「江戸川八十八ヶ所」です。先日は江戸川の西岸、三郷市内の札所を回ったんですが、今日の記事は川の東側で、流鉄沿線の札所をいくつかまわってみました。
【今回まわった札所】
閻魔堂 流山駅から徒歩 5分くらい
光明院 平和台駅から徒歩 10分くらい
東福寺 鰭ケ崎駅から徒歩 5分くらい
正福寺 小金城趾駅から徒歩 3分くらい
三日月神社 馬橋駅から徒歩10分くらい
江戸川八十八ヶ所のうち、三郷市内にある各札所には似たデザインの弘法大師像があるのですが、札所が八十八ヶ所もあれば全てに同じデザインの弘法大師像があるとは限らないですよね。全部はまわってみられないので、比較的うちから近い、流鉄沿線の札所を回ってみることにしました。
三日月神社
最初にお参りしたのはここです。札所の番号でいうと二十五番。JR常磐線・流鉄流山線の馬橋駅から線路沿いを10分くらい歩いたところにあります。神社の名前は三日月神社(みかづきじんじゃ)ですが、このあたりの地名は松戸市三ケ月(まつどし みこぜ)だそうです。
像が袈裟などをきせてもらっているので全体がよく見えませんが、三郷市側にある像とはだいぶ雰囲気が違うみたいですね。三郷市側の像は、着物のひだがこれでもかっていうくらい沢山彫ってありますから。強いていうと、丹後光福院の像とは少し似てるかもしれないです。>三郷市側の像はこっちの記事にまとめてあります
ところで、こちらの大師堂には「江戸川八十八ヶ所巡拝道順略図」という地図がありました。大師像の向かって左下に写っている額がそれです。ガラス越しなので光の反射をよけるために斜めから写して、家で画像処理してゆがみをとったのが下の図になります。
この霊場めぐりは江戸時代から続いているのですが、何度か廃れたり再整備されたりして、最終的には昭和9年の弘法大師1100年遠忌の際に、鰭ケ崎の東福寺のお坊さんが整備して今日に至るそうです。この略図も発行所は東福寺になっています。印刷所の住所が「東京市」なので、戦前の、おそらく昭和9年の再整備の頃に配布されたものだと思います。
パソコンの場合だったら、画像の上で右クリックして「リンクを新規タブで開く」などすると、かなり大きめの画像になると思います(ただのクリックだと大した大きさになりません)。#どうやっても大きな画像にできない状態だったので直しました…でもそのせいで古めのfirefoxでこのページを見ようとするとクラッシュするかもしれないので…ええと大丈夫だろうか(笑)
戦前のものなので、場所がわからなくなっている札所や、廃止されていずれかのお寺に統合された札所もあるのですが、貴重な資料だと思います。
▲三日月神社のある場所を後ろから撮影。神社は少し小高い場所にあるのですが、後ろ側からみると土地がスパッと削られていて、時代を感じるような、ちょっと面白いような不思議な気分になりました。
▲流鉄の一日乗車券(500円)と流鉄馬橋駅の待合室(エアコンついてた!)
三日月神社からだと、大谷口駅も近いですが、どうせなら始発から乗ってみたいので、馬橋駅にもどって流鉄の一日乗車券を買いました。この日はまだ暑くて、冷房が効いてる待合室でほっと一息。
閻魔堂
馬橋駅から終点の流山駅まで電車で5駅、12分くらい。バスみたいに短い距離を走ってる電車なんですね。そこから徒歩で5分くらいのところに閻魔堂があります。
▲閻魔堂の入り口。右奥の石柱は二十九夜待ちの碑で、左手前の石柱が札所の案内で「第○番/新四国八十八ヶ所」の文字が刻まれています。
新四国というのは、四国の霊場めぐりを模して作りましたという意味で、全国の霊場巡りにそういう名前がついてます。番号は最初が読みにくいんですが、○十一番と読めます。現在の江戸川八十八ヶ所では六十六番と四十六番にあたるので、数字が違いますね。江戸川八十八ヶ所は何度か再整備されているそうなので、昔の札所番号なのかもしれません。
暑くて頭がぼけていて、閻魔堂の全貌がわかるような写真をとりそびれました。いわゆるお寺ではなくて、たぶん昔は村の念仏堂のような場所だったんじゃないでしょうか。集会場のような建物と墓地があって、敷地内に大師堂と六地蔵がありました。
▲左側のお堂が大師堂です。右はなんだったっけな(完全に暑さボケしてる)。
▲大師像。お堂は施錠されていたのでガラス越しに写しました。三郷市内のとも三日月神社のとも違う感じですね。
金子市之丞は盗賊の名前だそうです。明和六年に流山の醸造家・金子屋に生まれましたが、博打にのめりこんで勘当されてしまいます。盗賊の仲間になり大暴れして、文化十年に捕まって小塚原で打ち首になりました。上新宿村(このあたりの旧村名)の者が首を引き取って光明院(閻魔堂から徒歩10分くらいのところにある)に葬ったそうです。
その後、天保年間に大泥棒の一人として有名になって、明治に入ってからは歌舞伎の題材にもなり、貧しい者に盗んだ金を分け与えた義賊して大人気になったそうです。閻魔堂にある墓は、歌舞伎で人気になったことで作られたものではないかと案内板に書いてありました。写真では案内板の後ろになってますが、もうひとつお墓があって、歌舞伎で市之丞の妻という設定だった花魁の三千歳(みちとせ)の墓とされているそうです。
なんだ、墓といっても観光用じゃないかって感じですが、昔は遺体を葬った場所と拝むための墓石が別の場所にあることは珍しくないみたいですし、歌舞伎は明治十四年初演だそうで、きっと泥棒の墓なんてどこにあるかもうわからなくなっていたんでしょうね。(三千歳にいたっては本当に市之丞と関係があるかどうかすらわからないですし)
さて、次は市之丞が葬られたとされる光明院に行ってみようと思うんですが、ここからなら歩いたほうが早いので、ぶらぶら行くことにしました。
光明院
このあたりは新撰組や小林一茶のゆかりの地だったり、万上本みりん発祥の地だったり、見どころが沢山ありそうなんですが、まだいくつか札所をまわりたいのでお寺だけ早足でお参りです。
▲流山光明院。新撰組が流山に陣を敷いた時、このお寺にも分宿したそうです。
江戸川八十八ヶ所の番号としては七十七番にあたります。大師堂は施錠されていて、ガラス越しに中を拝見しましたが、着色された像が安置されていました。石柱は「廿一ヶ所/第五番/厄除弘法大師」「元治二年丑歳四月吉日」などと刻まれていました。
繰り返しになりますが、江戸川八十八ヶ所は何度か整備しなおされ、別の霊場めぐりと統廃合されたりしているみたいなので、この「廿一ヶ所」は「江戸川」に吸収された古い霊場巡りなんだろうと思います(このあたりはもっと突っ込んで研究しないとハッキリしたことは言えませんが、今回の旅は大師像のデザインを三郷市内のと比べたいだけのゆるい旅ですので)。
▲駐車場からの遠景。光明院の本堂の裏にあるのは赤城神社の山で、伝説によればある大変な洪水の時に、群馬の赤城山の一部がここまで流れてきて山になったとされています(一説によれば赤城神社のお札が流れ着いたとも)。このあたりを流山(ながれやま)というのは、その伝説が元になってるらしいですよ! わたしは群馬育ちで毎日赤城山を見て暮らしていたので、東京にほど近い千葉県なんかで赤城山が特別視されてるのを見ると胸熱だったりします。
実はこのすぐそばに「流山寺」という別の札所があるんですが、下調べが甘すぎてお参りしそびれました。
次は平和台駅から流山線に乗って、鰭ケ崎(ひれがさき)の東福寺へ行こうと思います。
東福寺
江戸川八十八ヶ所の一番札所はここ、東福寺です。明治以降廃れていた霊場めぐりを昭和9年に再整理して今の形にしたのは東福寺のお坊さんだそうです。鰭ケ崎駅のすぐ近く。小高い丘の上にありました。
わたしはここでも暑さボケを発揮。東福寺の本堂を写してないwww 本堂にむかって合掌したところまでは覚えてるんですけどねー。わたしは、仏教は信仰じゃなくて自分に対して生き方を問うものだと思っているので、仏=拝めば助けてくれる、とはあまり思わないんですが、人が大事にしているものに対しては敬意を持っているので、お堂を覗かせてもらう時はちゃんと参拝はするんですよ(ごめんくださーい、おじゃましましたー、みたいな感じです)。
格子窓から拝見したら、中にはいくつもの大師像があって、どれがなんのために納められているかはわかりませんでした。なにやら立派な駕籠までありました。
かすれて読めない部分がありますが、わかるところだけ書き起こしてみます。読めないところは■にしておきました。
(左の写真) 新四国江戸川第八十八番 東福寺奥の院千仏堂 本尊千体の阿弥陀如来 江戸川や清き 流れの西東 出来た札所は あらたなりけり 昭和■■… ■…
(右の写真) 新四国江戸川第八十八番 守龍山東福寺 本尊薬師如来 南無薬師 諸病なかれと 南無薬師 諸病なかれとねがひ つゝ まゐれ■人■ おほく■の寺 昭和■年 ■…
東福寺はまわりはじめの一番だと書きましたが、お寺の境内に何ヶ所かの札所があったみたいです。前述の巡拝順路略図によると、
一番 東福寺
二十一番 五本松
八十九番 弁天山
二十九番 桜大門穴大師
八十八番 奥院千仏堂
この5ヶ所が東福寺の境内にあったみたいな感じに書いてあります(境界線があるわけじゃないので弁天山とかが別の場所かもしれないですが)。
一枚目の札に書かれているのは巡拝順路略図に書かれているのと同じ御詠歌で、昭和9年に江戸川八十八ヶ所を再整備した空水というお坊さんが詠んだものらしいです。
二枚目の札に書かれているのは、たぶん四国八十八ヶ所の八十八番大窪寺の御詠歌で「南無薬師諸病なかれと願いつつ詣れる人は大窪の寺」っぽいですね。千仏堂を四国お大窪寺に見立てているということでしょうか。
大師堂の写真を見直すと、ほかにも木札が掲示されてるみたいなんですが、完全に暑さボケしてこの二枚しか写していません(汗)
次はまた電車に乗って歓喜山正福寺へ。
正福寺
閻魔堂、光明院、東福寺は流山市なんですが、正福寺は松戸市横須賀というところにあります。もちろん神奈川県の横須賀とは別の場所です。
▲小金城趾駅を出ると、いきなりこの川を渡る人道橋に出る。川は新坂川? 地元民じゃないので違ってたらごめんなさい。懐かしい感じの川だなあと思って写しました。
駅から徒歩数分のところにありました。この新しい本堂の後ろに昔の本堂らしき古い建物もありました。札所の番号は三十八番と七十四番です。
靴と水瓶を刻んだ台座がなく、当村中と刻まれた大きい台座に直接乗っていました。像そのもののデザインは閻魔堂のとよく似てますね。
これでこの日まわってみた札所は全部です。流山寺に行かなかったのはかなり残念なんですけど、心残りがあればまた来ようという気持ちになるので、まあいいかなと思います。
今回の目的は、三郷市側の大師像とのデザインの違いを見ることだったんですけど、自分としては「ぜんぜん違うものがあった」という感想です。札所も八十八ヶ所もあれば、すべての大師像に共通したデザインはないが、地域ごとに有る程度は共通したデザインがありそうです。
えっ、同じに見える? いや、だから、着物のひだとか、手に持ってるお数珠の形とかがですね(小一時間…)。
そもそも、これらの石像はいつ時代に作られたものなんでしょうね。ベースになった「下総四郡札所」とうのが文化四年(1807年)に作られたそうなんですが、200年前にしては新しそうに見えますよね。
カテゴリー:
ピンバック: 江戸川八十八ヶ所のうち三郷市内の札所めぐり | 超・珍獣様のいろいろ
ピンバック: 札所(霊場巡り)関連の記事一覧 | 超・珍獣様のいろいろ
初めまして、最近、江戸川八十八ヶ所まわっているものです。
「江戸川八十八ヶ所巡拝道順略図」の画像拝見させていただきまして、色々気がつかされました。
GoogleMapのローカルガイドもやっていまして、ふと気がついたのですが、江戸川八十八ヶ所で紹介されているサイトで見つけた4番は「無苦尼堂」とありますが画像見ると「北、無苦厄堂」と書かれていますよね。同じく37番も「北薬師堂」と紹介されているサイトを見つけていましたが、この画像によるとどうも「北、薬師原」と読めますね。
こんにちは。自分のブログなのにぜんぜん見てなくてすみません。流山方面はあまり足を運べなくて、略図の表記が実際とどう違うのか、同じなのか、わたしもよくわかりません。
でも、たしかに「北、無苦尼堂」「北、薬師原」と、「、」が入っているように見えますね。三十六番の不動堂も「南、不動堂」に見えます。
これについて、下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』を確認したところ、次のように書いてありました。
番号/札所名/所在地
三四番/南寮/流山市南、西善院
三六番/不動堂/流山市南、道路沿い
三七番/北薬師原/流山市北小屋香取神社の先
四番/無苦尼堂/流山市北小屋、集会場
というように書いてありましたて、どうも北だの南だのは、南という土地にある不動堂、北小屋という土地の薬師原というような意味合いじゃないかと思われます。
『江戸・東京札所事典』は昭和の終わり頃に出版されたものですし、著者が調査したのはさらにもっと前のはずです。現在とは状況も違っていますし、古い本なので校正も甘く、情報の怪しい部分もあります。実際に出かけて現在の状況を記録するのは大事なのことだと思いますので(もう見てらっしゃらないかもしれませんが)、どうか頑張ってください。
ピンバック: 江戸川八十八ヶ所の49番 流山市長崎・金乗院 | 超・珍獣様のいろいろ
ピンバック: 江戸川八十八ヶ所 常磐線の南側6ヶ所 | 超・珍獣様のいろいろ
ピンバック: 江戸川八十八ヶ所 柏市内24番と26番 | 超・珍獣様のいろいろ