弘法大師伝説 |
◆あとかくしの雪(一) むかし、みすぼらしい姿の旅の坊さんがやってきて、村の者に一晩泊めてくださいとたのんでまわりました。けれど、どこの誰ともわからない、みにくい坊さんを家に泊める者は誰もいませんでした。真冬で今にも雪がふりだしそうな日で、野宿をするわけにもいきません。 坊さんが最後に戸をたたいたのは、村でも一番まずしい家で、お婆さんがひとりきりで住んでいました。お婆さんは気の毒な坊さんを家に招きいれて、何か温まるものでも食べてもらおうと思いましたが、自分も貧しくて今夜食べるものにも困っていました。しかたなく、よその家の畑で大根を盗んで、坊さんに煮て食べさせました。明日になれば足跡で誰が盗んだかわかってしまうでしょう。 翌朝早く、坊さんはまた旅立ちましたが、そのあとに雪がふって地面をすっかり隠しました。お婆さんの足跡も雪で隠れたのです。坊さんは弘法大師というえらい僧侶で、お婆さんの優しい心を知って、法力で雪をふらせたのです。 ◆あとかくしの雪(二)福島県大沼郡金山町 むかし日本にはまだ麦がありませんでした。お大師さまが唐の国(中国)に留学したときに麦という穀物を見て、なんとか日本に持ち帰りたいと思いました。麦ならばやせた土地でも育ち、米のできない冬にも育てられるから人々の役に立つと思ったのです。けれど、麦は大事な穀物なので、農民にいくら頼んでも外国人のお大師さまには売ってくれませんでした。 仕方なくひとつかみの麦を盗んで、足のすねを切り裂いて、傷口に麦を詰め込んで、布っきれでぐるぐるまいて隠してもって帰ろうとしましたが、痛くてうまく歩けないので、歩いたあとに痛々しい足跡が残りました。 その足跡を隠すように雪が降ったというのです。その日が旧暦の十一月十四日で、今でも毎年その頃になると雪が降るのです。
↓以下は弘法大師とか空海とかいう名前は出てこないけれど、弘法大師伝説のパターンなので。
すると、僧侶は
それを聞いた僧侶が錫杖(しゃくじょう)の先で大地を突くと、たちまち湯煙があがり、豊富なお湯がわきはじめた。老婆は大喜びで僧侶にお礼を言おうとしたが、気づいたときには僧侶の姿は見えなくなっていた。 この僧侶は有名な弘法大師で、川場温泉では今でも湯船のそばに弘法大師をまつっている。温泉の湯は脚気にきくと評判が高い。
◆エグ芋伝説(鳥取県)
むかし村の老婆が芋を洗っていると、旅の僧侶が芋をひとつ供養してほしい(下さいということ)と言った。しかし、老婆は欲の深い人だったので芋が惜しくなって、 「この芋は石芋といって煮ても焼いても食えませんよ」 と答えた。すると僧侶は芋をひとつ手にとって何かを唱えて老婆に返した。見ると芋は本当に石のように固くなってしまった。 老婆が芋を捨てると、その場所に泉が湧き、芋は芽をふいていつまでも枯れなかったが、石のように固いままで煮ても焼いても食べられなかった。 石の芋が生えている場所にはこんもりと松が生えているので芋の森と呼ばれるようになった。僧侶の正体は弘法大師だったと言われている。
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◆こぼれ話◆ 弘法大師・空海は真言宗の開祖で宝亀五年(774年)に生まれた。幼名を真魚(まお)という。母親の玉依御前はインドの聖者が懐に入る夢を見て懐妊したといわれている。 七歳になると人間の存在について深く考えるようになり「わたしは仏の道をきわめ人々を救いたい。わたしにその資格がないなら死んでしまったほうがいい」と叫んで崖から飛び降りた。すると天女が現れて真魚の体を受け止めて救ったという。以来、仏道に励んだ。 十五歳で受戒して名を空海と改める。三十一歳で唐に渡り二年間の留学を終えて帰国。大規模な治水工事を異例の速さで完成させたり、民衆の教育に力を入れたりした。いろは歌を作ったのは空海だと言われている。 承和二年(835年)に高野山金剛峰寺において入定。六十二歳だった。
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