序文


 三世紀のおわり頃、中国の博言学者 郭璞(かくはく) が『山海経』に注解をつけ、その序としてこのような文章を残している。
「荘子曰く、人の知るところはその知らぬところに及ばず、と。私は『山海経』でその意味を理解した。思えば宇宙の広大なること、命あるものの数は多く、様々な種別があり、陰陽はあたため養いあって、精気は入り交じり、互いにはげしく湧きたつ。幽霊や怪物は物象にふれて化け、山川にすがたを現したり、木石にすがたを見せるなど、いちいち言うまでもない」
 まさしくその通り。世界は命に満ちれている。それは人や獣や鳥や魚や虫といった生物と呼ばれるもの、あるいは石や土といった無生物と呼ばれるものの中にもあって、今にもあふれそうなほどにふくれあがっている。時には与えられた形の中からはみ出し、その手足を広げようと試みるのだが、時としてその働きを人の目が捉えることもあろう。それが世に言う妖怪変化の類である。
 わたしはそれら変化の類が好きだ。ふたつの首があるというなら、そのふたつの首を、鳥の体に人の手があるというなら、まったくその通りの造形を、隣の家で飼われている犬と同じように身近に感じ、疑うことなく認めたい。多くの人が花をみて美しいと感じ、身近におくことを望むように、わたしもまた、もののけの類が光や雨や風と同じようにあたりまえの現象としてあることを望んでいる。このようなわたしが『山海経』という書物に心ひかれるのは、ごく当然のなりゆきというものだろう。そして、その内容について、いくらかの私見を述べたいと思うのも無理からぬことだ。
 しかしながら、『山海経』に見える妖怪変化の類を、ただ妖怪として紹介するだけならば、水木しげる氏をはじめとする多くの先人たちが自分よりも立派な仕事をすでにこなしておられる。そこでわたしは、他にない切り口を求めなければならなかった。
 先の郭璞はこうも書いている。
「世に言う異常も、それが異常であるとは言えず、世に言う異常でないことも、それが異常でないとは言えない。なぜなら、物それ自体から見て異常なのではなく、人の我見をたてて後に異常となるのであって、異常は見る人の中にこそあり、物それ自体が異常なのではない。胡人は布を見ては麻かと疑い、越人は毛織物を見ては毛皮かと驚く。このように人はしばしば見慣れたものでものごとをはかり、希に聞くものを奇妙なこととするのだが、人情とはまったくそういうものである」
 今までに見たこともない珍しい物について理解しようとするとき、人は過去の記憶を呼びおこし、もっとも似通った場面をあてはめて理解しようとする。この時、希であっても確かに存在する事実は、人の目を通してありえないような異常なものに変化する。
 考え方の順番を変えてみよう。自分の知っているものを、言葉だけで他人に説明するのだ。たとえば、

   上は洪水、下は大火事。

 日本で子ども時代を過ごした者ならば、こういった謎を知らぬ者はあるまい。
 洪水と大火事が同時におこるという矛盾はまったく有り得ないようだが、子ども等はいとも簡単にこの謎を解くではないか。むろん、答えは「風呂」である。
 幼年時代のたわいもない遊びに思いをはせつつ『山海経』を読み返した時、わたしはその奇異な内容に見慣れた世界が隠されている可能性を見いだした。
 こうしてわたしは、あえて妖怪変化の正体を探るという形でこの本を書いた。書き上げた今、してやったりという思いと同時に、ひどく後悔もしている。なぜなら、わたしは妖怪変化をそのままの姿で愛するのであって、その正体をあばいて他のものに変えてしまうことを、必ずしも望んではいないからなのだ。
 人はその好奇心によって世界をくまなく見聞きした。それによって、水平線の彼方には世界の果てなどというものは存在せず、それまであると信じられた多くの奇異なる生き物たちの存在を、否定しなければならなかった。
 わたしはそれと同じ業を、愛すべきもののけたちに対して用いてしまったのだ。これは、もののけの友たるを望む者にとって贖罪に値する行為といえる。
 しかしながら、次第に発展しつつある科学のなかにも、もののけたちに新たなる化のエネルギィを吹き込む足がかりを見いだせる。ある学者によれば、リンゴを箱にいれて密閉し、それを五分後に開封したとき、もう一度同じリンゴを確認できる確率は100%ではないのだという。どのような物質も、原子と原子、分子と分子の複雑な結びつきによって成り立っているのならば、何かの拍子に原子に帰る可能性は、限りなく0に近いものの、皆無ではないのだ。
 ならば、人が現実と感じるこの世界も、ただ存在する可能性が限りなく100%に近いというだけで、絶対に存在するとはいいきれず、非現実とする世界もまた、限りなく0%に近いというだけで、絶対に存在しないとはいいきれない。
 『ピーターパン』の作者は、人が妖精なんかいないと言うたびにどこかで妖精がひとり死ぬと言った。心理学者のユングもまた、多数の人が心の奥底でもちあわせている共通のイメージが、実体となって現れることがあると言っている。限りなく0に近い確率を、少しでも100に近づける方法があるとすれば、それは人の心が作る「信」の働きによるのかもしれない。
 わたしは、ゆきがかり上とはいえ、このような本を書いてしまったことの罪滅ぼしに、あらたな妖怪変化を生み出す業もまた世に知らしめようと思う。
 動物園に行くことがあったなら、そこにいる動物の姿を二千年前の人にもわかるよう、他のものにたとえて説明するのだ。それは『山海経』の作者がはるか未来にむけて残した言葉に対する返辞である。
 そして、その姿を言葉通りに思い描くこと、そしてそれを好ましいと、あるいは不気味だと感ずること、そこに何かを感ずることこそ、それら新たな怪異を観ずることのはじめとなるだろう。
 預言者ヨブはこのように書き残した「海の源まで行ったことはあるか、水の深みを捜し求めたことはあるか。では光の住む所にいたる道はどこか、闇について言えば、その場所はどこにあるのか……それらすべてを知っているなら告げてみよ!」
 しかしどうだ、今ではお茶の間でポテトチップスをかじりながら、地球の裏側の獣や深い海の底に住まう魚の姿まで見ることができる。深淵の闇にうかぶ地球の姿を、長椅子に寝そべったまま眺め、灼熱の太陽にある痘痕さえ手に取るように見ることができる。
 人は手軽に、あまりにも多くを知るようになった。だがそれは、多くの驚きを奪うことにもなる。ともすれば、動物園の檻ごしに遠く眺める実像よりも、巧みなカメラワークでとらえた虚像のほうがずっと面白くさえある時代なのだ。
 けれど、人が山海経の業を修得するならば、見慣れたこの世界はたちまち異彩を放ちはじめ、普段は分けいることのない路地を曲がれば、そこに常とは異なる世界をも見いだすことがあろう。
 世界は今も、多くの形なき精のうごめくところである。また形を与えられた精もまた、その決められた形の中から飛び出そうともがいている。ものとそれをとりまく世界との境目が薄かった時代には自由に出入りしていた精気は、確固とした枠にはめられて身動きを禁じられたまま飽和状態にあるはずだ。
 それは破裂寸前までふくらました風船のようなもので、針で突いたほどの穴からも奔流となってほとばしり、何よりも鮮やかな現実となりうるのだ。(後書きへ)
 

前ページへ目次へ次ページへ

 
[an error occurred while processing this directive]