かれているのは、もしかすると新田組とごっちゃにされているんじゃないかという気がしてきました。像自体は形式からいって江戸川のっぽいんですけどね。
新田組は市助に五番をみつけたので、茂田井あたりに二番があってもおかしくないなと思うんです。となると、元光明寺にあった「二十一ヶ所」の石碑が気になります。古く見えるので江戸時代の石碑っぽいですけど、もしかするとそれを再整備したのが新田組なのかもしれないし。
しかし三郷市も広くて、さすがに茂田井あたりはうちからだと「ちょっと散歩で」とはいかない距離です(笑)
こんにちは。ららむ~さんが徒歩だけでなく、自転車も使わないのはちょっと厳しいですね。
さて、続きをまとめて読みました。興禅寺の大師様、これまでのものとは顔が全然違うじゃありませんか。空也上人みたいな尖った顎になってますよ。別系統の札所の像を、新たに組み込んだのかも。←とするとそういう尖り顔の像の札所がほかにもあることになりますね。
それは置いて、この弁天堂の内部、左側の壁際の古びた箪笥やら、お不動さんを載せてある太鼓だの、気になる物がいくつもありますね。箪笥の中は文書がたくさん入っているみたいだし。更に良く見ると、箪笥の前板が外れているせいで中が見えるのはご愛敬♪
ところで弘法大師の縁日というのは・・・毎月21日ですか。この日に行ってみると世話をしている人がいるかもしれません。特に3月は命日なので狙い目かも。
そうなんですよねえ、21日が御縁日。しかし、うーん、どうかなあ。たぶんもう、そういうお世話にくる人もいないからしまわれちゃってるんじゃないかなあ。だって昭和9年の開創だったら86年も前のですからねえ。
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