葛飾区内の寺院にあった道標石(しるべいし)。奈良県や和歌山県の地名が書いてあるので地元のものじゃなさそうだけど……となんとなく写してきてツイートしたら、もともと立ってた場所がある程度わかってしまったという話。
葛飾区奥戸に妙厳寺というお寺があって、南葛八十八ヶ所(大正14年開創のいろは大師のほう)の88番だったりするので、久しぶりにちょっとお参りしたんですが、こちら境内や門前にどこから持ってきたのかよくわからない道標石のたぐいがいくつかあります。
今回たまたまそれを写してきてツイートしたら、熱い探求心でもともと立ってた場所をさぐってくれたフォロワーさんがいて、「おおむねこの辺にあったものだろう」ということがわかってしまいました。こういう面白いことはツイートで書き捨てにするよりブログにしておいたほうがいいかなと思い、記事にしてみます。
目次(ページ内移動)
第一の石碑:文化十一年道標石
さらに突っ込んだ考察
立ってた場所がピンポイントで判明する!
写真追加
第二の石碑:円光大師道標石
第三の石碑:安楽寺境内
第四の石碑:南庄道・仰木道の道標
第五の石碑:四箇領八十八箇所19番の道標
並記された58番は東葛西領八十八ヶ所
石碑の場所2022年現在
第一の石碑:文化十一年の道標石
【注】この道標に関しては、本文→追記その1→追記その2という構成になっていて「追記その2(ページ内移動)」では本当にどこに立っていたかが判明しますので、どうか最後までお読みください。2022年10月6日
写真を写した時は真剣に考えようとは思っていなかったので、あまり見やすい写真じゃないんですが、図にするとだいたいこういう感じになっています。
▲縦書きで書き起こしたもの。検索用にテキストでも貼っておきます。
【右面】 大峯山 すぐ よしの かう野 -------------------------- 【正面】 たつた 左 ほふりうじ 大阪 -------------------------- 【左面】 京 すぐ なら 郡山 -------------------------- 【裏面】 文化十一年 吉村氏? (あとは読めず)
裏面は現地でしゃがみ込んで写すとかすればたぶん読めるように写るとは思うんですが、今持ってる写真には読めるように写ってなかったです。文化十一年が造立年で、そのあとに寄進者の名前などが書いてあるかもしれません。#追記:ここには寄進者の吉村氏のほか、石工の名前が書いてあるそうです。後述しますのでこのまま読み進めてください。
わたしは最初「すぐ」は「もうすぐ」のすぐだと思っていたので、大峯山、よしの(吉野)、かう野(高野)のような広範囲がどうして「もうすぐ」なんだろうと思ってたんですが、これは「まっすぐ」の「すぐ」なんだそうです。しかも書いてある面を見てる状態で、その方向にまっすぐという意味なので、右面の「すぐ」と左面の「すぐ」は方向が違う。ツイートでつっこんでもらうまで気付きませんでした。
そもそも東京あたりにある道標石に「すぐ」って書いてあるのは見たことないです。だいたい左右、東西南北で書いてあるか、指さしマークみたいなのが彫ってあるような気がするんですがどうでしょう。東京近郊にもそういうのがあるよっていう場合はぜひ教えてください。コメント欄でもTwitterでもどうぞ。
方向がわかったところで整理すると、 ・石があった場所から見て北に「京・奈良・郡山」がある ・同、南に「大峯山・吉野・高野山」がある ・左へ曲がると「龍田(たつた)・法隆寺(ほふりうじ)・大阪」がある
…ということになるんですが、奈良に詳しいフォロワーさんが昔の街道などから考えて、今の国道24号線と同25号線の交わるあたりにあったんじゃないかっていうんですね。
昔の中街道(上代の下ツ道)は国道24号線より少し東の道だそうです。また龍田や法隆寺を経て大阪へ抜ける街道は今の国道25号線にあたる(その近くを通っていた)ということです。つまり、道標石は上の地図で薄紫の旗のマークあたりに立っていたに違いないと……
ひゃあ、大ざっぱにではあるものの、場所が特定されてしまいました。すごいな。わたしなんか奈良の地理がさっぱりわからず、この記事を書くまでに何度も脳内で道に迷って遭難しかけました!
この道標石、最初は「ずいぶんきれいだからレプリカなのかも?」とも思ってたんですが、妙厳寺さんにはもう一基謎の道標石がありまして、それは円光大師霊場の案内なんです。妙厳寺は真言宗のお寺で、円光大師は浄土宗の開祖・法然のことなので、わざわざレプリカを置かないと思うんですよね。つまり両方とも本物で、何かの理由で関西から運ばれて妙厳寺に納められたものなんだと思います。
追記その1:さらに精度が高そうな推理 2022年8月12日
えー、わたしとしては大ざっぱに「このへん」で十分満足だったんですが、フォロワーの a-rino-miさん(関西方面在住)の探求心に火がついてしまったみたいで、現地にまで足を運び、上記の場所(上代の中街道と斑鳩へ抜ける東西の道の交差するあたり)は違うだろうってことになったそうです。
【意見を変えた理由】
・上代の中街道は大和郡山を通らない
・上代の中街道は平城京には行くが、江戸時代に奈良の中心地だった場所へは行かない
・よって「すぐ(まっすぐ) 京・なら・郡山」という案内と矛盾する
【新たに推定された場所と理由】
・場所は現在の筒井駅前くらい。
・江戸時代以降の中街道沿いで、斑鳩へ抜ける道との交差点。昔は食い違い辻だった。
・食い違い辻だったのがいつの頃か普通の十字路に直されているので、現在その場所は街道じゃない。
▲上記画像は今昔マップよりキャプチャして引用。左が明治後期から昭和のはじめにかけての地図で、右が現在の地図です。ここをクリックすると今昔マップのその場所が別ウィンドウか別タグかで開きます。
▲こんな感じに食い違い辻になっていて、道標石は北西角に少し斜めに置いてあり、辻に立って見回した時に、まず「左 たつた・ほふりうじ・大阪」の面が目に入る。
・左(西)へ向かう道は、龍田・法隆寺・大阪へ行く
・道標の南側に立って「すぐ(まっすぐ=北) 京・なら・郡山」
・道標の北側に立って「すぐ(まっすぐ=南) 大峯山・よしの・かう野(高野)」
…ということです。な、なるほど。確かに筋は通ってる?!
▲筒井町西交差点(現在)ポイントの位置にある石柱は大正時代に作られた「筒井村道路元標」だそうです。昔の西へ向かう道は、ここより少し北、筒井駅前くらいにずれたところにあった。
妙厳寺にある道標は道路が現在のように直った時に撤去されて、もとの場所が道じゃなくなったので道に戻されなかったのではないか、ということみたい、です。
この件に関する a-rino-miさんのツイートは以下から読めます。返信を次々に追ってください。
お天気がいいのと今日は祝日で洗濯屋さん待ってなくていいので、お買い物がてら、こちらの文化十一年の道標があったと思われるところ(奈良中街道と北の横大路交差点)とついでに大和郡山市街の下街道を見てきました。 https://t.co/gqsnGlqOqr
— a-rino-mi (@rino221b) August 11, 2022
ええと、今後はさらに意見が変わっても、もうブログは直さないのでよろしくお願いします(笑)
追記その2:さらに新展開! 2022年10月6日
奈良県内の古い道標を記録する凄いサイトを作ってらっしゃる こいわい さんという方が Twitterで返信をくださいました。その方がおっしゃるには
・かつて田原本町郭内吉村邸前に立っていた道標である。(正しくは味間町とのこと)
・昭和60年(1985年)までその場所にあったことがわかっている。
・↑その後の調べで平成15年(2003年)頃に現地から消失したことが判明。22/10/09追記
・現地に立てられていた頃の不鮮明な写真が残っており、妙厳寺にあるものと欠けが一致。22/10/09追記
・妙厳寺門前にこの道標が現れるのは2020年11月〜2022年8月の間のいつか(ストリートビューで確認)22/10/09追記
・吉村邸はすでに取り壊されて集合住宅になっている。
・現在はライオンズクラブにより復元されたものが現地に立てられている。
◎この件に関する こいわい さんからの返信
https://twitter.com/koiwaimichi/status/1577663725225406464
◎こいわいさんのブログ:田原本町の消失道標が東京にあることがわかった。
https://ameblo.jp/prizmilk/entry-12767991715.html
これはすごい。起き抜けにネタ画像を描いてしまうくらいの衝撃展開です!! 正直いうとこんなものに記録なんか残ってるわけがないと思っていたし、いくら考察したところで確認などできないと思っていたのです。だからもうTwitterで何か発展してもそれはそれ。ブログの記事はこのまま完結でいいだろうと。
ところがどっこい、記録が残っていただと……しかも現地に復元された道標が立っているだってぇぇぇ?!
こんな時こそストリートビューです。場所は奈良県田原本町の、田原本陣跡とされる場所だそうです。
あっ、本当だ。新しい道標が立ってる。刻まれている内容が妙厳寺にあるのとおんなじだ……! 昭和60年といえばたかだか37年前です。つい最近のことなので撤去される前の記録に写真があったんでしょうね。ストリートビューには文化十一年吉村氏の面も写っています。わたしが妙厳寺で写してきたものだと不明瞭で読めなかった部分は「石工当所/佐兵衛」と書いてあるようです。
うっわー、なんかすごい、すごいとしか言えない。記録は大事だね。どこにどういう状態で立っていたか、何が刻まれていたか、写真や文字で残すということは本当に大事だと思う。今は大人のほぼ全員がカメラ(スマホ)を持ってる時代だから、みなさん気になるものはなんでも撮影して、歴史的なものかなと思ったらSNSなどでシェアしておくべきだと思います。そして、個人の記録なんてと卑下せず、書いたものをあっさり消したりしないこと!
それにしてもこんな新しいものでさえ工事の都合で撤去されたあともとに戻されずに処分されてしまんですね。きっと妙厳寺さんも、奈良のどこから運ばれてきたかまではご存知ないだろうし、立ってた場所までわかりましたって教えてあげたらうれしいのかなあ。それとも「あっそう」っていう感じかしら。お寺に持ち込まれるもののひとつひとつにそこまでの思い入れがあるとも思えないから、大した感慨もなくなって不思議はないと思います。でも、これがきっかけでオリジナルがもとの場所に里帰りするなんてこともありえなくない気がするし、妙厳寺さんがネットをやってたら、とりあえずお伝えするのになあ。お寺に訪ねて行ってごめんくださーいって言ったっていいですが、こんな込み入ったことを立ち話で伝えられる自信がわたしにはないんですよねえ、残念(笑)
この件に関しては本当に実りある結果を得られました。a-rino-miさん、こいわいさん、その他Twitterでいいねやリツイートや返信をくださったみなさん、ありがとうございました! 追記その2ここまで。
見づらかった裏面の写真を追加
奈良県の吉村邸跡にあるレプリカは裏面に「吉村氏 石工当所 佐兵衛」と刻まれているのがストリートビューでも確認できるし、こいわいさんがブログに貼ってくれた写真でもわかります。、奥戸妙厳寺にあるオリジナルがどうなっているか改めて確認しに行ってきたのですが「石工当所 佐兵衛」の部分はかすれてしまっていて、何が書いてあるかあらかじめ知っていても読めない状態でした。
◎こいわいさんによる解読(画像あり)
https://twitter.com/koiwaimichi/status/1579832897002909697
第二の石碑:明和四年の円光大師二十五霊場の道標石
で、その円光大師霊場の道標石はこれです。これも葛飾区奥戸・妙厳寺の境内にありました。
▲縦書きで書き起こしたもの。この道標はどこが裏か表かよくわからないので、円光大師と書いてある面を正面としました。検索用に下にはテキストで貼っておきます。
【正面】 円光大師 諸国二十 五霊場 ----------------------------- 【右面】 右 第九番たゑま道 ----------------------------- 【左面】 明和四年 丁亥正月吉日 大坂講中 ----------------------------- 【裏面】 左 大川みち
これは難問でした。なんせわたしは西のほうの地理がまったくわからないので(東京のもわからないですけど!)、フォロワーさんが教えてくれることが最初まるっきり理解できず、なんでそこだって思うの???(目が点)だったんですが、返信をよくよく読んで、自分でも街道について調べたりして、なるほど、そういうことかと納得できました。
まず円光大師二十五霊場ですが、法然誕生の地から浄土宗が開かれた場所まで、岡山、香川、兵庫、大阪、和歌山、奈良、三重、京都、滋賀の2府7県(で合ってる?)にまたがる霊場巡りなんだそうです。>Wikipedia – 法然上人二十五霊場
第九番たゑま道(=たいま道)は当麻寺(當麻寺)へ行く道でしょうね。でも、どこから? 8番と9番の間にあったかもしれないし、9番と10番の間かもしれない。そもそも霊場巡りは番号通りに回るとも限らないですし。
でもフォロワーさんが「たぶん泉南市のあたり」とおっしゃるので、円光大師二十五ヶ所を地図にしてみるなどして腕組みしたり、あきらめて寝落ちしたりしながら考えました。
・1番から順に回るとすると、7番の次が激しく二方向に別れている。
・一方は7番の一心寺(大阪市天王寺区)から紀州街道で南下する。堺のあたりで「左に曲がると たゑま道」で9番の当麻寺に到着。
・もう一方はそのまま紀州街道を行く。どんどん海沿いを行くと8番の報恩講寺(和歌山市大川)に到着。
という位置関係になるようです。図にするとこんな感じ?
この位置関係で「右二行くと たゑま道」「左へ行くと大川みち」になるような場所で道案内がほしいなあと思えるのは、
・堺のあたり
・泉佐野市で紀州街道と孝子越街道が分岐するあたり
・泉南郡岬町て孝子越街道と大川越街道が分岐するあたり
この3パターンを思いつきました。
それから道標石の写真をいろいろ検索してみたところ、「たゑま道」への案内は沢山あるんですが、大川(あるいは大川道)への案内があんまりない。もしかすると大川への案内は、かなり狭い範囲にしかなかったのかも。
そう思って、泉佐野市とか泉南市にしぼって道標石の写真を見ていったら、泉南市樽井というところに「大川」の案内があるとこのサイトにありました。
◎泉南市の歴史街道(3)根来街道 | 恋するせんなん
https://welcome-sennan.com/tourist-spots/negoro-kaido
それから、大阪府の石碑をまとめたページをみつけて、その中で「大川」の文字があるものを探したところ、大阪府だと泉佐野市、泉南市、阪南市、泉南郡にはあって、それ以外のところにはなさそう? という事がわかりました。
また「たゑま道(たえま道、たいま道)」の案内も、大阪府だと貝塚市や羽曳野市にはあるのですが、それより下り側の街道にはなさそうなこともわかりました。
◎近世以前の土木・産業遺産 – 大阪府
https://www.kinsei-izen.com/area_data/28_Osaka.html
ということで、下の図の○の範囲内くらいまでしぼれるんじゃないかと思うんです。(範囲を報恩講寺まで広げました2022年8月9日)
この○の範囲内でも
・泉佐野市鶴原近辺(紀州街道と孝子越街道の分岐点)
・泉南郡岬町近辺(孝子越街道と大川越街道の分岐点)
・8番報恩講寺を出てすぐのあたり(9番への案内があるため)
このどれかあたりにあった可能性が高いのでは? というのが現在の結論です。なお、ネット上でみつかるのは「大川」への道案内であって、「大川道」という表記のものはみつかってないです。妙厳寺にあるものはもしかしてレア(貴重品)なんだったりして。←大川道はない、というのは間違ってた。大阪府の道標を集めたサイトをよく見直したら「大川道」という表現のものもちゃんとありましたよ!どちらかというと「たゑま道」と「大川道」を並記してる例が他にないかもです。
もちろんこれらはあくまで推測で、確認のしようがないのですが、かなり鋭く推理できてるんじゃないかと思うんですうけど、いかがでしょう(いや、もう、わたし西のほうの地理がさっぱりで、Twitterで教えてもらわなければ「なんで関西のものが葛飾区に……?」とつぶやくだけで終わってたと思うwww)。
ツイートそのものをまとめたほうが紆余曲折が面白いだろうなーとは思うんですが、わたしがポンコツなのであり得ない勘違いをしてたりして、面倒なのでかいつまんでまとめてみました。
なんで関西方面の道標石が葛飾区のお寺にあるか、これはもう完全に想像ですが、たとえば造園業や道路工事の業者がどこからか引き取ってきたものの、処分してしまっていいのか悩んで持ち込んだ、とかでしょうか。一般の人だとそういうものは現地に置いてくるか、あった場所の近くのお寺に納めるような気がするんですよね。まあ、業者だとして、わざわざ東京から関西に仕事に行くかしらという謎は残りますけど。ここまで来たらお寺さんに聞けば……と自分でも思わなくはないんですが、仮に聞いたとしても、昔の事だと覚えてる人がいないかもしれないです。
第三の石碑:安楽寺境内
実は、その1・その2は、この「安楽寺境内」の謎を解く前段階でもあるんです。この石は本当になんなのかわからない。
ここまで来るのに力尽きてしまい、写真はこれ一枚でごめんなさい。といってもこの石には大した事は書いてないんです。
【右面】 従是西 【正面】 安楽寺境内 【左面】 従是東
これだけです。裏面には何も刻まれていませんでした。安楽寺の境内の範囲を示しているだけの石柱です。
このあたりに安楽寺という名前の寺があったのかなあとぼんやり考えながら、江戸時代の葛飾あたりの地誌である『葛西志』とか、古い寺をまとめた『大日本寺院総覧』とかを見たんですが、安楽寺は葛西村(江戸川区の宇喜田とかのあたり?)にはあったらしいんですが、奥戸近辺だとそれらしいものがみつからない。このお寺で公式に編纂された『妙厳寺誌』という本にも、西光院という寺が明治初期に合併したことは記録にあるんですが、安楽寺については書かれてなかった……と思うんですよね(一字一句逃さず読んだわけじゃないのであったらごめんなさい)。
それで、結論としてはどこから持ってきたものなのかわからないんですけど、奈良県や、もうすぐ和歌山県みたいな大阪府から持ってきた道標が存在しているので、これもどこか遠くから持ち込まれて引き取っただけなのかなと、今のところ納得しています。
というわけで、奥戸・妙厳寺にある謎の道標石でした。最後のは道標じゃないですけどね。
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第四の石碑:右○○ 左○○道 2022/10/12追加
ついでなので追加しておきます。この石碑(標石)は、2022年現在は奥戸妙厳寺の東側の門を入ったところにあるのですが、2020年までは同門前に設置されていたことがストリートビューで確かめられます。刻まれている文字がほとんど読めなかったので保留していたのですが、日を改めて撮影してみたところ一部が読めたので記録しておきたいと思います(この手の石碑は光の加減で文字が読めたり読めなかったりするので、どうしても内容を知りたい場合は何度か見に行く必要があります)。
▲実際にはまっすぐ立っているのですが、斜めに写ってしまったもののほうが文字はよく見えそうなのでこっちを貼っておきます。
文字はこんな風に読めそうです。■の部分がどうもはっきりせず、四か西のような文字に見えます。四木(四つ木)なら葛飾区の地名ですが、南庄のほうがここいらでは聞いた事のない地名です。
Twitterでも意見を聞いてみたところ、第一の石碑(文化十三年のもの)でお世話になったこいわいさんが「仰木でしょう」と、見やすいようにコントラストを調節した画像まで作ってくれました。以下から見られます。仰木(おおぎ)も南庄(みなみしょう)も滋賀県大津市の地名だそうです。
◎こいわいさんの解読
https://twitter.com/koiwaimichi/status/1579827951012843520
こいわいさんのツイートには国土地理院地図のURLもあります。google地図だとこのへんで、南庄と仰木の位置関係から、黄色っぽい四角でかこったあたりのどこかに立ってたんじゃないでしょうか。
▲拡大縮小できますので、日本全体みたいな表示になってしまってたら琵琶湖のあたりを拡大してみてください。
すごい、これまた大ざっぱにどのへんに立ってたものなのかわかってしまいました。西の方は聞いた事すらない地名も沢山あるので、教えてもらわなかったら 「左 四木」 だと思ってうなり続けていたかも知れないです。
検索用:滋賀県大津市 仰木町(おおぎまち) 伊香立南庄町(いかだちなんしょうまち) 仰木道 南庄道
第五の石碑:四箇領八十八ヶ所のしるべ石(地元のもの) 2022/10/12追加
これは東の門前の、植え込みの奥にひっそり立っていて、植え込みに分け入らないと写真もとれないようなところにあります(そっと荒らさないように分け入りました。すみません)。ほかの石碑と違い新四国四箇領八十八ヶ所(以下・四箇領と略す)の標石なので地元のものです。妙厳寺は四箇領の十八番札所にあたります。存在自体は謎ではないのですが、内容を見ると「あれ?」と思う部分があります。
こういう石碑に裏表の概念はないかもですが、呼び別けられないと面倒かもしれないので「新四国八十八ヶ所……」と書かれた面を表とします。
弘法大師霊場は日本全国どこにあっても基本「新四国○ヶ所」という名前になります。四国にオリジナルの八十八ヶ所があり、その写しを新たに作りました、という意味です。それだと見分けがつかなくなるので地名などを冠して呼ばれています。四箇領は西新井組という名前で呼ばれてることもあります。
▲裏面:右向きの指さしマークと「十八番へ」。十八番が妙厳寺です。
▲右面:第五十八番伊予国佐礼山仙■■■写/第十八番阿波国母養山恩■■写(■は欠けていて読めない部分)
この右面が謎ですね。表に「妙厳寺」と書いてあるので、十八番妙厳寺の案内になっているのが普通です。四国の十八番は「阿波国(徳島県)母養山恩山寺」です。ところがここには五十八番「伊予国(愛媛県)佐礼山(作礼山)仙遊寺」の情報も並記されています。
四箇領は江戸時代に作られた霊場巡りで、途中何度か再整備されて霊場が入れ替わったりしていますが、五十八番は吉川市内にある寺としている資料が多いです。たとえば嘉永四年(1851年)の文書によれば五十八番は「高留・竜善院」とされています(この文書は翻刻文が『三郷市史』に収録されています)。高留は吉川市の地名で、現在は高富(たかどめ)と表記される場所です(五十七番が南に隣接する高久、五十九番は北に隣接する木売にある)。
吉川市は、葛飾区奥戸からはるか離れていて、ぜんぜん近くありません。一体なぜ妙厳寺の案内に「五十八番……写」の文言があるのでしょう。四箇領についてはあまり深く考えたことがないですし、ここでは石碑の記録が主な趣旨なので「とにかく謎だ」とだけ書いておきますが、もしかすると四箇領の霊場の変遷をさぐる重要な資料かもしれないですね。
ってか地元の霊場巡りの案内を、なんでこんな植え込みの奥に隠してるんだろう、妙厳寺さんは(笑)
58番はたぶん東葛西領八十八ヶ所の札所 2022年10月15日追記
第五の石碑は「四箇領」の道案内であることは確かなんですが、並記されている 58番は、もしかすると別の霊場巡りの番号かもしれません。こういった道案には作られた当時メジャーだった別の霊場巡りの番号も並記される場合があります。
奥戸あたりで四箇領以外で盛んだった江戸時代の霊場巡りに「東葛西領八十八ヶ所(以下、東葛西領と略す)」というのがあります。この霊場巡りは明治の頃には廃れていました。文久年間の巡拝記でどの村を通るかはわかっているのですが、具体的な札所の場所は記録がありません。今でもいくつかのお寺に御詠歌の扁額と石碑が残っていますが、それも本当にごくわずかです。
その数少ない痕跡(まあ、わたしが別の霊場巡りをしながらついでにみつけたやつなので、すべてを網羅しているわけではないですが……)を見直してみると、
・江戸川区上一色の正蔵院に東葛西領56番の石碑がある
・葛飾区細田の東覚寺に61番の御詠歌の扁額がある
▲黄緑色のポイントが奥戸妙厳寺です。その東南(右下)に56番の正蔵院、北東に61番の東覚寺があります。○に★は文久年間の巡拝記録にある「村」を拾ったもので、その場所に何かあるというわけではありません。
この位置関係から考えて、奥戸・妙厳寺は東葛西領の58番だった可能性が高い、というか、そうだと言い切って良さそうです。
東葛西領は、ネットにも出版物にも88ヶ所そろった札所リストが掲載されていることがあるんですが、それらは
・文久二年の『東葛西領八十八ヶ所詣ひとり案内』という巡拝記でまわった「村名」を手がかりにする
・今もわずかに残っている扁額と石碑を東葛西領のものだと仮定する
・弘法大師霊場だから寺は真言宗だろうと仮定する
・当時の街道沿いにあっただろうと仮定する
…とかで、各研究家が「推理」して作ったものなんです。ただ、そういう研究家の人は、リストだけ作って発表する(あるいはそれを見た人が信じ込んで決定版としてリストだけ引用転載する)ので、何をもとにそう考えたのか、知られていないし知ろうともしない人が多いです(笑)
だからこういう痕跡を見つけると、ちょっとうれしいです。きっと札所研究の先人たちはもう知ってるでしょうが、公表されてないもんは自力で探すしかないですし。
これに関しては下記のブログにも追記しておきます。
◎何に属するかわからない札所番号(おそらく東葛西領八十八ヶ所)
https://nankatu.hatenablog.com/entry/2020/12/30/104122
↑このブログは、明治43年と大正14年に作られた二つの「南葛八十八ヶ所」をまわって、札所がいまどうなってるのかを記録したもので、あまりにも情報量が多いので、別のブログを立てたんです。その際に、南葛とは違う番号の入った石碑や扁額をみつけて集めたのがリンク先になります。説明長いね。
石碑の場所2022年現在 2022/10/12追加
地元のものではない石碑は庭石と同じ扱いでしょうから、庭園を作り直すと移動しちゃう可能性は高いですが、今どうなってるかの記録をしておきますね。
妙厳寺さんには探すとほかにも興味深い石碑があるかもしれないですが、今日のところはこのへんで。もっとさらっと終わる予定だったのですけど、結局あれこれ追記してゴテっと見づらい記事になってしまいました。全部突っ込まずにひとつずつばらせばよかったかな(笑)
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なーるほど。遥か西国から標石が飛んできたということですか。となるとこの安楽寺っていうのももしかしたら北九州にあった大寺のものの可能性もありかも。確か「こんにゃく物語」には安楽寺も出てきたと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
それにしても西も東も安楽寺っていうのが凄い。境界の標石だっていうんなら判るけど、全部おいらのところだぞとは、なんとも。こんな標石はあまり例がないんじゃないでしょうか。
一円さんお久しぶりです。たしかにどこの物があったとしても、もう驚かないです(笑)
安楽寺境内の石は範囲を示してるんだろうなあとは思うんですが、実際なんなのかはよくわからないです。確かに東も西も俺のもの、みたいなのは珍しいかもしれないですね。同じような石が何個かあって境内地をかこっていたのかもしれないですが、妙厳寺にあるのは本文に貼った一個だけだと思います。