水の神の寿命
 
 
◆水の神の寿命
 むかし、ある男が旅の帰りに日がくれてしまい、土地神様をまつる小さなお堂に泊まることにしました。まっくらなお堂で、ひとり横になっていると、真夜中にだれかたずねてきて、
「この先の村で子供がうまれるので来てくれないかね」
と、いうのがきこえました。すると、お堂のおくから、
「すまんが、見てのとおり、ふいのお客があって行かれない。今日のところはみなでいいようにしておいてくれないか」
と、声がしました。

 それっきり、またしずかになりましたが、しばらくすると、さきほどの声の主がたずねてきて、
「お産はぶじにすんだよ。かわいい女の子だった。けれど、その子の寿命は七つの水の命と決まっていてね、その年ごろになったら水神が海にでもさそいだして命をとることにした」
と、いいました。
 どうやら、声の主はお産のときに子供に運命をさだめる神さまのようです。お堂のおくにいるのも神さまなのでしょう。

 お堂の神さまがいいました。
「ほう、そうかい。それで、その子のたすかる道はないのかね」
 すると、もうひとりの神さまがいいました。
「七つのお節句さえこせれば、あとは長生きできるはずだが、まあ無理だろうな」

 男は、お堂のすみできき耳をたてながら、そういえば村にのこしてきた妻が臨月をむかえるのは今ごろだったはずだと思いました。つぎの朝、男が大いそぎで村までかえってみると、やはり妻が女の子を生みおとしていました
 父親はお堂できいた神さまたちの話が気になって、娘を水のそばに近づけないようにしました。そのせいか、娘は七歳になるまでこれといった病気もせず、すくすくとそだちました。
 ところが、いよいよ七歳のお節句がちかづくと、村の女の子たちが海に行こうとさそいにくるので、娘はどうしても行きたいといってききません。父親はしかたなく、娘を柱にしばりつけてしまいました。

 そこへ、とおくの村へとついでいった叔母がやってきて、
「子供をしばりつけるなんて、いったいどういう親なんだろうね」
といって、娘をほどいてやろうとしました。父親は、娘を水神にとられてはたまらないと、
「かってなことをしてもらってはこまる」
といって、強引な叔母を木ぎれでたたいておいはらおうとしました。

 すると叔母は、あたりどころがわるかったのか、その場にたおれて死んでしまいました。こりゃ、えらいことをしてしまったと、父親がおろおろしていると、
「おや、なんのさわぎだい」
と、ほんものの叔母がお節句のおいわいにやってきました。
 見ると、さきほどたたき殺した女は河童のすがたにかわっていました。水の神さまが、叔母に化けて娘をとりにきたのでしょう。

 こうして、娘は七つのお祝いをすませ、それからは何ごともなく、長生きしたということです。


◆水難の運(栃木県)
 鉄砲打ちが山で道に迷い帰れなくなった。暗い道をさまよっていると、地蔵をまつるお堂があったので一晩泊めてもらうことにした。

 お堂で寝ていると、夜中にがやがやと誰かがやってくる気配がした。そっと目を開けてみると、石の地蔵さんが何人も立っていて、「今夜もお産があるから早く行こう」と、お堂の地蔵さんをさそっていた。

 お堂の地蔵が「今夜はこのとおり客がいるから行かれない」というと、「なら今晩は我らが行って様子を見てこよう」と、他の地蔵さんたちは出て行ってしまった。

 しばらくすると、また地蔵さんたちが戻ってきて、「今夜は○○村の××の家でお産があって男の子が生まれたが、十五の年の河童の餌食となる生まれだ」という。○○村の××というのは鉄砲打ちの家のことだった。

 夜が明けると、鉄砲打ちは慌てて山をおりて家に帰った。家では妻がお産を終えていた。生まれた子供は男の子である。

 その子も十五になると、鉄砲打ちはあの夜のことを思い出して心配でたまらなかった。しかし何事もなく一年が過ぎ、とうとう十二月の一日になった。母親がボタモチを作って「お世話になってる学校の先生に渡すんだよ」と、息子に持たせた。

 息子は学校へ行く途中で橋を渡ったが、河童が出てきてボタモチを奪っていった。息子が家に帰り、「ボタモチは河童が取っていった」というので、鉄砲打ちは大変よろこんで「ボタモチでよかった。ボタモチを持っていなかったらお前がとられたんだ」といった。
 

 
◆こぼれ話◆

  このお話の結末は大きく分けて二種類ある。ひとつは上に紹介したようなハッピーエンドだが、もうひとつは「これでもう大丈夫、助かるぞ」と思わせておいて娘が「水」と書かれたのれんに首をつっこんでおぼれ死んでしまうというバッドエンドである。

 「生まれてくる子供の運命は○○である」と知らされて苦悩する親の話はほかにもたくさんある。たとえば「息子は杖一本、下女の娘は塩一升の運命」と知った父親は、運命にあらがおうと下女の娘を息子の嫁にする算段をつけるが、運のない息子は許嫁を追い出して結局は路頭に迷う(運定め0208)。厚東判官は仏に祈願して娘を授かるが、「十一歳になったら仏の国に返す」という約束を無視して迎えの僧侶を追い返したばかりに城ごと滅びてしまう(厚東判官)。

 子供は神仏からの授かり物だという考え方がある。医療も発達していなかった時代に子供が成人するまで育つのは大変なことだった。抵抗力のある大人と違い、ちょっとした病気が命取りになることもある。そういった危うさが神仏の国に半分足をつっこんでいるように見えるのだと思う。

 だから人は成長の節目にお祝いをして「この子は少しずつ人間になってますよ」と神仏に報告する。その最初が三歳で、次は五歳、そして七歳。つまり七五三のお祝いである。七五三というのは「この子は大きくなったので、もう神や仏の国には帰りませんよ」と宣言するための儀式なのかもしれない。

 思えば「通りゃんせ」という童歌も子供が七つになったお祝いにお札を納めに行く歌だし「行きはよいよい、帰りはこわい」なのである。

 厚東判官の例でいくと娘が十一歳になったら仏に返す約束になっているが、十一は七の次の素数(自分と一以外に割り切れる数字のない数)なのが面白い。
 

 
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