人を食う牛
 
 
 前のページでは、牛なのに人食いな生き物を紹介した。
 牛は草を食べる生き物だ。気の荒い野牛なら、怒らせれば人を突き殺すこともあるだろうが、草食動物であることにかわりはない。餌にもならない人間なんかを好んで食べるとは思えない。
 しかし、『山海経』には、なぜか人食い牛がたくさん登場する。
 
 
犀渠
サイキョ
犀渠

 獣がいる、そのかたちは牛のようで蒼いからだ、その声は嬰児のよう、これは人食いである、その名は犀渠。(中山経四の巻)--299
 

絵・文とも『山海経』より
  
 
アツユ
アツユ

 獣がいる、そのかたちは牛のようで赤いからだ、人面で馬足、名はアツユ。その声は嬰児のようで、これは人食いである。(北山経一の巻)--141

『山海経』より

 
 アツユは別の部分で「竜の首」と書かれたり、人間の姿をした挿し絵もあるが、それは別の機会にとりあげることにしよう。

 牛は草食動物だが、体も大きく立派な角があり、力も強い。そのため、野生の牛をうち負かすことが大人の男の象徴とされる民族はけっこうあるようだ。その反面、飼い慣らされた牛というのは、ともするとのろまなイメージさえ抱かせる。
 野生の牛の荒々しさと、飼い慣らされた牛の温厚なイメージ。牛はまったく反対の印象を兼ね備えた生き物だ。それは、ヒトという生き物の性質に似ている。
 野牛のような心を、理性という引き綱で制御して、家畜の牛のように温厚に生きているのが人間だ。牛は、人が心のどこかに抱いている、ケダモノの心を象徴するのにふさわしい気がする。

 人食い牛といえば、こんなのもいる。


 
キュウキ
窮奇

 頂上に獣がいる、そのかたちは牛のよう、はりねずみの毛、名は窮奇。声は犬のほえるよう。これは人食いである。(西山経四の巻)--120

 窮奇は、かたちは虎のようで翼があり、人を食うのに首からはじめる。食われる者は髪を振り乱している。(海内北経)--598
 

『山海経』より
 
 
 窮奇は西山経では人食い牛として現れ、海内北経で翼のある虎として登場している。
 牛と虎?
 何かピンとくるものはないだろうか?
[追記]
 『春秋左伝』に「少昊に不才の子あり、天下の民これを窮奇と謂う」とある。少昊といえば方角でいうと西、五行でいえば金(金属)をつかさどる伝説上の帝である。その息子が牛身であったり、虎身であったりするのは、やはりタタラ場となんらかの関係があるものと思われる。
◎関連項目
山海経動物記「三本足の牛」
山海経異聞録「一つ目・一本足・一本腕の民」
 
 
レイレイ
レイレイ

 獣がいる、そのかたちは牛のようで虎の文、その声はうめくよう、その名はレイレイ。鳴くときは自分の名を呼ぶ。これが現れると天下に洪水がおこる。(東山経二の巻)--228
 

『山海経』より
 
 
 人食いでこそないが、虎模様。そして、この生き物は人の力で制御できない恐怖の前触れである。

 この調子で虎の怪も見てゆこう。

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