ついでの用事があったので、江戸川八十八ヶ所のうち、常磐線の南側にある6ヶ所の札所を回りました。千葉県松戸市内の札所の一部になります。
▲戦前(おそらく開創当時)に作られた江戸川八十八ヶ所巡拝道順略図。この図の左下隅あたりの6ヶ所に行きました。もっと大きな画像を見たい場合は、パソコンの場合
「ここ」←を右クリックして「リンクを別のタブで開く」などとしてみてください。
大きな画像が別タブか、別ウィンドウかで表示されると思います(普通に左クリックするとそんなに大きくならない…このブログ自分で設定しといてなんですが、いろいろ面倒ですね。なおこの地図は、三日月神社の大師堂に掲示されていたものをスマホで撮影して歪みをとったものです。文中で「略図」とあったらこの地図のことです。
▲赤い○が今回参詣した札所になります。6ヶ所以上あるじゃないかと思うでしょうが、1ヶ所に複数あるため実際に参詣したのは6ヶ所です。ほとんどの札所には大師堂と大師像がありましたが、像(あるいはその台座)は江戸時代のものであったり、戦後に作られたものだったりさまざまです。
現在知られてる江戸川八十八ヶ所は江戸時代の(文政六年にはすでにあった)八十八ヶ所を再整備して昭和9年に開創されたものです。ここでは文政期のものを旧江戸川と呼ぶことにします。
松戸市八ケ崎・長聖寺 18, 73, 82番
千葉県の地名は読み方が難しいところが多いんですが、八ケ崎は、ヤツガサキでもなければヤガサキでもなく、ハチガサキと読むそうです。お寺の名前である長聖寺は「ちょうしょうじ」でいいのかな。
その長聖寺には大師堂がふたつあります。ひとつは境内の墓地の入り口にあり、江戸川八十八ヶ所のうち18番と73番にあたるようです。もうひとつは門前にあり、82番にあたります。
▲長聖寺・境内の大師堂18番と73番、ならびに松戸二十一ヶ所の15番。
お堂の両脇に柱状の石碑が2基あり、どちらも文政期のものです。現在知られている江戸川八十八ヶ所は昭和9年に開創されたものですが、江戸時代にあった八十八ヶ所霊場を弘法大師1100年遠忌にあわせて再整備したものだと言われています。文政期の石碑は旧江戸川八十八ヶ所の標石ということになります。刻まれている文字は以下の通り(■は文字が不明瞭な部分です)。
▼向かって左の石碑(文政六年/1823年)
【正面】 讃州 新四国 第七十三番 出釈迦寺写 【向かって右面】 文政六癸未星 十一月大吉日 世話人 村中 【向かって左面】 八照山金谷寺 九世梅花代
▼向かって右の石碑(文政七年/1824年)
【正面】 南無大師遍照金剛 【向かって右面】 文政七■申十月吉日 【向かって左面】 阿州恩山寺写 新四国第拾八番
▲堂内の大師像2体。木造でガラスのケース(厨子と言うべき?)に収められています。いつごろのものかはわかりません。像の向かって左に立て掛けられている札には「第十八番 本尊観世音菩薩」と書いてあるんですが、四国18番恩山寺の本尊は薬師如来だそうなので「あれ??」って感じですね。
扁額に刻まれている文字は以下のとおり。
【右端、縦長のもの】 江戸川八十八ヶ所 第十八番
【その左上の扁額】 第十八番 ■■■■■ そのちゝ■■■ おん■■■ ■■いか■■ こと■■ ■■■■ ■■■ 【不明瞭でほぼ読めませんが、四国18番恩山寺の御詠歌のようです】
【その下の扁額】 新四国江戸川第十八番 長聖寺 本尊不動明王 子(こ)をうめる其(そ)の 父母(ちゝはゝ)の恩山寺(おんざんじ) とむらひがたき ことはあらじな 昭和十一年 五月吉日 宮光内 初枝
【その左上の扁額】 松戸二十一ヶ所内 第十五番 東京 宝来講 新富■ 小赤
【その下の扁額】 新四国江戸川八十八ヶ所第七十三番 長聖寺 本尊釈迦如来 迷(まよ)ひぬる六道(ろくたう) 衆生(しゆじよう)すくはんと たうとき山(やま)に いつる釈迦寺(しやかでら) 昭和十一年 八月吉日 ■■た?け善
【左端、縦長のもの】 江戸川八十八ヶ所 第七十三番
そして、門前にも大師堂があります。
▲軒下にかかげられた札には「江戸川八十八ヶ所 第八十二番」と刻まれています。
▲堂内の大師像は…これは何で出来てるんでしょうね。木製なのか、鉄なのか、瓦なのか…とにかく、ガラスの厨子に収められています。その下には御詠歌の扁額も立て掛けてありました。
扁額の文字は以下のとおり。
新四国江戸川八十二番 長聖寺 本尊千手観世音菩薩 よひのまのたへふる 霜の消えぬれば あと■■かねの 勤行(きんきやう)の声 昭和十一年 ■■■日 ■■ 小■
松戸市二ツ木・蘇羽鷹神社内 庚申堂 81番?
下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』によれば、81番は元二ツ木(ふたつぎ)の庚申堂ということになっていますが、正確な場所は不明とあります。蘇羽鷹神社を81番とするのはネット情報なのですが、そのネット情報も何を典拠としているのかわからないものばかりです。たしかに蘇羽鷹神社内に庚申堂はあるんですけど、堂内には大師堂も御詠歌の扁額も、札所番号を刻んだ札もありませんでした。
二ツ木には常行寺の近くにもうひとつ別の庚申堂があります。今回それに気付かなくて現地には行かなかったのですが、ネットで写真を見る限り、こちらにも札所らしいものはなさそうです。
巡拝道順略図で常行院や光明寺との位置関係から言えば、81番の庚申堂はやはり蘇羽鷹神社内にあるものがそれらしいのですが、現在まったく確証のない状態であることを明記しておきます。
▲庚申堂内。石像は青面金剛です。大師像や、御詠歌の扁額や、札所番号を刻んだ札などはここにはありませんでした。
松戸市二ツ木・常行院 80番
▲二ツ木・常行院、大師堂。このお堂には弘法大師の石像がありました。堂の脇に見える石碑は苔むしてて分かりづらいんですが「円光大師■二十五霊場」とあるので浄土宗の霊場めぐりの案内です(これも松戸エリアに25ヶ所あるのだろうか?)。脇面に明治四十年代の造立年が刻まれていました。常行院(じょうこういん)は浄土宗のお寺です。
弘法大師は真言宗の開祖で、八十八ヶ所めぐりは真言宗の霊場巡りなんですが、別の宗派のお寺も札所になっている場合があります。本場四国の八十八ヶ所も全てが真言宗というわけではないそうです。
▲堂内の弘法大師像。右手で金剛杵を逆手に持って、左手に数珠を握っているのが弘法大師(空海)の印です。ほかに、沓(くつ)と水瓶、椅子なんかも弘法大師のシンボルです。円光大師(法然)だと両手で数珠を繰る姿に作られることが多いです。
▲大師像の台座。この画像だとわかりにくいんですが、左端に縦書きで「明治四十■年/五月十五日」と刻まれています(■は不明瞭な部分)。
江戸川八十八ヶ所は昭和9年(1934年)に古い霊場を再整備して開創したものです。そのため札所にある大師像は江戸時代のものだったり、昭和に作られたものだったり、さまざまです。
▲堂内に収められていた御詠歌の扁額。そっと取り出して撮影しました(もちろん元の状態に丁寧に戻しました)。扁額に刻まれている文字は以下の通り。
江戸川八十八ヶ所第八十番 常行院 本尊千手観世音 国(くに)を分(わ)け野山(のやま)を しのぎ寺々(てら/\゛)に まゐれる人を たすけましませ 昭和十■年 六月吉日 本所 宮光母
▲お堂の下に立て掛けてあった扁額。写真ではわかりにくいですが「■納 南無大師遍照金剛 東京 宝来講 世話人中」と刻まれています。宝来講の扁額は長聖寺にもありました。松戸二十一ヶ所のものだと思われます。
松戸二十一ヶ所は、いまのところいつ開創されたものかなどの情報がありません。札所の全貌も解明されていませんが、呼馬皐月さんという方のブログに扁額の写真入りで以下の10寺社(うち2件は番号不明)が挙がっています。
1番 松戸市根元・吉祥寺
9番 松戸市上矢切・宝蔵院
12番 松戸市栄町・正真寺
13番?松戸市松戸・来迎寺
15番 松戸市八ケ崎・長聖寺
17番 松戸市上本郷・本福寺
19番 松戸市南花島・栄松寺
20番 松戸市松戸新田・常照庵
番号不明 松戸市二ツ木・常行院
番号不明 松戸市中根・妙見神社
また、松戸馬橋二十一ヶ所というものが同一の霊場巡りだとする説もあるようなんですが、松戸と松戸馬橋は札所が被っているものの、完全に同一ではないようです(お世話をしていた講の名前も違う)。
それはともかく、今見ているこのページで扱っているのは「江戸川八十八ヶ所のうち常磐線の南側にある札所」ですので次へ行ってみましょう。
松戸市二ツ木・光明寺 79番
松戸市二ツ木・光明寺は江戸川八十八ヶ所のうち79番ということになっています。これは巡拝道順略図にあるので確かなことです。ただし、現在行ってみると、江戸川の札所だという痕跡はありませんでした。大師堂と大師像がありますが、像の台座には天保三年の造立年がありました。またその台座の下にもうひとつ別の台座があり、こちらには明治時代の日付と「第二十四番・誠心講」の文字が刻まれていました。また門前の標石には文政十二年の造立年と「二十四番」の文字があります。
▲大師像の二つの台座。もっと大きな画像を見たい場合は「ここ」を右クリックしてリンクを別のタブで開くとかしてください。左クリックで開いても大きな画像にならないかもしれません。下の台座は常光院にあるのと時期が近いですが、常行院のには講名がないので同じシリーズかどうかはわかりません。
【上の台座の文字】 天保三辰年 #1832年 九月吉日 敷石 大師 世ハ人 渋谷儀兵ヱ
【下の台座の文字】 第二十四番 明治四十二年 #1910年 誠心講 二月■■日【廿一日?】
また、門前には文政期の標石がありました。これも番号は24番です。
【正面】 ■二十四番 八拾八ヶ所 土州東三寺写 【向かって右面】 蘇羽鷹鎮守氏子■ 【向かって左面】 文政十■己丑六月吉日■
このとおり、見つかるのは文政〜明治までの札所の名残だけで、昭和初期の79番は残っていませんでした。
文政期といえば、長聖寺にあった文政六年、七年の石碑は現在の江戸川と番号が一致するため、現在の江戸川がベースにした霊場巡りだとわかりやすいのですが、光明院の24番は現在の札所番号とは違っています。ただ、標石は文政期のものなので、旧江戸川ではここが24番だったのかもしれません(現在の24番は柏市内正満寺。ただし豊四季の正満寺には大師堂がない)。
松戸市幸谷・幸谷観音(福昌寺観音堂) 33番、45番?
幸谷観音は江戸川八十八ヶ所の33番、45番ということになっています。幸谷は「こうや」と読むそうです。観音堂の境内に大師堂・大師像がありますが、刻まれている文字は33番です。45番についてはみつかりませんでした。
▲堂内の大師像。もっと大きな画像を見たい場合は「ここ」を右クリックしてリンクを別のタブで開くとかなんとかしてみてください。左クリックではダメです。台座に刻まれた文字は以下の通り。
【上の台座】 江戸川 大師 第三十三番 松戸市 幸谷 【下の台座】 真言講中 昭和二十八年 三月下の台座は戦後に作られたものですが、大師像とは切り離せる作りなので、同時に作られたかどうかはわかりません。上の台座は脇面まで見たつもりなのですが、造立年らしきものは見えませんでした。
「略図」にはほぼ同じ場所に45番も書いてあるため、幸谷観音かそれを管理している福昌寺境内にあってもよさそうなのですが、見つかりませんでした。
松戸市小金井・東漸寺 57, 58, 59番
松戸市小金井・東漸寺(とうぜんじ)は江戸川八十八ヶ所の57番、58番です。また一月寺(廃寺)の59番も当寺に移されています。一月寺はここより少し南にあったようです。
▲小金井・東漸寺の三つのお堂。手前の二つは大師堂ですが、一番奥は不動堂でした。
▲向かって右の堂内の大師像。台座に「千人講中」とありますが、脇面にも造立年や番号はありませんでした。堂の軒下に昭和期の扁額があり59番とありました。「略図」によれば開創時の59番は一月寺という別の寺にあったようです。
▲右の堂、軒下の御詠歌の扁額「五十九番 御詠歌 しゆごのため たてゝあがむる こくぶんじ いよ/\ めぐむ やくし なりけり」。この扁額は隣のお堂にまったく同じ形のものがあります。
▲真ん中の堂内の大師像。台座は慶応期のもので、番号はありませんでした。刻まれている文字は以下の通り。
慶応三年 卯八月 願主 正兵ヱ セハ人 仲■ ■右ヱ門 下町 源右ヱ門
▲真ん中のお堂の御詠歌の扁額・裏。これは右のお堂にあるのとまったく同じ形をしているため、同じ木材をスライスして作ったものだとわかります。また左のお堂にある扁額と奉納者が同じです。書いてある文字は以下の通り。
【表】 五十八番 御詠歌 たちよりて されいのとうに やすみつゝ ろくしを となへ きやうを よむなり 【裏】 奉納 小金町上廿内【あるいは「上サ内」】 渋谷光次郎 昭和十年参月吉日
▲左のお堂。堂内にあるのは不動明王の石像ですが、立て掛けてある扁額には57番の御詠歌が刻まれていました。
【表】 五十七番 御詠歌 このよには ゆみやをまもる やわたなり らいせはひとを すくふ みだぶつ 【裏】 奉納 ■町上廿内【あるいは「上サ内」】 渋谷光次郎 昭和十年三月吉日
この日参詣したのはここまでです。「略図」によれば小金井駅の近くに11番出世大師があったようなんですが、駅前は今風の再開発が進んでいて大師堂などどこにあるのかさっぱりわかりませんでした。もしこのブログをごらんになった方で、小金井駅の周辺に「出世大師」と呼ばれる大師像がある(あった)のを見た事があるという方はコメント欄でお教えくだされば幸いです。
まとめ
大師像はそれぞれの札所でデザインが一定せず、作られた年代も違っているかもしれない。年月日入りの台座も文政から戦後にかけてさまざま。御詠歌の扁額のみ、昭和10年前後のものが多い(これを開創当時のものとする)。
・長聖寺 18, 73, 82番/開創当時の御詠歌の扁額
・二ツ木庚申堂 81番/蘇羽鷹神社内には「何もない」
・常行院 80番/開創当時の御詠歌の扁額
・光明寺 79番/文政の石碑、天保の台座、明治の台座、番号は24番
・幸谷観音(福昌寺観音堂)33番、45番?/33は戦後の台座。45はない
・東漸寺 57, 58, 59番/開創当時の御詠歌の扁額
江戸川八十八ヶ所、再整備の歴史
旧江戸川→現江戸川の情報をまとめます。現江戸川と番号が違うもの、番号のないものも同じシリーズだと仮定すれば、ということですが。また「再整備」と書いたものも88ヶ所全体で行ったかどうかはわかりません。昭和9年の整備のみ、全札所が整備されています。
・旧江戸川は文政六年/1823年にはもうあった(長聖寺)
・文政十二年/1829年ごろまで標石などが建てられつつあった(光明寺)
・天保三年/1832年に再整備されてる(光明寺)
・安政五年/1858年にも再整備されている(金乗院)←当ブログ別の記事で言及
・慶応三年/1867年にも再整備されている(東漸寺)
・明治42年/1910年ごろに再整備されてる(光明寺)
・昭和9年/1934年に再整備されて現在の江戸川八十八ヶ所になる
・昭和29年/1954年にも再整備されている(幸谷観音)
地図
馬橋駅から小金井駅に向かって黒い線のような道順で回りました。もっと歩いたかと思ったけれど、google地図調べで5kmくらいの道程でした。
江戸川八十八ヶ所は流山市を中心に、三郷市、松戸市、柏市に渡る広範囲に札所があるので、葛飾区内在住のブログ筆者は全部まわる予定はないんですが、用事があって出かけた先々で行けそうなところは参詣しています。そのため記事がいくつかに分かれていて、現在のところ以下が関連記事になります。
◎江戸川八十八ヶ所のうち三郷市内の札所めぐり
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20200925p8437
◎江戸川八十八ヶ所めぐり流鉄沿線をいくつか
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20200929p8492
◎江戸川八十八ヶ所の49番 流山市長崎・金乗院
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20220527p8754
◎またまたみつけた霊場巡り(新田組二十一ヶ所)
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20161024p5865
↑これは別の霊場巡りの記事なんですが、一部の札所が江戸川八十八ヶ所とかぶっています。
ピンバック: 江戸川八十八ヶ所 柏市内24番と26番 | 超・珍獣様のいろいろ
ピンバック: 札所(霊場巡り)関連の記事一覧 | 超・珍獣様のいろいろ