語り部屋珍獣の館山海経博物誌直前に見たページ
縛られ地蔵(東京都)
地蔵を縛ると願いがかなう?
天台宗業平山東泉寺南蔵院
 東京都葛飾区東水元2-28-25
 JR/京成金町駅から徒歩 20 分
 京成バス「地蔵前」「しばられ地蔵」から徒歩 3 分
 [google地図で確認]

 大岡裁きで有名な縛られ地蔵が安置されている。金町駅から散歩気分で歩いてもいいし、駅南口から(京成バス戸ヶ崎操車場行き)に乗って「しばられ地蔵」で下車すれば近い。昔、ここのバス停が「地蔵前」という名前だったような気がするんだけれど、今は「しばられ地蔵」になってるみたい。


 
 江戸の名奉行 大岡越前のことなら時代劇にもなっているのでしっている人は多いですよね。奉行というのは今でいえば裁判官のような役目の人です。弱きを助け、罪を憎み、公平で厳しく、それでいて温情にあふれた裁きをするえらい人だったということです。

 その大岡様の名裁きの中に「縛られ地蔵」という話があります。
 亨保年間八代将軍徳川吉宗の治世といいますから、今からざっと 300 年くらい前のことでしょうか。日本橋のさる呉服問屋の手代(てだい)が荷車に反物を積んで南蔵院の前にさしかかりました。当時、南蔵院は墨田区の本所にありました。

 季節は夏だったと記録されています。境内のイチョウの木が気持ちのよい木陰を作っています。ここらで一休みさせてもらおうかと、手代は荷車をかたわらに置き、木陰で弁当を開いて食べはじめました。

 腹もいっぱいになると眠気がおそってきます。ほんの少しのつもりで寝入ってしまった手代は目が覚めてびっくり。大事な反物を積んだ車がなくなっているではありませんか。慌てた手代は番所(交番のようなところ)へ飛び込んで「泥棒だ。反物を盗まれた!」と訴え出ました。

 この事件は名奉行の大岡様が直々にとりしらべることとなりましたが、目撃者もなく、手がかりはまったくありません。そこで御奉行様は
「寺の門前に立ちながら、盗人のすることを黙って見ているとは地蔵も同罪である。ただちに縄うって召し捕ってまいれ!」
と命令。地蔵はひっくくられて車にのせられ、大勢の与力と同心(ともに警察官のような役目)に守られながら江戸市中を引き回されて南町奉行所まで吊れてこられました。

 地蔵をしょっぴいて行くというんですから沿道の人たちはもうビックリ。いくらなんでも石の地蔵に責任をとらせようなんて、大岡様はいったい何をお考えなんだろうと、江戸中の野次馬が地蔵の後をくっついて歩き、ついには奉行所までついていってしまいました。

 そこで大岡様は奉行所の門を閉めさせ、恐い顔をして一喝。
「ここをいずこと心得る。天下のお白州へ許可なく入り込むとは不届き千万。罰として、ひとりにつき一反の反物を科料申しつける」
と、言いました。

 科料というのは罰金のことです。集まった人たちは慌てて奉行所を出ていき、その日のうちに反物を買って戻ってきました。手代がその反物をひとつひとつ調べると、盗まれた品が混じっているではありませんか。大岡様はさっそく反物の入手経路を調べ、当時江戸市中を荒らしていた盗賊団を一網打尽にしたということです。

 事件を解決し、盗賊団をひっとらえることができたのは、すべて地蔵の霊験のおかげということで、大岡様は立派なお堂をたて、盛大な縄解き供養を行いました。それからというもの、縛られ地蔵は盗難除けに御利益があると評判になり、足止め、厄除け、「縛る」ということから縁結びまで、あらゆる願い事を聞いてくださるお地蔵様になったということです。

 縛られ地蔵のある南蔵院は大正時代に震災にあい、昭和 4 年(1929年)に現在の葛飾区水元に移転しました。大岡様がしょっぴいた地蔵は今も元気に縛られています。

 地蔵堂の裏手にある小さな庭園に水琴窟があります。まだ体験していない人はぜひやってみてください。地面に小さな穴があって、ひしゃくで水を少しずつ垂らすと、地下から金属的な涼しい音が聞こえてきます。

 水元公園も近いので、帰りは公園でお弁当なんか食べると楽しいかもしれません。4 月は桜、桜が終わるとハナミズキ、6 月は花菖蒲が咲きみだれる公園です。(ホントいうと植栽より野草や昆虫や野鳥を見たほうが楽しい野生の王国だったりするんですけどね)

参考>葛飾区産業情報ホームページ

南蔵院
南蔵院:大岡裁きで有名な縛られ地蔵のあるお寺。今は葛飾区にあるが、昔は本所中之郷(墨田区吾妻橋三丁目)にあった。関東大震災で被災して昭和 4 年に現在の場所に引っ越したとのこと。
 
ぐるぐる巻きの地蔵
縛られ地蔵:荒縄で地蔵をしばると願いがかなうといわれてる。
 
願掛け縄
願掛け縄:ここで縄を買って地蔵を縛る。1 本 100 円。願い事をしながら縛り、かなったら縄をほどく決まりだが、後から後から縛られていくので自分の縄はすぐわからなくなってしまう。
 
顔までくるぐる巻き
顔までぐるぐる巻き:このとおり、顔までぐるぐる巻きにされて頑張ってます。大晦日に「縄解き供養」をするのでお正月に来ると地蔵の素顔が見られるかも。
結びだるま 太子堂
結びだるま:大晦日・元旦の縄解き供養の日には「結びだるま」を売る市も立つらしい(まだ見たことないんだよ)。縁起だるまの左目にお地蔵様の種字(梵字でハ(カ)と発音する文字)を書き込んで、腹のところに荒縄を結んだものだそうです。
 2004年大晦日。縄解き供養を見に行きました。レポートはこちら。
太子堂:なぜか聖徳太子をお祀りするお堂まであったりする。夢殿と同じく六角形の建物である。
 

珍獣様の語り部屋・しばられ地蔵と大岡越前関連リンク
 大岡裁き(一)子争い
 大岡裁き(二)縛られ地蔵
 これらの話は、実際のところ、大岡越前とはなんの関係もない故事をもとにした創作ばかりだそうです。地蔵を取り調べて盗人をみつける話は日本のもっと古い時代のお裁きの逸話として残っていますし、それどころか中国の古典に似た話があるということです。

 大岡越前は八代将軍徳川吉宗とともに享保の改革を成功させた人です。『暴れん坊将軍』という時代劇で有名ですが、徳川吉宗は目安箱というのを設置して民衆の生の声を聞こうとしましたし、それまでご禁制だった洋書の輸入を解禁して西洋の進んだ技術(特に医学)を取り入れやすい環境を作りました。それに、小石川に療養所(病院)を作って、貧しい人でも医者にかかれるように取りはからいました。

 そういった「民衆のため」をうたった政治が評判になり、補佐役の大岡越前も人情を理解する立派なお奉行様と信じられていたのだと思います。

 ただし、大岡越前と将軍様の改革はいいことばかりではありませんでした。それまでは、不作のときには軽く、豊作の時には重い年貢(税金みたいなもんです)を取り立てていましたが、吉宗の時代からは何があっても一定の割合で年貢を払わなければならなくなりました。

 このやり方だと、豊作の時には余裕ができていいのですが、1732年(享保17年)に中国・四国地方と九州一帯にウンカという害虫が大量発生してひどい不作になりました。にもかかわらず、年貢はいつもの年と同じように取り立てられたので、農村では餓死者が続出。これは享保の大飢饉と呼ばれるもので、江戸時代の三大飢饉のひとつに数えられるほどひどいものでした。

 年貢の率を一定にしたのは、実際には凶作なのに「こんなに稔っているならもっと年貢を上げてやろう」なんてことを言い出す馬鹿役人をとりしまるためなんじゃないかと想像するのですが、せっかくの政策も天災のおかげで裏目に出て、暴れん坊将軍も大岡様も、西日本の農村ではかなり恨まれてたんじゃないかと思います。

 

語り部屋珍獣の館山海経博物誌直前に見たページ