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羊太夫(日本・群馬県)
ひつじだゆう

◆羊太夫の伝説
 むかしむかし。今でいうと群馬県の多野郡というところに羊太夫と呼ばれる人がいました。
 羊太夫は小幡太郎太夫勝定の息子で、本当の名前は宗勝といいますが、誰もその名前では呼びません。朱鳥九年未年の未の月、未の日、未の刻に生まれたので、羊太夫とか羊様と呼ばれていました。

 朱鳥九年といえば西暦六九五年にあたるのだそうです。このころ日本の都は奈良にありました。羊太夫は毎日馬にのって、群馬から奈良まで帝のご機嫌をうかがいにでかけていました。
 群馬から奈良までといったら直線距離にして何キロくらいでしょうね?
 途中に険しい山もありますから、四、五百キロは走らなきゃいけないと思うんですよ。なのに、羊の刻(午後二時〜四時)に奈良を出ると、申の刻(午後四時〜六時)には群馬に帰り着いていたそうです。新幹線なみの速さでしょう?

 羊太夫もすごいんですけど、もっとビックリするのは家来の八束小脛(やつかこはぎ)です。馬に乗って時速二百五十キロ(推定)で突っ走る羊太夫のあとを徒歩でついてまわったというのですよ。これはもうただ者じゃありません。
 実際のところ、八束小脛は謎の多い童子でした。まわりの者に自分の寝姿を決して見せなかったのです。もちろん、主である羊太夫も童子が寝ているところを見たことがありません。

 ところがある日、羊太夫は童子が木陰で昼寝しているのを見てしまいます。珍しいこともあるものだと忍びよってみますと、童子の脇腹には羽がはえているではありませんか。羊太夫はイタズラ心をおこして童子の羽を抜いてしまいました。
 するとどうでしょう。あれほど足の速かった童子は走ることができなくなりました。その日は羊太夫も都へは行きませんでした。

 毎日決まって参内していた羊太夫が来なくなったので、怒った帝は太夫を捕まえて殺してしまいました。
 羊太夫には七人の娘がいました。金の輿にのせて家来が担いで逃げたそうですが、捕まって殺されてしまいました。姫君と金の輿を埋めた場所を七輿山といって、群馬県藤岡市に実在するそうです(別の豪族の古墳だという説のほうが有力ですが)。
 太夫の死を悲しんだ人たちは、羊太夫を神として祀り、いつまでも慕い続けました。

 羊太夫の誕生には謎が多く、ある言い伝えによれば「舟石」という舟の形をした石に乗って空から降りてきたともいいます。この石は今でも群馬県多野郡吉井町に残っています。

 また、名古屋市北区辻町というところには、羊神社というのがあるそうです。これは、羊太夫が群馬から奈良まで参内する途中に立ちよった屋敷の跡だということです。辻町はかつて火辻町と呼ばれており、火の字を嫌って辻町と言うようになったとも言われています。

 ところで、群馬県多野郡吉井町といえば、日本三大古碑のひとつである古い石碑があります。西暦七一一年、この地に多胡郡(昔はそう呼ばれてた)を設置したことを記した碑ですが、その中に郡司の名前と思われる「羊」という文字が出てくるそうです。残念ながら羊太夫との関係ははっきりしません。

◆ゆかりの地を見て来ました
 先日、群馬県の吉井町へ行ってきました。羊太夫伝説の故郷です。伝説に出てくる土地や、羊太夫のモデルになった人のことを記した古碑を見てきました。

 羊太夫のお話はあくまで伝説ですが、吉井町の周辺には太夫の伝説がたくさん残っているので実在の人物がモデルになったのではないかと言われています。

 そのモデルのひとりに「羊」と呼ばれる豪族がいます。吉井町には多胡碑と呼ばれる古い石碑が残っていて、そこにはこんなことが刻まれています。

「弁官の符に上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡、あわせて三郡のうち三百戸を郡となして羊に給い、多胡郡となせ。和銅四年三月九日甲寅の命令である」

 上野国というのは今の群馬県のことです。そこに多胡郡を作って「羊」に与えるという朝廷からの命令が刻まれているのです。

 「羊」という文字が何を意味しているかは、はっきりとわかっていないそうですが、人名だというのが今のところ一番有力な説だということです。

 残念なことに、羊さんについての詳しい記録は残されていません。ただ、吉井町周辺の遺跡からは、糸を紡ぐ道具がたくさん出てきたり、瓦や土器などを大量に作っていたあとが見つかるそうです。これはその当時の最先端技術ですから、羊さんの国はよほど文化的に進んだところだったのでしょう。

 ところで、ヒツジは中央アジア原産の生き物ですから、羊さんが多胡郡をおさめていた時代の日本にヒツジはいなかったはずです。いたとしても、珍しい動物として宮廷のお庭で大事に飼われている程度でしょう。

 そのような珍しい動物の名前が、人の名前になるなんて不思議じゃありませんか?
 当時の人にとって、ヒツジは見たこともない外国の生き物ですから、現代の出来事にたとえれば、生まれた子供に「チビミミナガバンディクート」と名づけるような突飛なことに感じられるのです。

 これについて、多胡碑記念館のガイドさんに聞いてみたところ、昔の人は動物に不思議な力があると信じていたので、その力にあやかるために、動物の名前を名のる人が少なくなかったのだそうです。群馬には海がないのに鯨という名前の人もいたということです。

 羊は十二支にもあてはめられている動物ですから、朝廷から郡の支配を命じられるような偉い人なら名前くらいは知っていたことでしょう。羊は「美」「善」「祥」など縁起のよい文字にも含まれているので、龍や鳳凰と並んでおめでたい生き物と考えられていたかもしれません。

 多胡碑のお話は珍獣の館の日記にも書いておきましたので古代史の好きな方はのぞいてみてください。写真もアップしときます。

2003年7月の珍獣日記
 ここの7月8日

2003年9月の珍獣日記
 ここの9月18日

八束小脛と羊太夫

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