羆(ひ)  ヒ
羆
 獣がいる。そのかたちは麋(なれしか)のようで、その州(あな)は尾の上にある。名は羆という。(北山経三の巻)
 

絵・文とも『山海経』より


 
 羆とは普通はヒグマ、もしくは大きくて気の荒い熊のことだが、ここでは鹿の仲間になっている。漢和辞典を引いてみると、(なれしか)はトナカイのこととある。大型で羆のように気の荒い鹿だと言いたいのだろうか。
 トナカイは北極圏を中心に広く分布する動物で、北方の民族が古くから家畜として飼っていたようだ。鹿の仲間でメスにも角があるのはトナカイだけ。しかも、トナカイは草やコケのような植物質のものだけでなく、ネズミなどの小動物も食べるそうだ。そのあたりから気性の強さを連想したのだろうか?

 それにしても「尾の上の州」というのはなんだろう。平凡社ライブラリーの『山海経』には州に「あな」という訳注がついている。肛門のことだろうか?しかし、いくらなんでも尾の上に肛門のある生き物はいない。
 あらためて州という文字を漢和辞典でひいてみると、川に囲まれた盛り上がった土地だと書かれている。あな というよりはコブのようなものではないかと思う。コブだとしても、尾の上に目立ったコブのあるシカはたぶんいない。しかし、とにかくコブだとすればジャコウジカが有力候補にあげられると思う。
 
 ジャコウジカは名前のとおり香料の麝香(ムスク)の原料になる鹿だ。正確にいうと、この鹿の下腹部にある麝香嚢からとれる分泌物が麝香である。
 麝香は香料として香りを楽しむほかに、薬としても使われた。特になんの病気の特効薬というものでもないが、他の薬の効き目を引き出したり、もうろうとする意識をはっきりさせる効果があるという。

ジャコウジカの麝香嚢 ジャコウジカの麝香嚢
 ジャコウジカの下腹部にあって、このなかの分泌腺から麝香が分泌される。麝香嚢ごと切り取って乾燥させたものが流通していたようだ。大きさは卵大で、強い香りがある(らしい)。でも、いかにも麝香っぽい香りのものは良品ではないとか。
 下腹部といっても範囲は広いが、ジャコウジカのどの部分に、どんな様子で麝香嚢がついているのか、調べてみたが良くわからなかった。『山海経』の時代から2千年もたっているというのに、辞書も図鑑も肝心のこととなると何も書かれてはいないのだ。古代の博物学者もこんなもどかしい思いをしたのだろうか?
 そのうち機会があれば、上野動物園に行って動物のエライ人に聞いてみようとは思っている。
 おそらく、この麝香嚢を「州」と表現したのだろう。

 しかし、実物のジャコウジカは体調メートル弱と小型で、オス・メスともに角がなく、トナカイとは似てもにつかない。それどころかシカにすら似ていないので、麝香犬などと呼ばれるほどだ。けれどジャコウジカのオスには長い牙がるので、そのうわさだけで大型の鹿を連想したのかもしれない。

 牙というと普通は肉食の動物が獲物を襲うのに使うものだが、草食動物のジャコウジカの牙はなんに使うのだろう?図鑑や辞書をひっくりかえして調べてみたが、ジャコウジカの性質について詳しく書かれた本がみつからなかった。
 同じように牙をもつ小型のシカにキバノロというのがいるが、気が強いどころか非常に驚きやすい生き物だという。
ジャコウジカ
 中央アジア・中国東北部・朝鮮・樺太の山地に棲息する小型の鹿。オスは上顎の犬歯が発達する。オス・メスともに角はない。繁殖期になると下腹部にある麝香嚢が発達し、強い香りで異性を呼ぶ。別名:麝香犬
ジャコウジカ



 
 また、西山経で1回、中山経で1回、という文字でジャコウジカそのものが記録されているが、名前だけで解説はない。

 ジャコウジカは現在数がへり、ワシントン条約で輸出入を規制されている。そのため天然の麝香はほとんど手に入らないが、かわりに合成麝香が使われている。どんな香りかというと、化粧品や香水に特有の、頭がくらくらするような強烈な香りだ。麝香だけでは強烈すぎるので、香りを楽しむためには他の香料でうまく緩和しながら、麝香の良さを引き出さなければならないようだ。
 池袋の古代オリエント博物館で開催された『香りの世界展』で、クレオパトラが愛用した香りを再現して展示していた。主な成分は、没薬(ミルラ)・肉桂(シナモン)・レモングラス・薔薇水・麝香だそうで、麝香の強烈な香りを他の成分が上手にやわらげて、いやみのない香りに仕上がっていた。もっとも、展示物の解説によれば、クレオパトラが使った麝香はジャコウジカではなくジャコウネコ(マングースに近い生き物でマレー半島・スリランカ・インド・華南・台湾などに棲息)のものだと書いてあった。

 
 
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